資料: 大鳥圭介・駐漢城公使から大島陸軍少将への電報(1894年6月11日)


民乱は静まっているので大兵団を上陸させないほうが良い、と公使が連絡している文書です。
国立公文書館・アジア歴史資料センターのWebで原文を見ることができます

変体仮名を使わない、比較的読みやすい字なのですが、ページを作りついでに現代語抄訳をさくっと作ってみました。

護衛兵上陸方につき協議

昨10日夜外務大臣より、歩兵大隊(千人)工兵1小隊(五十人)を陸軍少佐一戸兵衛氏が引率して和哥浦丸に乗り組み、本月9日午前1時忠海を出帆したとの電報があった。
また本日午後同大臣より、本月10日夜に越後丸、11日早朝に熊本丸、木津川丸および近江丸、午前には筑後川丸が出帆し、貴官は近江丸に乗り組むとの電報をいただいている。
考えるに、これはたぶん本官が東京滞在中に承知した混成旅団を全て出発させたのではないと推測される。

一方、当国の全羅道各地における民乱の状況は、昨今やや鎮静に傾いており、来援の清兵も先発兵がおよそ一千人ほど牙山に上陸しているが、未だ戦地に向かって出発したとの報告はない。他の千百人ほどは牙山に滞泊して、上陸を差し控えていると聞いている。

恐らく、朝鮮政府は一旦清に出兵応援を請求したものの、その後我が国が朝鮮派兵の行動に出たためこれに恐懼し、清兵にこれ以上の上陸は止めて早く撤収して欲しい旨申し入れたためではなかろうかと推察する。
加えて、京城(漢城=ソウルの事)の形勢は目下すこぶる平穏で、警戒を要するほどの事はない。

ついてはこの際、我が国が多数の兵員を上陸させて京城に突進させるのは挙動はなはだしく不穏当であり、外交上極めて不得策と考える。その理由は:

1)当地に我が兵員を派遣することは、条約に照らせば我が公使館の警備に充てるに過ぎないが、その名目から考えると多数の兵員は必要ない。
 明治十五年にはじめて護衛兵を置いた際は、初め歩兵1大隊を置き、その後序々に減らして1中隊とした。ゆえに、公館警備のためなら多くても1大隊以上の兵を置くのは前例に照らして不穏当となる。
 このせいで清・韓(=朝鮮)両国が、日本に野心があるのではないかとの疑いを起こさせるだけでなく、その他の各国も必ずこれを見て穏当の所為とは看做さないだろう。多数の兵を朝鮮に入れる行動は我が国の外交上損はしても益はないと考えられる。

2)目下清国はまさに牙山の兵を撤退しようとしている説があるのに、もし我が国が多数の兵を京城に入れるなら、清国もまた日本を疑い、必ず兵を京城に入れるだろう。そうなれば大事を引き起こす事が考えられ、国交上実に危険な事と考えられる。

以上の理由により、目下大兵を京城に入れることは本官において到底是認できかねるので、その旨を本日外務大臣に打電した。ついては、貴官御引率の各隊が仁川に到着したら、さしあたり以下の通り取り扱いされたし。

(以下略)


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