トップページ > 韓国・朝鮮編 >
『データで見る植民地朝鮮史』トップへ 植民地期の年表を見る

ファシズムと戦争への巻き添え

 
日本本土の日本人ですら酷い目に逢ったのに、植民地が無事である筈がありません。

まとめ

@ 皇民化政策で心の自由を侵害され、言語までも抑圧された。
A いわゆる朝鮮人強制連行を初めとする様々な労務動員に、概ね満足な報酬なしに狩り出された。
B 農村は自分の食糧にも欠くほどの食糧供出を強いられた。
C 放漫な戦争財政により高率のインフレに晒される中、郵便貯金や国債の形で財産を召し上げられた。
D 軍隊への動員、ひいては徴兵への対象とされた。戦死者約2万人や戦傷者、戦犯も出している。


 植民地化により朝鮮が受けた被害はこの時期に留まりませんが、大きなものが日中戦争に突入した1937年以降に集中発生しています。

記事に飛ぶ     労働力の召し上げ
 道内の労務動員
 学徒動員と女子挺身隊
飯の召し上げ 財産の召し上げ 命の召し上げ
 陸軍特別志願兵制度
 学徒出陣
 徴兵制実施
 動員・戦死者数、戦傷者の戦後
 BC級戦犯
おわりに

狂気の皇民化政策、創氏改名に日本語強要


 日本風の名字を半ば押し付ける、というあの悪名高く素っ頓狂な創氏改名は教科書にも載っていますが、創氏改名だけが孤立して存在したのではなく、皇居遥拝や神社参拝、日本語の押しつけなど他の様々な同化政策の一環でした。
 同化政策は特定の総督によってのみ行われた訳ではありませんが、南次郎総督の時代に皇民化政策として特に強化されました。これは日本本土に先駆けたファシズムへの傾斜でもありました。
 (創氏改名については別ページ「創氏改名」で詳述しているので、ここでは説明を略します)

 陸軍大将南次郎が宇垣一成の後をうけて朝鮮総督に就任したのは1936年(昭和11年)8月5日、後任の小磯国昭に引き継いだのは1942年5月29日です。

 南は就任にあたり、五大政網と称して「国体明徴」「鮮満一如」「教学振作」「農工併進」「庶政刷新」を方針に掲げ、「五大方針は統治の根本趣旨たる内鮮一体の本流に沿ふて一層新たなる意義を帯び其の実績を挙げ得たることに想到し得るのであります」とぶちあげています施政三十年史 P410、太字は引用者)
 国体明徴とは要するに日本が神の子孫たる天皇中心の国家である事を徹底するという意味です岡田内閣の声明参照)教学振作とは、この国体明徴なるカルト信仰を教育の世界に展開して、「必勝ノ信念尽忠報国精神ノ昂揚、戦時国民道義ノ確立ヲ図ル」という代物です1943.12.10閣議決定参照)

 そして、腹心の部下として塩原時三郎という人物を満州国政府から引き抜き、「教学」を所轄する学務局長に据えています。
 南と塩原は、かつて平沼騏一郎が検事総長時代に結成した右翼結社「国本社」に、荒木貞夫らと共に加わっていました(岡崎茂樹 『時代を作る男塩原時三郎』 P56)
 2人が目指したのは、朝鮮人民を軍国日本に忠実に奉仕する臣民に仕立てあげる皇民化でした。
 その目的は、後年の南自身によれば次のような趣旨で、要するに徴兵するためでした。

 「朝鮮同胞も 天皇陛下の赤子であり皇国臣民であることにおいて内地人といささかの相違もない。…畏くも大御心は内鮮一視同仁、ひとしく 陛下の御民として皇澤をあまねからしめられるにある。これ実に我国体の万邦に冠絶し比類を見ない所以ではないか。」
 「日韓は合邦にあらずして併合である。…即ち朝鮮は我皇室の御仁慈の下に併合されたのである。」
 「さて、しかし内鮮一体といっても、ただ言葉にし文字に記すだけでは何にもならないのみならず、徒らな口頭禅にをはってはかへって反感反動をまねくばかりであるどうしてもこれを具体的の施策として朝鮮同胞の眼前にあらはし、その納得を獲なくてはならない。その具現として徴兵制度施行これあるのみと考へられた次第である。」
 「しかし、徴兵制度実施のためには、その準備がまだまだ十分ではなかった。…教育を振興して、徳育智育の向上をはからねばならぬ。国語普及の必要も絶対である。さうして、より大切なことは朝鮮同胞の皇国臣民たる自覚、この自覚をはっきりさせることだ。皇民化政策はここにおいて強力に実行された。皇国臣民の誓詞、愛国日の設定、国民総力聯盟の活動、教育制度の改正による学校名の内鮮統一及び教育施設の拡充、創氏制度を実施して半島民に氏を創めることを許し、それも内地名を用ひることを勧奨したことなど、すべて精神的皇民化のための施策であった」
南次郎 『内鮮一体・鮮満一如』 「写真報道:戦ふ朝鮮」掲載、1945年)

※上の文中「朝鮮同胞も 天皇陛下の…」という具合に一文字空白を入れるのは、
尊い「天皇」の直上に文字が入るのは不敬だ、という当時のカルトな文法です。
「陛下」の前にも空白が入っています。この時代の文献は皆この調子。

