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日清戦争


あらまし

 ★ 朝鮮から宗主国清国の影響力を排除して日本の権益を増大させるため、日本が(朝鮮と)清国に仕掛けた戦争です。
 ★ 序盤の戦闘に大勝したため戦争目的を拡張し、清国からの領土割譲も狙い、台湾と遼東半島を獲得しました。
 ★以下の理由で列強の東アジア進出を勢いづかせる事となり、特にロシアの進出を招いた事でかえって朝鮮は不安定になりました。

   ⇒ 多額の賠償金で清国を列強諸国からの借款借り入れ、租借地拡大に追いやり、列強の東アジア進出再強化と清の疲弊を招いた
   ⇒日本の横暴を嫌った朝鮮王朝が自らロシアを招き入れる結果となった

 「ある戦争の本質は、その戦争の帰結としての講和条約にもっとも明確に示されています」(原朗「日清・日露戦争をどう見るか」)。
 戦争の目的を果たすには、得たかったものを講和で要求する事になりますから、戦闘で圧倒した日本側が日清講和条約に盛り込んだ事に当時の日本のホンネ、つまり日本側の戦争目的が存分に現れていると考えていいでしょう。

 最初に派兵する時は居留民保護を名分にしていましたが、派遣軍の第一陣が到着した時は現地の争乱が収まった後でした。駐留を続ける理由がありません。
 開戦を回避するチャンスは幾度もあったし、望まない偶発戦闘なら拡大する前に止めようとしている筈だし、自ら休戦を申し入れても不利にならないだけの勝利を重ねていたのですから、細部のエピソードを切り抜き出して自衛戦闘だった云々の言い訳をしても戦争全体の説明にはならないのです。

 百歩譲って、朝鮮自身による近代化(甲午改革)を結果として助けたと考えるにしても、それを閔妃暗殺で自らぶちこわしてしまいました。
 日本の横暴を嫌った王様がロシアに逃げ込んで、日露戦争の火種まで呼び込んでしまったのですから、軍事力でのバカ押しには意味がなかったのです。
 戦国時代劇に毒された発想で歴史をいくら眺めても、正解にはたどり着けないと知るべきでしょう。



年表

大筋だけおさえるには、大文字のところだけ拾って流し読みしてしてください。

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西暦 明治 月日 日本 朝鮮 中国(清)
1894 27 2月
【東学農民革命勃発】
全羅道古阜で民衆武装蜂起始まる

 
4/20 蜂起軍、
「輔国安民をもって死生の誓いとする」布告
弊政改革と「斥倭洋唱義」=外国勢排除を訴える
 
5/31 農民軍、全州に入城
政府、鎮圧のため清への派兵要請を決定
6/1 朝鮮国政府が清に派兵を要請する旨、漢城の杉村代理公使から東京に報告
6/2 衆院解散と朝鮮派兵を閣議決定
混成1個旅団(=8035人)
勅語上の名目は在留邦人の保護
6/3 袁世凱、派兵要請の朝鮮側公文書受領
6/4 袁世凱、杉村代理公使に公文受領を知らせる
6/5 大本営設置 戦時体制に
6/6 先発隊1024名出発命令 北洋陸軍2千名を海路で忠清道・牙山に派遣
(牙山は全州の農民軍と漢城の間。地図参照)
6/7 【行文知照】天津条約に基づき清に出兵通告 【行文知照】天津条約に基づき日本に出兵通告
 天津駐在日本領事から日本側通告を受け、清は漢城へ入らないので日本は仁川から先に進まない等の6か条を戦闘回避策として要請
6/10 大鳥公使が漢城に帰任
6/11 大鳥公使、漢城は平穏として派兵見合わせを本国に要請。陸奥外相は拒否 政府と農民軍の全州和約成立、停戦
6/12 派兵先発隊、仁川に上陸
6/15 大鳥公使と袁世凱が民乱静穏化後の撤兵で一致
対清提案を閣議決定
「朝鮮の共同改良、嫌なら日本単独で」
袁世凱が民乱静穏化後の撤兵で大鳥日本公使と意見一致
6/21 混成旅団の残りを輸送再開決定 日本の「朝鮮改良」提案拒否(朝鮮自身が行うべき)、内乱は鎮定済みとして、天津条約に従い撤兵を主張
6/22 仁川滞在部隊の漢城移動を指示
6/23 清駐日公使に朝鮮改革の協定提案 (第一次絶交書)
6/25 派遣軍4千名、漢城の王宮から3~4km南の龍山に布陣 約5百名を増援
6/28 英国が日清調停に乗り出す姿勢を見せる
大鳥公使、「清の属国か否か」を朝鮮政府に照会
6/30 └→回答督促 朝鮮は自主国だが、自ら派兵を頼んだ手前、清に撤兵要求できないと回答
英国の調停案提示を受け、現地に開戦不可の指示
7/9 日本の撤兵が前提として英国調停案を拒否
7/11 英国調停案拒否を非難する第二次絶交書を閣議決定
7/15 李鴻章、牙山の部隊に平壌への海路撤退を指示
7/18 日本側の「改革」介入案に対し、内政改革は日本が撤兵した後自分でやる旨拒否回答 牙山部隊、海路危険として撤退拒否、増援要請
└→海路2300人を増援決定
7/19 英国第二次調停案への回答期限を7/24と清に通告
7/20 朝鮮政府に ①朝清間の条約規制の廃棄、②清軍撤退を要求
7/22 ①改革は自分でやる ②乱は収まったので日清双方が撤兵、と日本に回答 李鴻章、戦争回避のため密使派遣と会談などを日本の在天津領事に申し入れ
西暦 明治 月日 日本 朝鮮 中国(清)
1894 27 7/23 朝鮮王宮を急襲、占拠】
王を捕えて大院君を執政に据える

