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食糧と農村と人口流出

 
農家に暮らす人は韓国併合時で8割台なかば、1945年の解放直前でもなお全朝鮮の7割以上を占めていました。

まとめ

@ 日本統治下で米は増産されたが、対日移出が増産を上回った。1人あたりでは米消費量もカロリー摂取量も減った。
A 日本統治期を通じ農家の所得は減った時期のほうが長い。多くの農家が貧窮から小作へ転落し、更に都市や域外に流出した。

B 総督府の産米増殖計画は農家の灌漑負担を増やし、家計を圧迫して飢餓輸出を、更には都市への人口流出や移民をドライブする要因の一つとなった。


アジア太平洋戦争中の食糧逼迫については、事情が平時と大きく違います。「ファシズムと戦争への巻き添え」中の記事をご覧ください。


 まずはおおざっぱに大枠の数字を見て、傾向をつかんでおきましょう。
  左は朝鮮の米生産量と純移出量(出入の差分)を、右は朝鮮の手許に残った米の合計と一人あたりの量を示しています。
 併合後、生産量は伸びていますが、伸びた分は移出に吸収され、朝鮮自身の米消費はむしろ1918年をピークに減少傾向だった事が判ります。
 移出先の99%超が日本本土。

 人口が増加していたので、1人あたりの米は100kgから60kgへと大きく落ち込んでいます。
 非常に大まかな計算ですが、1年で60kgということは1日あたり165グラムしか米を食べられなかった事になります。
 上の計算は移出米の精米による体積減少分を元に戻す補正をしていませんが、補正すれば移出量が増えて、国内消費可能量は更に落ちることになります。
 1合がだいたい150グラムなので、精米歩留まりを考えると1日1合しか食べられなかった計算です。

 1920年から34年まで、朝鮮総督府は産米増殖計画というものを実行していますが、生産地人民の口に入る分は逆に減っていた事が既に明らかです。逆に、朝鮮から増産分以上を移入した日本本土側は1915年から1941年まで年一人あたり概ね1.1石(約165kg)、最低でも1石(約150kg)の米を確保しています(許粹烈『植民地朝鮮の開発と民衆』明石書店、2008年、P242)。
 研究者の方々は上のような総督府統計丸呑みの雑な計算ではなく、様々な補正を加えて評価していますが、「どのような推計を使用しても日帝時代に朝鮮の1人当たりの米穀消費量は増加したとは言えない」(許粹烈、前掲書、P243)。

 しかしいくらなんでも1日1合の米だけがカロリー源で生き延びるのは困難でしょうから、他の食物も考慮にいれた総カロリー摂取がどうだったのか知りたい所です。
 木村光彦氏(現・青山学院大教授)が1993年に発表した論文 "Standards of Living in Colonial Korea: Did the Masses Become Worse Off or Better Off Under Japanese Rule?" (The Journal of Economic History, Vol.53, No.3 pp.629-652) の中で、大麦・雑穀・大豆を考慮に入れてこの推算を行っています。
 結果がグラフ(3ヵ年移動平均)でのみ表示されているので厳密な数値は不明ですが、方眼を当てて読み取った限りでは、1人あたりカロリー摂取は1918年の1840calを頂点に1936年の1520calまで下がる一方だったと出ています。この後の2年間は、米の豊作(上2つのグラフ参照)のせいか大きく盛り返していますが、グラフは1938年までで、1939年の凶作が反映されていません。
   【急ぎの方は読み飛ばして下さい】

 もっと新しい摂取カロリー推計があるので、ご紹介しておきます。

 結論は変わりません、と言いたいところですが、このデータ推計をしている本は、「一人当り総カロリー摂取はほとんど減少しなかったといえる」(P222)としています。
 理由は、このグラフに含まれない肉、果物などの副菜の消費が増えたから。
 しかし、副菜のカロリー計算は示されていません。
 また、全体で副菜摂取が増えたからといって、農村の特に貧困層も副菜の摂取を増やしたとは言えません。後述の通り、そんな経済的余裕は貧困層にはなかったからです。