 この路線に基づき、南政権は在任中に次のような施策を実行していきます。

1936年 12月 朝鮮思想犯保護観察令を制定 治安維持法の刑猶予者、仮出獄者の監視、交友制限などを規定
1937年 4月 道知事会議で五大政網を発表 「国体明徴」「鮮満一如」「教学振作」「農工併進」「庶政刷新」
7月 盧溝橋事件発生、日中全面戦争へ
7月 朝鮮中央情報委員会設置 朝鮮の全報道機関を統制下へ
10月 皇国臣民の誓詞を発布 朝鮮人にあまねく暗唱を強制 普及手段の例
11月 毎月1日を愛国日と決定
1938年 2月 陸軍特別志願兵令を制定 朝鮮人も志願者は日本兵に
3月 朝鮮教育令改正 (第三次朝鮮教育令)  朝鮮人・日本人の学制を一本化、朝鮮語は正課から外れる
5月 国家総動員法を朝鮮にも適用
7月 国民精神総動員朝鮮連盟を設立  総督を総裁とし、職場や地方行政単位まで支部を擁する二重統制組織
1939年 2月 総動員連盟に愛国班を設ける 朝鮮人400万人以上を加入させ、宮城遥拝や神社参拝などを強いる
9月 労務者の朝鮮外計画動員開始 初年度のみ応募好調なるも、直に強制連行に変質
10月 全鮮儒林大会で国民精神総動員運動に協力決議 南総督と塩原学務局長が大会に出席しての決議
1940年 2月 創氏改名の制令を施行
4月 各種の学校規程改定で皇民化教育強化
6月 神社不参拝のキリスト教徒を全土で検挙 投獄された者は二千余名、殉教者は五十余名と言われる
8月 東亜日報、朝鮮日報を廃刊させる 朝鮮語新聞は総督府機関紙の毎日新報のみに
1941年 2月 朝鮮思想犯予防拘禁令を制定 刑期終えても拘禁可能に (治安維持法改正により同法での対応に統合)
12月 アジア太平洋戦争開戦
1942年 1月 愛国日を廃止して大詔奉戴日を設定 太平洋戦争開戦の日(毎月8日)
5月 国語普及運動要綱を決定 国語常用=朝鮮語使用抑圧の運動を展開
朝鮮でも徴兵を実施する事を閣議決定
御手洗辰雄『南総督の朝鮮統治』1942年 巻末年表などを基に作成


 皇民化政策の柱は、創氏改名のほか陸軍特別志願兵制度の導入、本国に先駆け露骨な皇民化教育を標榜した第三次朝鮮教育令の3つを挙げるのが教科書的な回答のようです。が、私としては朝鮮教育令を国民精神総動員運動国語普及運動に含めて加えた4つを挙げたい所です。
 この国民精神総動員なるスピリチュアルでカルトな所業については、別ページ「植民地期朝鮮の法治と人権」で、国語普及運動については「朝鮮語抑圧と日本語強要」で述べているので、ここでは繰り返しません。
 要点だけ述べれば、国語普及運動は日本語での生活の強要です。
 また「精神を総動員する」とは「心から喜んで」「自ら申し出る」事を強制するという事です。これは自発性の強要と言われています。皇国民ならこういう気持ちになるものだからお前もこういう気持ちなのだ、という人格完全無視の論理飛躍がまかり通る世界、人間Aが人間Bに「精神」を「注入」する精神異常の世界です。










 総督が小磯国昭に変わって以降もこうした皇民化政策は続き、ついに1944年には徴兵制の実施に至ります。
 ただし日本語普及運動のように、実際には徴兵以外に労務者として動員する為にも役立った側面があります。同様の理由からか、南の前任である宇垣総督時代から初等学校就学率が大幅上昇を続けましたが、南総督時代の1938年に朝鮮語が正課から外されています。




記事に飛ぶ   皇民化政策   飯の召し上げ 財産の召し上げ 命の召し上げ おわりに

労働力の召し上げ −各種の労務動員


 「朝鮮人強制連行」として悪名高い朝鮮人労務者の域外強制連行については、別ページ「朝鮮人労務者強制連行」で詳述していますが、これ以外にも軍属への徴用、朝鮮内への労務動員、女子挺身隊など、様々な動員が行われました。

植民地期朝鮮末期の、当局による労務および軍要員への動員人数

労務動員 軍要員
道内 朝鮮内 朝鮮外 朝鮮内 日本 「満洲」 中国(「満洲」以外) 南方
※註1 官斡旋 徴用 ※註2 官斡旋 徴用 徴用以外 徴用 徴用以外 徴用以外 徴用以外 徴用
1934 - 4,418 - - - - - - - - - -
1935 - 1,151 - - - - - - - - - -
1936 - 2,810 - - - - - - - - - -
1937 - 11,965 - - - - - - - - - -
1938 74,194 19,516 - - - - - - - - - -
1939 113,096 45,289 - 53,120 - - - - 145 - - -
1940 170,644 61,527 - 59,398 - - - - 656 25 - -
1941 313,731 45,802 - 67,098 1,085 - 501 4,895 284 13 9,249 -
1942 333,976 47,307 - 119,851 1,723 90 300 3,871 293 50 16,024 135
1943 685,733 57,596 - 128,350 1,328 648 2,350 2,341 390 16 5,242 -
1944 2,454,724 72,597 10,100 286,472 4,020 9,555 3,000 21,071 1,617 294 5,885 -
1945 - 39,951 12,066 10,622 4,312 11,220 997 30,606 467 347 - -
延べ合計 4,146,098 409,929 22,166 724,911 12,468 21,513 7,148 62,784 3,852 745 36,400 135
大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査』朝鮮編第9分冊 P68-72および『朝鮮総督府 第86回帝国議会説明資料』より
作成。現員徴用(現在の職場に徴用する扱いをして、職場の自由移動を防ぐ事)は含めていない。中国への軍要員徴用は無い。
註1の道内労務動員は官斡旋・勤労報国隊・募集による動員。註2はいわゆる朝鮮人強制連行で募集・官斡旋・徴用の合計。

Excel様式でダウンロードする (算出式を含む)
各年度の動員総計
1934 4,418
1935 1,151
1936 2,810
1937 11,965
1938 93,710
1939 211,650
1940 292,250
1941 442,658
1942 523,620
1943 883,994
1944 2,869,335
1945 110,588
合計 5,448,149
道内動員
1944年内訳
官斡旋 492,131
勤報隊 1,925,272
募集 37,321

道内の労務動員:勤労報国隊など

 道は韓国/朝鮮の行政単位で、植民地期は13ありました。居住地と同じ道内に動員した人数が一番左の欄になります。動員方法は募集、官斡旋、勤労報国隊となっていますが、強制連行まがいの事例も報告されています。