清軍撃退依頼を出すよう大院君に要求
→王宮を占拠されて王を捕われる
 大院君が摂政に返り咲く
連合艦隊、佐世保を出港して黄海へ
7/25 談判の末「委任状体の書面」を大院君から獲得
【清にも先制攻撃】 豊島沖会戦
牙山増援の清軍を載せた船団を攻撃
【豊島沖会戦】
牙山増援軍と護衛の軍艦を攻撃される
7/27 開化派の金弘集を領議政(首相相当)に任命
軍国機務処を設置、総裁は金弘集が兼任
朝鮮・列強の反発をおそれ、 
当初は積極的干渉せず→
甲午改革:王室と国政の分離、身分制度改革、租税の貨幣化と度量衡統一など3ヶ月で208本の議決
7/29 【陸戦始める】 成歓(牙山の北東約20km)の清軍を攻撃、戦端開く 【陸戦始まる】
成歓に布陣し日本軍を迎撃、敗退
7/30 牙山へ侵攻し制圧 牙山で日本軍と戦闘 →敗走
8/1 【清国に宣戦布告の発表】 【日本に宣戦布告の発表】
8/14 大本営、本年の作戦目標
朝鮮半島の軍事的確保と訓示
8/20 日朝暫定合同約款を強要 ①朝鮮の内政「改革」に日本が関与 ②鉄道と電信線 (漢城~釜山、漢城~仁川)を日本が敷設、③全羅道沿岸の開港 などを認めさせる
8/26 大日本大朝鮮両国盟約を強要 日本軍の糧食確保のため朝鮮政府が最大限の努力
8/28 大院君、日本軍撃退を平壌の清軍に依頼するよう指示
9/15 平壌占領 平壌陥落、敗走
9/17 黄海会戦に勝利 黄海会戦に敗北
10/9 東学農民軍が再度蜂起
10/25 【戦争目標の拡大】
日本軍、鴨緑江を渡り中国領に侵入
駐朝鮮公使が井上馨に交代、
翌月から日本人顧問を朝鮮政府に送り込み始める
10/27 川上兵站総監、東学党は皆殺しにせよと指示
「東学党ニ対スル処置ハ厳烈ナルヲ要ス向後悉ク殺戮スヘシ」(陣中日誌 C06062204300 P85)
11/20 日本軍と朝鮮政府軍、東学農民軍と戦闘開始 東学農民軍、人海戦法で日本軍と戦闘開始
11/21 旅順占領、旅順虐殺事件 旅順陥落
↓激戦を続けながら朝鮮半島西南端に追い詰められる
12/17 第二次金弘集政権発足
12/28 東学農民軍指導者全琫準、逮捕される
1895 28 1/7 王・高宗が洪範14条を宣布
併せて独立誓告文を宣布、清への宗属を否定
2/12 山東半島先端の威海衛を占領 威海衛を占領される
3/23 台湾沖の澎湖列島を占領 澎湖列島を占領される
4/17 下関条約(日清講和条約)締結
①朝鮮の独立承認
②賠償金2億両獲得 担保として威海衛を占領
③台湾と遼東半島の割譲

④清の開港、資本輸出権の獲得
清との冊封関係から最終的に離脱 下関条約(日清講和条約)締結

④日本に資本輸出権(工場建設など)を与えた事が、最恵国待遇を持つ他の列強諸国にも波及適用され、中国での列強勢力争い活発化の一因に
4/23 【三国干渉】 ロシア、フランス、ドイツ公使が 「遼東半島領有は清国の首都と朝鮮の独立を脅かすので認めない」 との覚書を日本政府に渡す
5/5 日本、三国干渉を受け入れ
遼東半島は3千万両で清に返還(11月条約締結)
以後、巨額賠償を賄うため列強諸国に領地租借や借款借り入れを重ね、弱体化
列強諸国は清の弱体化を再認識し進出を強化
西暦 明治 月日 日本 朝鮮 ↓ロシア
1895 28 7/6 朴泳孝が失脚。閔氏派がロシア公使の力を借りて、8月には政権に返り咲く ←閔氏派を支援
9/1 三浦悟楼が駐朝日本公使に着任
10/8 乙未事変(閔妃暗殺事件)  三浦公使の謀略により暗殺隊が王宮に侵入、閔妃らを暗殺
1896 29 1月 太陽暦に切り替え
断髪令を契機に「国母復讐」を唱える反日義兵闘争が始まる
2/11 【露館播遷】 親露派がクーデターを起こし、王・高宗を日本の圧力の及ばないロシア公使館に移す 開化派閣僚は暗殺・一掃される ←仁川停泊中の軍艦将兵がクーデターを助力
日本の影響力低下 ロシアの影響力増大
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