 一日1500カロリーならそこそこじゃないか、と思うのは体を動かさない現代人の感覚です。
 当時は耕耘機のような省力機械がなく、農業は重い肉体労働だった筈です。そんな重労働者である農民の割合が、当時の朝鮮では右グラフの通り圧倒的で、農民の生活状況が全朝鮮人民の平均像をほぼ決定したと言って差し支えないでしょう。
 重労働に携わる人が1日何カロリー必要かはネットで検索できますが、概ね3000カロリーを下回らない答えが出るものと思います。1500位では不足していた筈です。
 作った米を切迫した理由なしに売るような栄養状態ではなかった、という事になります。

 朝鮮は併合後の増産を上回る米を対日移出していた事、そして何らかの事情で自分の食糧まで売らざるを得ない=自由意志で移出を増やしたのではない事を確認して、いったい何が起こっていたのかを次に見てみましょう。

★ 小作人への転落と離農が続出していた

 左は朝鮮の農家内訳です。
 地主甲は純粋な地主、地主乙は自分で耕作もする地主ですが、統計上1933年にこの分類がなくなり、代わりに被傭者(雇われて農作業を行い生計を立てる家)が入ります。
 自作、自作兼小作が目に見えて減り、その分以上に小作農家が大きく増えている事がわかります。

 右は水田と畑の自作・小作別面積です。町という単位が使われていますが、1町がほぼ1haです。
 1918年まで農地が急増したように見えますが、土地調査事業の完了が1918年であり、それ以前の増加は既存の農地が総督府に”発見”されただけで実質殆ど増えていないと考えられます(木村、前掲論文、P631: 許粹烈、前掲書、P36-37など参照)。
 また、田畑を合計する(火田=焼畑を除く)と農地面積は1918年434万町、1940年451万町となり、22年間で4%の増加に留まっています。1918年から36年までの変化の内訳を道別に見ると下の通りで、畑をつぶして水田に変え、自作地を小作地に変えた傾向が読み取れます。

 下のグラフは、農家の1925年収支を階層別に見たものです。調査したのは朝鮮総督府です。
 各々の階層が農家全体に占める割合を左端に、収支(残額)は右端に示しています。
 大/中/小/零細は耕地面積による区分で、区切りは3町歩(3ha)、1町歩(1ha)、3反歩(30a)です。

 小作農家の大半と自小作零細農家が赤字に陥っていた事が判ります。赤字階層の農家が全農家に占める割合は、1925年の時点で46.6%にのぼります。これに転落予備軍の小規模自小作農家12.1%が続きます。
 赤字ということは、借金をするか、手持ちの田畑があるならそれを売るかしなくてはなりません。
 自小作農家が小作農家に転落していく道理です。
 そして、これだけ資金繰りが苦しいと、自分の食い扶持を減らしてでも収穫物を売る、青田買いで収穫より先に米を売る、といった事をせざるを得なくなり、飢餓輸出が始まるのは必然の成行きです。
 左グラフに見るように、この1925年の平均農家所得は決して低いほうではなかったのですが、その後1930年代にかけて低下、低迷します。
 米の収入増を畑作物の収入減が上回ったからです。
 その結果、右グラフの通り、1935年には貧窮者が倍増します。