 1944年に急増していますが、内訳は右表の通り。下記に紹介の資料には、1942-43年の動員は全数が勤労報国隊と記載されています。
 動員先は鉱業、運輸、土木建築などでした。当時の状況の説明として、当時の資料をそのまま紹介します。
 鉱業、交通運輸業、土木建築業等に於ける簡易にしてしかも技術を要せざる事業に対しては、国民総力運動の推進機関として結成せられたる勤労報国隊を各道単位に動員し、之が所要労務の一部を充足し来りたるところ、戦局の推移に伴ひ労務の需要は著しく増大せるに鑑み、敍上の組織に依る勤労報国隊に依りては動員の全きを期し難き場合もあり これに対しては、国民勤労報国協力令を発動し、労務の有効適切なる活用と其の適確なる配置を図りつつある
 なお右措置と並行して学徒勤労令に基く学徒の通年動員を実施すると共に、女子を以て為し得る部局に対しては漸次女子勤労報国隊を動員し、男子代替に依る勤労動員の強化を図る計画なり
朝鮮総督府 第86回帝国議会説明資料(1944年) 勤労動員課説明 (不二出版復刻版P220より) 

 この史料は、「労務移動防止を期する為、本年二月以降、鮮内重要工場事業場の現員徴用を実施したる」と現員徴用にも触れています。これは各人が現に所属する職場に徴用する事で、仕事は変わりませんが退職・転職できなくなります。これは上の数字に含めていません。

 勤労報国隊は1941年にできた制度で、男子14〜39歳、未婚女子14〜24歳の国民(軍人軍属・軍関係工場従業員などを除く)とされ、原則は年間30日以内の動員ですが特に必要があれば30日を超えられる事になっていました(国民勤労報国協力令第3〜4条)。
 1944年には「出動目標を一年を通じ各道内全戸数の3割」(朝鮮総督府 第86回帝国議会説明資料)としていました。

 勤労報国隊以外の動員期間を一律2年とすると、1944年末時点では前年動員数を合わせ61万人余り駆り出されていた事になります。
 これに勤労報国隊の動員数が常に在朝鮮・朝鮮人戸数(1940年4,231,617戸)の3割相当=127万人弱を加えると、188万人余。
 1940年朝鮮の朝鮮人14〜39歳男性人口は4,474,387人ですから、勤労報国隊対象年齢の男性の42%に等しい人数を常時動員していた勘定です。
 ざっくりメノコ勘定ですが、もう動員する人が居ないほど人を引っ張り尽くした、という話があながち誇張でない事が判ります。

 ところで、動員したのはこれだけではありません。

学徒動員と女子挺身隊

 学徒動員とは、中学校や女学校の生徒などを工場に駆り出して、時にはヒロポンを飲ませたりして飛行機なんぞを作らせた、アレです。兵役に駆り出した学徒出陣とはっきり区別するには、学徒勤労動員と言ったほうがいいでしょう。
 朝鮮における動員数(1944年8月現在)と学生・生徒数(同4月現在)は次の通りです。
大学 専門学校 工業学校 農水産学校 商業学校 中学校 女子中等学校
動員先 各専攻分野関連
文系は工場、飛行場等
工場
事業場
食糧増産
土建工事
食糧増産、土建
工事、国防施設
食糧増産、
軍被服補修等
出動人数 7.052 18,559 21,779 15,217 44,639 38,398
138,592
学生概数 1,140 6,000 60,300 41,000 32,500
出典 内務省『朝鮮及ビ台湾ノ現況』1944年 収録:近藤釼一『太平洋戦下の朝鮮及び台湾』 P20
朝鮮総督府第85回帝国議会説明資料 収録:近藤釼一『太平洋戦下終末期朝鮮の治政』 P160
 生徒数以上に動員していた勘定のものもあるようですが、ともあれ軍国主義の破綻が顕在化していた戦争末期は、夏休み中とはいえ目一杯の動員をかけていた事がわかります。
 大学・専門学校の2年生は通年動員、鉱工業専攻の最高学年は就職がらみで配置、師範学校の最高学年は教員の欠員・応召補充とされていました(前出『太平洋戦下終末期朝鮮の治政』, P159)

 更に、これに加えて女子勤労挺身隊なるものが存在しました。

 標的になったのは未婚の女子。

 「主として家庭にある遊休女子をして自主的に挺身隊を結成せしめた…しかし戦局の推移とともに女子動員の徹底を図ることが要請され、かくて女子挺身隊の強制加入を含めた制度の強化が図られることとなり、十九年(引用者註;1944年)三月十八日「女子挺身隊制度強化方策要綱」が閣議決定…」
(労働省編『労働行政史』第1巻、1961年、P1122-1123 太字は引用者)

 遊休女子とはずいぶんな表現ですが、要は当時の家父長的家庭モデルの発現です。結婚した女性は家庭を守る役の位置づけで動員対象にしなかった次第です。
 あまり知られていませんがこの「男は外で働き、女は家にこもり家事」モデルも、明治以降にでっち上げられた「日本の美しい伝統」の大嘘の一つです。大半が農家だった戦前、女性も男性同様に農作業するのが標準形態で、日本の本当の伝統は共働きです。
 女性が未婚で家に居ると「遊休女子」になるのは、軍人や官僚の家庭の話でしょう。

 ただしこれはあくまでも日本本土の話で、朝鮮では事情が違いました。
 当時の朝鮮では女性の結婚が早く、平均初婚年齢が18.45歳(1935年)、21.46歳(1940年)でした(朝鮮総督府『調査月報』1944年8-9月号、P42)
 同時期の日本は概ね24歳前後で推移しています。これだけでも対象にできる人数が日本本土より少なかった事になりますが、更に義務教育がない為、未就学の人が大勢おり、日本語の作業指示を理解し得る動員対象人数は日本本土よりずっと少なかったと考えられます。
 このような諸事情あいまってか、朝鮮では日本のように女学校同窓会を使って卒業生を組織するのではなく、個別募集や、学校に在籍生徒を勧誘させるなどの方法が採られました。(高崎宗司『「半島女子勤労挺身隊」について』、以下の記述もこの論文に基づいています)

