朝鮮開国から日清戦争前夜まであらまし:
冊封体制下で中国(清)の属国だった李氏朝鮮は、強烈な攘夷思想から、西洋に対して頑なに鎖国をがんばっていました。 |
西暦 | 明治 | 事件 | 日本 | 朝鮮 | 中国(清) |
1853 | 米海軍ペリーの艦隊が浦賀に来航、開国要求 | 1392年から李氏王朝統治、国号は「朝鮮」 中国(清)冊封体制下の属国に位置づけ |
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1854 | 日米和親条約に江戸幕府が調印 | ||||
1858 | 日米修好通商条約に江戸幕府が調印 | ||||
1860 | 北京条約により、ロシアと国境を接する事になる← | アロー号戦争 北京陥落、英仏に敗退 | |||
1863 | 薩英戦争:薩摩を英国が攻撃 薩摩が賠償支払 | 高宗が王に即位、実父の興宣大院君が実権を握る | |||
1864 | 下関戦争:長州藩が攘夷の報復として米英仏蘭4カ国連合艦隊の攻撃を受け敗退 | この時期、ロシアの南下を抑えるべくフランスと結ぼうとするがうまくいかず断念 | |||
1866 | 丙寅洋擾: 開国要求のため江華島に上陸のフランス軍を撃退 シャーマン号事件: 大同江を遡上してきた米艦シャーマン号を焼き討ち |
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1868 | 元 | 王政復古、江戸開城、明治政府樹立 | 大院君の父の墓を暴こうとした独仏民間人を撃退 | ||
王政復古を朝鮮に通告、国交継承申し入れ | →「皇」「勅」など朝鮮を格下に置く文言を無礼として拒否 | ||||
1871 | 4 | 辛未洋擾:開国要求のため来襲した米海軍を撃退 | |||
斥和碑を全国200ヶ所に建て衛正斥邪(朱子学に則った強硬な攘夷政策)を明らかにする | |||||
日清修好条規を天津で締結 相互に治外法権を認める”対等”条約 →清と対等に立ち朝鮮への立場強化 |
日清修好条規を日本と締結 | ||||
1873 | 6 | 明治6年政変:征韓論(朝鮮の武力開国)を 唱えた西郷隆盛らが政争に敗れ、下野 |
攘夷派の大院君が失脚、閔妃派が実権掌握 (閔妃は王・高宗の妃、明成皇后。閔氏一族) |
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1874 | 7 | 閔氏政権は開国論に傾き、釜山の旧倭館を通じ日本と接触開始 (倭館は江戸時代に外交窓口の対馬藩が使用) |
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西暦 | 明治 | 事件 | 日本 | 朝鮮 | 中国(清) |
1875 | 8 | 江華島事件 | 日本は航路測量を名目に軍艦雲揚号を朝鮮に派遣、江華島で朝鮮側を挑発し戦闘。 更に上陸して朝鮮側軍民35名を殺害し戦利品を持ち帰る |
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1876 | 9 | 日朝修好条規 (江華島条約) 締結 |
黒田清隆全権が軍艦6隻を従え江華島に赴き 開国を要求、条約と付属文書の締結に持ち込む 日本通貨流通、米穀貿易を認めさせる |
【日本に対して開国】 日本との外交修復を決定。開港のほか日本貨幣の流通、無関税、日本の治外法権を認めた不平等条約 | |
修信使として金綺秀を日本に派遣、文明開化の見聞収集 | |||||
1880 | 13 | 金弘集の第二次修信使を日本視察に派遣 →開化加速へ | |||
1881 | 14 | 軍制改革・新式軍隊別技軍の創設 朝士視察団を日本に派遣、政府機構などを調査 |
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1882 | 15 | 朝米修好通商条約を調印 欧米諸国に対しても開国 | ←日露牽制の為欧米と結ぶよう助言 | ||
壬午事変 | 襲撃を受け、生き残りの公使館員は海へ脱出 | 大院君に扇動された旧軍兵士が日本公使館を焼き討ち、閔氏政権高官を殺害、大院君が政権を一時奪取 閔妃は辛くも脱出。清の派兵により政権を取り返す 以後、清への依存強まる |
→要請により朝鮮派兵、そのまま駐留 大院君を鎮圧して天津に幽閉 以後、朝鮮への干渉強化 |
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済物浦条約調印 | 公使館護衛のため日本軍が首都漢城に駐留する権利を朝鮮が認める | ←馬建忠が間をとりもつ | |||
中国朝鮮商民水陸貿易章程調印 清は朝鮮の宗主国と明文化して、他国への最恵国待遇を斥けつつ清国商人の朝鮮国内自由通行を認めさせる(→清の交易が優位に) | |||||
官職登用の条件から身分を外す | |||||
1883 | 16 | 在朝鮮国日本人民通商章程を締結、協定関税制度に移行(関税自主権は引き続き無し) | |||
朝英・朝独修好通商条約調印 不平等条約 列強の内地通商権拡大、朝鮮は国際市場に晒される事に |
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近代的新聞「漢城旬報」発刊 | |||||
1884 | 17 | 甲申政変 | 兵を出してクーデター支援するが、清軍に阻まれ失敗 | 急進開化派が「独立党」を結成し、日本を頼りにクーデターを起こすが失敗。首謀者金玉均は日本に亡命 | 袁世凱が漢城駐留軍を用い クーデター鎮圧 |
1885 | 18 | 天津条約調印 | 日清双方が朝鮮から撤兵。軍事顧問も第三国 からとする。再派兵は相手方に事前通知する |
天津条約を日本と調印 | |
西暦 | 明治 | 事件 | 日本 | 朝鮮 | 中国(清) |
1885 | 18 | 内閣制度発足 | 朝鮮の永世中立化をドイツ副領事ブドぅラーが提案、清の反対で立ち消え 英国がロシア牽制の為、朝鮮南部の巨文島を占領 |
大院君を赦免、高宗政権のロシア接近を牽制 | |
1886 | 19 | 朝露密約の試みが清に漏れて失敗 (第三国と紛争時にロシアが軍事的に保護) |
朝露密約を潰す | ||
奴婢世襲制を廃止 | |||||
1887 | 20 | ロシアから「が朝鮮のいかなる地点も占領しない」との言質を取り、英国は巨文島から撤退 | 朝鮮の欧米使節派遣を妨害 宗主権を外交権の制限に用い始める |
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1889 | 22 | 明治憲法発布 | 防穀令(米穀の対日輸出禁止)発令、凶作の為 後年賠償問題に |
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1890 | 23 | 3月)山県首相、朝鮮を「利益線」とする意見書を閣僚に提出。日清共同での朝鮮中立国化を提唱 | |||
12月)帝国議会開会。山県首相施政演説で、 利益線=朝鮮を確保の為の軍拡を主張 [官報] |
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1893 | 26 | 防穀令の賠償交渉、清(李鴻章)に仲介頼み決着 | |||