 困窮して離農転職を余儀なくされる人も大勢居ました。
 右下のグラフは1925年に調査された離農者の直近1年分内訳です。

 米作の主力だった慶尚、全羅、忠清6道の内、慶尚道、全羅道で特に離農者が多かった事が読み取れます。1年間だけの統計で何かを即断はできませんが、示唆的ではあります。

 このデータを掲載している 『朝鮮の小作慣習』(朝鮮総督府、1929年) は、離農の理由を次のように説明しています。

 『中小作農以下の農家は悉く収支相償はざる状態に在るを以て、何等生活上に余裕なく、従つてこれ等の階級に属する農家は、一朝旱水害、其他不時の出来事に遭遇するときは、家財を放売して他に転業し或は一家離散の不幸を見るに至るものも頗る多いのである』 (P38)
 『これ等転業の原因は種々雑多であるが、大別して見れば左の通りである。
(イ)商工業の発達と交通の利便に促され転業するもの。
(ロ)財界の不況及び農産物の価格に比し日常生活費及び肥料労銀の高率なる為め、収支償はず生計困難に陥り自然転業する者。
(ハ)物価騰貴と高利借金の為め収支償はず、他に転ずる者(重に細農窮農階級に多し)。
(ニ)旱水害に因り転業する者。
(ホ)火田耕作厳禁の結果、労働傭人に転ずる者。』
 (P39)


 飢餓輸出の裏にはお約束通りの貧窮があった事、日本統治下で農家の平均所得は改善していないしむしろ悪化した事を確認して、次にまいります。

★ なんでお金が出ていくか

 どうしても現金での支出を要するものがあると、農家は農作物を現金化してお金を稼がねばならなくなります。現金でないといけない筆頭は地税でしょう。また、営農指導と称して化学農法をやれと言われれば肥料代がかさみます。
 政策が最も直接的に支出を強いたのは産米増殖計画(1920年〜)と考えられます。この計画による灌漑事業の費用の内、総督府の補助金は27%(第一期)〜21%(更新計画)を賄ったに過ぎず、残りは農民の負担で行われました松本武祝 『植民地期朝鮮の水利組合事業』1991年、P61)。朝鮮総督府も意図的に農民を没落させたのではなさそうなのですが、産米増殖計画によって生じた水利組合の負担金は深刻な重荷になったようです。
 もっぱら灌漑用水や貯水池を作るために徴収される水利組合費は、…(中略)…1反当たり平均6円10銭で、1町歩なら61円である。組合費が収益より多くなるというような事態が発生した。
趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書、2013年 太字は引用者 P83
 農民は悲鳴を上げるしかなかった。わけても小作農の場合は深刻であった。本来小作農は水利組合費を負担しないはずだが、地主は組合費を小作料に転嫁した。通常は小作料は5割であったが、実際には6割にもなるような小作料負担が農民の肩にかかった。水利組合に反対する農民運動が各地で起きたが、水利組合費の徴収に手心が加えられることはなかった。しかも農民は、地税や地税付加税・戸税・水利組合費以外にも、家屋税・学校費・農会費・森林組合費・畜産組合費などを負担した。その結果、多くの農民が負債を蓄積していき、土地を売り払う者が続出した。
同上書 P83-84
 貧農は、小作料の高率負担や、地主への無償の労働提供などの悪条件をのみ、小作権を手に入れることに必死になった。小作間競争に敗れた者は日雇になった。日雇は、地主だけでなく自作農や小作農にも傭われる農村過剰人口層を形成した。
 こうした中、海外に渡るケースが顕著になっていく。30年当時、日本に42万人、中国に61万人、ソ連に19万人が渡っており、当時の朝鮮内人口1968万人に対して、6.2%が国外脱出したことになる。ディアスポラ朝鮮人の歴史がここに本格化する。
同上書 P84-85
 この水利組合費負担を産む灌漑事業ですが、1940年時点で全水田の71.6%が灌漑水田になっていました(水田総面積1,770,395ha [1町=1haで換算] のうち1,266,726.9ha、朝鮮総督府統計年報1940年版より)。負担もそれだけ広くのしかかった事になり、上に引用した事態は決して一部の例外的現象ではなかった筈です。
 産米増殖計画が朝鮮総督府の施策だった事は既に触れましたが、ここまでで以下の3点が確認できるかと思います。
 (1) 米は確かに増産された
 (2) しかし、増産以上に対日移出が増え、朝鮮人民の口に入る米は逆に減った
 (3) 産米増殖計画の事業費は農民の負担(日本帝国は金を貸しただけ、「お恵み」ではない!)とされ、貧窮化に拍車をかけた