 ご多聞に洩れず巷では警戒されていたようで、女子挺身隊の募集が始まった時期に、このような新聞記事が出ています。


 朝鮮の女子挺身隊については、まとまった公式記録が乏しく、全体像がはっきり判っていません。
 朝鮮内動員は別として、日本に連れてこられたケースとして「ほぼ確実な資料が示すところ」では、東京麻糸紡績沼津工場に約300名、富山の不二越鋼材工業へ約1100名、三菱重工名古屋航空機製作所に約300名、小計約1700名が判明していますが、その他富山県の他工場、北九州・八幡地区、相模原造兵廠など未確定分を加えても「多くて4000名止まりであろう」(高崎宗司、前掲、P56)

 朝鮮における女子勤労挺身隊の問題は3つあります。

(1) 児童労働
 当時の学校は、生徒が女子挺身隊に行った記録を学籍簿に残していました。これにより、国民学校(小学校相当)の生徒を女子挺身隊に送り出した事が判明しています(高崎宗司、前掲、P41など)
 これは当時の日本も批准していたILO第5号条約『最低年齢(工業)条約』に違反する児童労働です。

(2) いわゆる「朝鮮人(労務者)強制連行」と共通する、「虚偽の好条件での勧誘や脅迫による事実上の強制」
 学校に通わせてあげる、卒業証書を出すなどの好条件で募集しておきながら実行せず、あるいは保護者拘束の脅しをもって応募させるなど、強制連行と言うべき状態であった例が、裁判でも事実認定されています(例:.名古屋高等裁判所2007年5月31日判決)。

(3) 従軍慰安婦と混同された事による被害
 女子挺身隊イコール従軍慰安婦、という誤解が韓国で広まっていた為、挺身隊参加者は長らく参加の過去を語れず、また語ったために差別的誤解を受け、離婚の憂き目に遭わされたりしました。
 すでに解放前からこのような流言が記録されています。
 未婚女子の徴用は必至にして、中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に伝わり、此等悪質なる流言と相俟って労務事情は今後益々困難に赴くものと予想せらる
1944.7.6 閣議決定資料 『官制改正説明資料』 左記リンク先画像のP81
 また、実際に挺身隊に行ったつもりが慰安婦にされた例が何件か証言されており(高崎宗司、前掲、P57-58)、勤労挺身隊と混同される素地の一因となっていた可能性もあります。
 挺身隊にもいろいろあったので、或いは従軍慰安婦も挺身隊に含めて呼んだ可能性も否定できませんが、挺身隊だと騙して慰安婦にしたと捉える事もできます。
 右は慰安婦を「慰安婦」と呼び募集していた当時の新聞広告です。「慰安婦」の呼称が当時からあった事が判ります。

韓国語を読める方には、 余舜珠氏の修士論文 『日帝末期朝鮮人女子勤労挺身隊に関する実態研究』 も参考になります。


記事に飛ぶ   皇民化政策 労働力の召し上げ   財産の召し上げ 命の召し上げ おわりに

飯の召し上げ −米穀供出


 戦争と統制経済に伴い、1940年の米穀統制規則、更に1942年2月公布の食糧管理法によって、政府の定めた数量の米を供出する義務が農家に課せられました。
 これに基づき、日本本土でもサーベル供出と呼ばれたような警察力による強権的な米供出が行われたと言われています。

 この食糧管理法は同年6月、強制供出を定めた部分や罰則などを抜粋して朝鮮にも施行されました(食糧管理法朝鮮施行令)。
 この結果、朝鮮の農村は飢餓の危機に晒されるほど食糧不足の状態に陥ります。
 「日帝は銃剣で米を奪った」と言われるのは、この時期の供出を指しているものと思われます。
 朝鮮総督府自身も行き詰まりを赤裸々に告白しています。太字は引用者。

 昭和18年度米雑穀の実収高は平年作に満たざりしにも拘らず…(中略)…鮮内自体の需給調整すら困難なる実状にありたるが、日満自給態勢確立の見地より本年産食糧の増産に努むると共に…(中略)…あらゆる需要面に圧縮を加え過剰量を捻出し、之を鮮外に供出して帝国の食糧事情に貢献することと為したるが、累年困難なる食糧事情下に於ける糧穀の供出の強化は農民に甚大なる影響を与え、その結果は、
1、供出強化に伴う不穏言動ならびに流言の発生、
2、食穀の隠匿その他供出忌避、  …(中略)…
など民心の荒涼化を示し、食糧政策上誠に憂慮すべき様相を露呈し、特に最近注目すべきは既往に於ける食糧の逼迫せる体験に鑑み、自家食糧の確保に手段を択ばず、供出を忌避する傾向濃厚なるものある為、供出の強化は先鋭化せる農民を益々刺激し、供出担当吏僚をはじめその他一般吏僚に対する反官的機運著しく濃化せると。
朝鮮総督府第85回帝国議会説明資料 『糧穀供出ノ農民ニ与ヘタル影響如何』
 従来実施せる混食代用食を更に強化し海藻、山野草、樹実等の代用食化についても道の統制下に学童、婦女子等を組織的に動員し…
同上 『食糧ノ消費規正ト配給状況』

 上のグラフは、1944年産の朝鮮米について、生産ノルマと供出割当、予想収穫高の関係を表しています。
 過去最高(1937年)の収穫高に匹敵するノルマに対し、予想収穫高は前年に続く凶作の為4割近く落としています。

 結果、米の供出割合は収穫の65.7%にも達しています。小作料が概ね4〜5割ですから、単純計算では小作人は収穫全量を供出しても間に合わなかった勘定になります。

 なお供出は米だけでなく、麦(供出割合30.68%)、雑穀(同40.61%)でも行われています(近藤釼一『太平洋下の朝鮮4』P102)
 量も含めた全体像は右グラフの通りで、米以外の炭水化物で栄養不足をカバーしようにもできるような状況でなかった事は明白です。

 そして更に酷いことに、農産物の買い上げ代金から無断で天引き貯金させたのです。太字は引用者。
 朝鮮に於ける特殊事情等を勘考の上創案実施中の重要事項を挙ぐれば、およそ次の如し
   (中略)
 農民をして不知不識の内に貯蓄に協力せしむる手段として、農林水産物共販代金に対し、全鮮的に相当高率の天引貯金を一律に実施し、販売代金の引上げ又は補給金の増額に対しては其の大部分を貯蓄せしめ、極めて良好なる成績を挙揚しつつあり
 尚、米および雑穀に対する奨励金、報奨金に対しても其の大部分(八割となる見込)を天引貯蓄せしむる予定なり
朝鮮総督府第85回帝国議会説明資料 『朝鮮ニ於ケル最近ノ貯蓄奨励状況ニ就テ』

 もう少し事情を詳しく確かめたい方のために、内務省から朝鮮に出張した嘱託の報告(1944年7月)を書き出してみます。
 面倒な人は緑色部分を飛ばして下さい。要するに供出は強権的、農村の状態は強烈、いっぽう都市部は困ってないと言っています。

 朝鮮に於ける都市農村の食糧事情は相当深刻のものあり、其の実例として朝鮮に旅行する時汽車の窓より望むるも、沿線の林野に於ける松木の皮を剥ぎたるもの相当見受くることがあるが、沿線にあらざる深山には尚多く、近き将来に於て朝鮮の松木はあるいは枯死するのではないかと憂慮する人達も相当多い様である
 農村人および地方有志の忌憚なき意見を調査してみると、従来大体において朝鮮は食糧の自給自足不能にあらざるに拘らず、かかる現象を呈するは、行政当局のその措置宜しきを得ざるに起因する所多しと非難する地方もある、
即ち配給、供出機構の不完全は勿論のこと、まずその衝にあたるものの情実または実情を知らざる盲目的行政の結果なりと彼等は非難している
 今日朝鮮における農業生産統計たるや、大体においてそれは前年農村振興時代の柱纂なる統計数字を基準として居るものにして、衆目の見る所およそそれは常に過大見積であるという事に一致している、
しかもかかる過大なる生産統計の下においてなお個々農家の収穫高を決定する上においても相当の努力が払われているに拘らず、多くは無意識的に、稀には意識的に凹凸を生ずる場合が相当に多いことも事実である

 かかる基礎において個々の農家の具体的供出量が定められる、
そうして此の供出令は文字通り至上命令とされ、供出の完遂は勧奨よりも強圧強権を加えて強いられる場合が極めて多い状態である

 しかも朝鮮の農民は純朴従順であって、そこには涙ぐましい数々の実話実情も多い、
あるいは明日の糧まで供出せる者あり、あるいは彼等の何よりも大切なる農牛や家屋や家財道具等を売り払って闇買をしてまでも自己の供出割当数量を完遂せる者も居る、
従って部落において勢力のある者、即ちいわゆる有力者その他富豪権力者を除いては、出来以外の時における農村の食糧事情は殆んど急迫の状態にある

 従って、農業者にしてなお朝飯夕粥は良い方で、多くは糊口に苦しみ、自己の生産物は全部供出に献げ、自分は大豆、小豆の葉や草根木皮にてかろうじて延命し、顔は腫れ上がり、正に生不如死の惨状を呈し、空腹のため働く事も出来ず、寝ている者も少なくない状態である
 かくの如き朝鮮農村の食糧事情よりして、農民は生産しても自らは喰えない故に、農村には増産意欲どころかむしろ厭農思想が相当濃厚であり、生産物を隠匿せんとする傾向が強くなって来た。
 そこで供出督励者は、農家や農家の周囲を捜索し、炊事時に不意打ち的に踏み込み、炊事釜や食物を検査し、果ては面、駐在所等に呼び出して迅問するなど、全く朝鮮でなくては見ることの出来ない奇異なる現象を彼所此所に露出している
 一方、ひるがえって都市の食糧事情を見るに、都市には殆んど完全に近い配給制度が実施され、一人あたり1合4勺ないし2合3勺の配給を大体において順調に受け、満腹の程は期待し得ざるも一応不安はない状態にある
内務省管理局嘱託・小暮泰用 1944年7月31日付復命書(出張報告) 10-12枚目より抜粋


記事に飛ぶ   皇民化政策 労働力の召し上げ  飯の召し上げ   命の召し上げ おわりに

財産の召し上げ −戦時国債と貯金の強要


 貯金そのものは決して悪い事ではない、というより初期資本蓄積のためには断固貯金するのが望ましいのですが、戦争の資金調達(貯金と国債で集めた金を戦争に投資する)の為の貯金だった事はいただけません。

 それはともかく、最大の問題は戦後踏み倒す結果になった事です。

 どれくらい朝鮮から国債と貯金でお金を巻き上げたのかを示すのが左のグラフです。

 「日本は朝鮮に莫大な投資をして莫大な資産を…」などとぶっている輩は、一度しっかり数字を確かめてみることです。

 事実は、この戦争時の国債売りつけと郵便貯金によって、それまでの政府支出など軽く吹き飛んでしまうほどお金を巻き上げていました。

 もしこれらのお金が戦後払い戻されていても、ハイパーインフレで紙屑同然の価値になっていたので、巻き上げられた側が踏んだり蹴ったりだった事に変わりありません。

 なお、巻き上げられた資産はお金だけではありません。
 1941年の金属類回収令により、鍋・釜などの金属も強制供出させられています(写真右)。

 日本国内で行われた事は、おおむね朝鮮でも行われたと考えていいでしょう。
 行われなかったのは連合軍の大空襲くらいではないかと思われます。


記事に飛ぶ   皇民化政策 労働力の召し上げ  飯の召し上げ 財産の召し上げ   おわりに

命の召し上げ −兵役、戦死、BC級戦犯


陸軍特別志願兵制度

 それまで朝鮮人の日本軍軍人は、旧韓国軍出身、李王族または陸軍士官学校出身の将校だけでした。
 趣旨は下記のような事でした。要は朝鮮人民の忠誠心がとても期待できない現状なので、まずは従順な人だけ採用することで、兵役と朝鮮人の地位向上を切り離して模範的実績を作り、これを足がかりに日本帝国への忠誠を民心に浸透させるよう誘導したい、という事です。
 下記文書では義務教育による皇民化徹底も併せて提言されていました。
朝鮮・陸軍特別志願兵
年度 志願者数 入所者数
1938 2,946 406
1939 12,348 613
1940 84,443 3,060
1941 144,743 3,208
1942 254,273 4,077
1943 303,294 6,300
内務省管理局資料 1944
 朝鮮の地理的環境とその統治の成果とにより期待せらるべき半島民心の動向が皇国国防と蜜実不可分の関係にあるは、あらためて喋々叙述を要せざる所、
特に朝鮮民族対日思想の健否とその皇国意識の張弛とは啻に朝鮮自体の防衛上看過すべからざる重要問題たるは勿論、
半島が我が対外作戦実施にあたり直接背後の大兵站地域たるの使命を負荷せられある関係を願う時、半島民心動向の善導は現下に於ける重要愁眉の大問題たるを失わず
 然るに今しずかに半島統治の現況と、之に対し滔々として隠然底流する朝鮮民族の反発、自棄的思想の厳存を看取するとき、吾人任を朝鮮の防衛に承くるもの断じて晏如たる能わざるものあり、特に遠からず重大危局の勃発を覚悟せざるべからざる現下の情勢に鑑み、為し得べくんば一面、半島民心の善導に貢献すると共に、朝鮮の防衛を安固にし、延いて皇国国防の完璧に資せんことを期せざるべからず
 これをもって朝鮮人志願兵制度問題の如きに至りても、その実行の方針をこの根底に置くことなく、単に人的資源の補足を理拠となり、甚だしきは鮮人平等獲得熱に迎合せんとするが如き浅薄なるご都合主義に堕するが如きは断じて採らざる所なり
 宜しく慎重研鑽、もって皇国国防ならびに朝鮮の防衛上いささかも禍根を将来に胎さざるべき方策を立案せざるべからず
朝鮮軍司令部 『朝鮮人志願兵制度ニ関スル意見』1937年7月、P3-4
 一部有識者間に「国防の負担なき民族に愛国心を要求するは不合理なり、朝鮮人をして国防に任ぜしむるこそ日本の真の国防を全うする所以なり」との説に禍せられ、その裏面に「まず兵役義務に服することにより参政権獲得に邁進せんとする」伏線的提唱たるを想わざる短見に外ならずして、いわゆる朝鮮人の人気を博せんとするご都合主義的施策なりと診断するも決して失当にあらざるなり
 今回南総督の提唱せる志願兵制度案は、一面において教育施設の改善向上を伴わしむるものたるべきこと当然のみならず、
一般兵役法の施行にさきだつ段階的準備施策にして、しかも志願者に限りこれを採用する本案の実施は、前述兵役に対する朝鮮現下の通念上、名誉義務なりと思惟する者のみを服役せしむることとなるをもって、彼等の進取的意気に更に拍車を加え、朝鮮統治の向上に資し得るの利益あるべきは看過し得ざる所なり
 かくして幸に鮮人の気分を一新せしむることを得ば、朝鮮防衛上にもまた貢献する所少なからざるは論をまたず
同上 P8-9

 志願者の多さをもって日本統治への支持が高かったように言挙げする向きがありますが、実情は違います。
 何よりも貧困と強要に押され志願した者が多かった事を示唆する、当局側のこんな文書が残っています(太字は引用者)。

 入所者を職業別に見ると…(中略)…大部分は農業者にして残余が官庁の給仕小使その他傭人等によって占められ、将来半島の青年層に働きかけ得る実力を有する地位の者が未だ非常に少ないのである。この情況は入営の学歴にも現れて、中等学校卒業者等はその数ごく僅少にて、未だ半島が真に兵役の崇高なる所以を理解するの域に達せず…
海田要・陸軍兵志願者訓練所教授 『志願兵制度の現状と将来の展望』 『今日の朝鮮問題講座』第3巻収録 1940年、P5-16
 吾々は志願者をその環境ないし素質の面から眺めて見て、そこに幾許の寂寥を感ざざるを得なかったのである。即ちこれ(引用者註:志願者)を職業別に見ると、その八、九割以上は小作農民であり、その他は若干の事務員、官公吏員を除いては、給仕小使傭人であり、学歴より見るも中等学校卒業者または中途退学者は実に微々寥々たる実状であり、名門出の子弟有力者、資産家、知識階級の子弟は更に稀なる情況であり、ここにも半島の伝統的兵役に対する観念の反映を見たのである。
朝鮮総督府 陸軍兵志願者訓練所 『志願兵を訓へて』  雑誌『朝鮮』1940年4月号、P60
 私が帰朝中、村でも三十人ばかりの志願兵応募者の割当を受けているが、それだけの人数がどうしても出来ないし、それでは村の名誉にも拘はるから、お前は三十五歳以上で不合格になることは判っているが名前だけ是非貸してくれと頼まれたので貸したが、その後街頭へ出て見るとなるほど募集に苦心している様な宣伝ビラが沢山貼られているのを見受けた。
 さような事は独り私だけではなく、他にもさような事が幾多あった様に聞いている。未だ未だ半島人は心から応募しやうとするものは少ない様だ。
      滋賀県 傭人  林 秀雄
 現在応募の動機は殆んど警察の強制的募集に依るもので、在営中内地の見学旅行、除隊後半島に於ける革新的中堅幹部として青年の指導者たる地位を得られる等の好条件に釣られ、功利的に応募した様な実状で、志願兵としての真の精神に反するものばかりである。
 また総督府は必要数だけは容易に得られるのであるが、各道庁に責任数を割当て居り、後に之を講評するので、警察は勢ひ強制的に募集する様になり、ここに無理が生じ、入隊しても挨拶も出来ない様なものが入り…
      朝鮮人将校 某
『志願兵制度に対する朝鮮人の動向』  内務省警保局保安課 『特高月報』 1941年12月号、P108-109
 創氏の問題、志願兵問題等につきまして、官辺の強制と云うやうなことに関してでございますが、是は私共も仰せの如く同じやうなことを耳に致して居りましたので、…(中略)…色々事実の真相を調べて見たのであります、
 必ずしも絶対にさう云ふことがなかったとは申上げ兼ねまするのでありまして、一部遺憾な事例もあるやうでして…
帝国議会 貴族院予算委員第3分科会議事速記録(1943年2月26日) 田中武雄・朝鮮総督府政務総監の答弁

 当時の小作農民がおかれた惨状は『食糧と農村と人口流出』の記事に書いたので割愛しますが、「皇国」への忠誠心で志願者が殺到したなら、貧困層からの志願が圧倒的だった事の説明がつきません。貧困により兵員志願に仕向ける事を経済的徴兵制と言います。
 皇民化とは遠い実状を示す、こんな資料もあります(太字は引用者)。

 小学校卒業者で、まして陸軍兵を志願する者が、日本の国柄の万国に優れた点を問われて行き詰ったり、教育勅語中一番大切な箇所を問われて的外れな答をしたり、皇国臣民の誓詞が言えなかったりしては、むしろその不用意さに驚くの外はない。
 右の国家観念に関する問に対し、答えられる者も相当あるが、しかし中には棒暗記的あるいは一夜造りの準備的とって置きの答をする者がある。
陸軍兵志願者訓練所 塩原所長談話  雑誌『朝鮮』1939年1月号、P60
 志願の熱意を家庭より、或はその知友より阻まれて一時意気の阻喪した様なのもあった。 …(中略)…
 特に半島の婦女子に於けるこの方面の教育の急務は、志願者の多くが、その母および妻、祖母等を納得させることに非常な苦心をしたる実状を見ても肯かれると思う。
朝鮮総督府 陸軍兵志願者訓練所 『志願兵を訓へて』  雑誌『朝鮮』1940年4月号、P60

 志願兵募集は海軍も1943年に始めますが、1年で止めています(内務省管理局資料、1944)

学徒出陣

 日本人学生の学徒出陣は知られていますが、朝鮮人も対象にされました。特に日本語話者の少ない朝鮮では、学生は狙われました
 朝鮮在住より日本留学中の対象者が多かったのは、朝鮮に学校が少なかった為です。
 1943年10月下旬に募集を開始。当初は全くの自由意志と言いつつ、応募がふるわないと一転、全員志願させるべく猛攻勢に転じました。


 最後は退学までちらつかせた結果、対象者の9割以上を志願させる「戦果」を挙げました(右新聞記事)。総督府は得意そうにこう言っています。
 臨時特別志願兵採用に際りては学徒の感激は漸次昂揚し、鮮内学校に在りては一千名の適格者中僅に四十一名を残す九百五十九名即ち九割五分弱、内地在学者にして帰鮮中の適格者千五百二十九名中千四百三十一名即ち九割三分弱、同じく内地残留中の者また過半数たる七百十九名の志願を完了せり
朝鮮総督府 第85回帝国議会説明資料  不二出版復刻版 9巻 P253
 散々圧力をかけておいて学徒の感激とはよくも言ってくれたものですが、この時代の日本帝国があちこちで吹聴していた皇国民の「感激」とは要するにこういう代物だった、という一例です。

 それでも志願しなかった学生は、日本本土では休学・退学させられ、原則として故郷に送り返されました。特高警察の月報にはこう記録されています。
 而して非志願学生に対する処置としては、自発的休退学を勧奨し、之に肯ぜざる者に対しては学校当局をして休学処分を執らしむることと決定せられ、またこれら学生の所在を調査の上 (1) 朝鮮奨学会をして帰鮮を勧奨せしめ (2) 事情已むを得ざる者のみ内地に残留せしめ、錬成の上、重要産業方面に集団的に就労せしむる方針を以て、全国一斉に之が所在を調査したるる結果、別記の如く283名の非志願学生を発見し、…(中略)…当局指導の下に出頭せしめ、朝鮮奨学会をして帰鮮勧奨を為さしめたり。
内務省警保局保安課 『特高月報』 1944年1月号、P673-74
 日本留学中の朝鮮人学生は、774名が日本で、1,388名が帰省先で志願した、と『特高月報』は記しています(合計で総督府の数値と2名のズレ有り)。
 朝鮮では左の新聞記事のように、全員2週間の「徹底錬成」を施した後、戦力増強部門に徴用されることとなりました。

徴兵制実施

 朝鮮での徴兵制は1944年に始められています。発表は1942年5月、朝鮮総督府にとっても晴天の霹靂だったようです。
 有識者には、差別解消と社会的地位の向上につながるものと受け止められた、と当局の記録にも残されています。
 昭和十四年陸軍特別志願兵制実施により、早晩徴兵制度の実施を見るにあらずやとは内鮮人の斉しく予測しありたるが、一般的には朝鮮人の教育程度、殊に国語普及の現況に鑑みるとき、之が具体化は尠くとも義務教育制度実施後ならんと推測しありたるに、昭和十七年五月九日、突如としえ昭和十九年度より朝鮮に徴兵制を実施する趣発表あり、各方面に異常の衝動を与へ、内鮮人斉しく其の予想以上の早急実現に■■したる次第なるが、
 一般有識朝鮮人に於ては、吾人の誠意漸く認めら■皇国臣民たるの資格を与へられたるものにして義務教育の実施、参政権の附与、その他内鮮の差別撤廃も近きに在りとなし本制度の実施に感激し…
朝鮮総督府第86回帝国議会説明資料 『徴兵制実施に対する民情如何』
 この議会向け説明資料は、徴兵検査予定数231,424人に対して222,295人が受験した事(不参加率約6%)、『その父兄中には戦局の影響を受け内心相当焦燥の念を抱けるは否み難く、特に一部無識層なかんずく婦女子に在りては依然、入営即戦死観より離別の情禁じ難く、駅頭その他に於て相擁して慟哭あるいは号泣または狂気の如く喧騒して…』という状況であった事が記されています。

朝鮮在籍旧陸海軍軍人軍属出身地別統計表    昭37.2.28調 厚生省援護局
復員 死亡
軍人 軍属 軍人 軍属 軍人 軍属
陸軍 89,108 45,404 134,512 5,870 2,991 8,861 94,978 48,395 143,373
海軍 21,008 64,639 85,647 308 13,013 13,321 21,316 77,652 98,968
合計 110,116 110,043 220,159 6,178 16,004 22,182 116,294 126,047 242,341
出典: 樋口雄一 『戦時下朝鮮の民衆と徴兵』 総和社、2001年 P300-301

動員・戦死者数、戦傷者の戦後

 労務動員による軍属の人数も含め、軍に動員された朝鮮人の総数として現在得られる数字は、右表の厚生省援護局のデータが挙げられます。
 1997年3月25日の参議院における厚生省答弁でも、この表に沿った数字が呈示されています。この答弁では、戦傷者の数は判らないとされています。

 これら動員された人、戦死者・戦傷者の遺族には、日本人の旧軍人と異なり、恩給などが支給されてきませんでした

 在日コリアンの戦傷者については、大島渚監督が演出を手がけたTV番組「忘れられた皇軍」(日本テレビ、1963年8月16日放送)にレポートされています。
 日本国籍がないばかりに戦傷への補償を受けられず、傷痍軍人として白衣を着て街頭に立たざるを得なかった姿を、年配の方ならかすかに覚えておいでの人も居るかと思います。

 2000年にようやく「平和条約国籍離脱者等である戦没者遺族等に対する弔慰金等の支給に関する法律」が成立し、遺族に弔慰金260万円、重度戦傷病者に見舞金+特別給付金計400万円が支給される(同法第13条)事となりましたが、終戦後55年も放置した後であまりにも遅く、また当初から年金等を受け取った場合に比べ著しく少額です。また、支給の対象は日本在住者に限られました(同法第2条)。

BC級戦犯

 軍属として動員された朝鮮人は捕虜監視の任務につく事が多く、敗戦後捕虜虐待などの罪に問われた人を多く出しました。
 BC級戦犯者とされた朝鮮人は148名、うち129名が捕虜監視員でした(共著『未解決の戦後補償』 創史社、2012年、P112)。23名が死刑になっています(同、P114)

 捕虜虐待とはいっても、泰緬鉄道や軍用飛行場・道路建設への動員など、捕虜監視員の一存ではどうにもならない軍の無茶な使役方針を末端で遂行させられた立場の人が殆どであり、死亡率3割になんなんとした連合軍捕虜の虐待責任を日本軍に背負わされた事になります(同、P112-113参照)
 傷痍軍人同様、補償を求める裁判も提起されましたが、すでに関係者の殆どが亡くなられています。





記事に飛ぶ   皇民化政策 労働力の召し上げ  飯の召し上げ 財産の召し上げ 命の召し上げ  

おわりに


 「日帝支配の暴虐」が語られる時、それが日中戦争勃発以後の話なのか、以前の話なのか、きちんと分けて捉える必要を感じます。
 歴史を浄化したい向きが「植民地善政論」の根拠として持ち出してくるエピソードは、こじつけにしても往々にして1930年代半ば以前の話ではないかと思います。しかし、日本国内でもそうであったように、戦時中の極端に悪化した生活環境は、それ以前と同一ではなかったのです。

 「日帝は銃剣で米を取り上げた」と言う時、おそらくそれは戦時中の米国供出の話であって、植民地期を通じて暴力で取り上げていた訳ではありません。そこを明確に切り分けて論じないと、実体を見誤り、歴史歪曲論者にスキを与える事にもなるだろうと考えます。

 戦時中に限れば、日本の統治が近代植民地史上最悪の部類に入るのは間違いなかろうと思います。なぜなら、植民地に居座っていた宗主国の日本国内ですら最悪だったのですから。
 長すぎる記事になってしまいましたが、これでもなお撃ち漏らしがあります。より詳しく知りたい方は、以下の書籍を参考としてください。
 この記事も以下の書籍などを参考として、一次史料にあたり作成しています。

近藤釼一 『太平洋戦下の朝鮮及び台湾』 朝鮮史料研究会近藤研究室、1961年 (国会図書館提携図書館でオンライン閲覧可能)
近藤釼一 『太平洋戦下終末期朝鮮の治政』 朝鮮史料編纂会、1961年 限定200部 (リンク先からダウンロード可能)
近藤釼一 『太平洋戦下の朝鮮(4)』 友邦協会、1963年 限定200部 (国会図書館提携図書館でオンライン閲覧可能)
山川修平 『人間の砦 元朝鮮女子勤労挺身隊・ある遺族との交流』 三一書房、2008年
いのうえせつこ 『女子挺身隊の記録』 新評論、1998年
宮田節子 『朝鮮民衆と「皇民化」政策』 未来社、1985年
姜徳相 『朝鮮人学徒出陣』 岩波書店、1997年
樋口雄一 『戦時下朝鮮の民衆と徴兵』 総和社、2001年
共著 『未解決の戦後補償』 創史社、2012年

 また、一次史料として最もまとまったものに、朝鮮総督府 帝国議会説明資料(不二出版復刻)があります。

 ほか、本文中にもご紹介していますが、以下の論文を参考にしています。
高崎宗司 『「半島女子勤労挺身隊」について』
余舜珠 『日帝末期朝鮮人女子勤労挺身隊に関する実態研究』 (韓国語)
    ※私は韓国語ができる訳ではありませんが、機械翻訳+αで強引に読んでいます。



『データで見る植民地朝鮮史』トップへ 植民地期の年表を見る