 更にもう1点重要なファクターとして、高利貸の存在を挙げなくてはなりません。
 「農村における高利貸の普遍化──眼に見えない現金貸借を別としても半年かそこいらの間に五割の利を附す長利籾の盛況だけでもその程度を察せられよう──も亦不可避と言わざるを得ないであらう」(『朝鮮の農村衛生』P12)と当時も言われていた高利貸ですが、公式統計ですら個人金貸業者の貸出金利(朝鮮人・日本人間)は月利が2.8-5.6%(1911年)、1.6-3.4%(1937年)(朝鮮総督府財務局『1939年調・朝鮮金融事項参考書』P27-28)。
 年利に直すと、単利計算でも各々33.6〜67.2%(1911年)、19.2〜44.4%(1937年)という高利で金を貸していたという事です。複利計算なら更にはね上がります。しかもこれは当局把握の数字であり、今日の日本同様ヤミ金融の金利は更に高かったであろう事は、上の「長利籾」の例からも窺えます。
 このようなボッタクリレベルの高金利が放置公認されていたのでは、借り手の生活が続く訳もありません。


 以上見た通り、日本統治下で米は増産以上に持ち出しが増え、農民は貧窮し、人口の流出にもつながった、というのが概観です。その要因として、総督府の産米増殖計画による負担増が農家家計を圧迫し、飢餓輸出をドライブした事が挙げられます。


米の対日移出は強制だったのか


 「日本が朝鮮から米を取り上げたというのはウソだ。朝鮮の農家は高く売れる米を売って、雑穀を食べていただけだ」という説を見かけます。もっと過激に、「朝鮮では米ではなく雑穀が主食だった」と唱える言説まであります。

 上の記事を読んでいただければ、自由意志で米を売った(=売らない事もできた)のではなく、貧窮によって売る事を強いられたのだという点は理解いただけるものと思います。
 雑穀食が主食かどうかなんて、今日びの韓国料理店に行って雑穀のメニューを探してみればすぐにデタラメと見当がつく話ですが、数字も見ておきましょう。
 右のグラフは、日本帝国が産米増殖計画を始める前の1920年時点における、穀物の作付面積の道別割合です。上が北部、下が南部の道です。
 同じ朝鮮半島でも、山岳地帯の江原道より北に行くと粟など雑穀の生産量が段違いに上がりますが、米の主力生産地である南部6道(慶尚、全羅、忠清の南北道)では、粟、ヒエ、きび類の雑穀は1割も作付されていません

 雑穀が元々全国的主食だったなら、米の大増産にかかる前の時点で南部6道でも雑穀がもっとたくさん栽培されていた筈なのに、事実はそうではありません。米の大量移出がなされた南部6道では、雑穀は主食ではなかった──少なくとも選好されていなかったのです。

 雑穀の輸入データがあるからといって、朝鮮南部の米作農家がバナナよろしく米を純商品作物扱いしていたと短絡するのは勘違いです。

   【急ぎの方は読み飛ばして下さい】

 輸入雑穀についてもう少ししつこく見ておきます。

 雑穀の輸入量は右グラフの通りです。
 統計年報に載っている輸入雑穀は粟(あわ)と黍(きび)のみです。
 黍は1927年以降しか記載されていませんが、デンプン用途が主であり、輸入量もほぼ粟の10分の1以下(重量)なので、ここでは無視します。
 粟の1921年以前はデータが体積(石)ですが、米の比重を使って重量に換算しています。メノコ計算ですが倍も違わないでしょう。

 「米を売って輸入粟を買う」は、せいぜい産米増殖計画が始まった1920年以降の話であろう事を、このグラフも示唆しています。
 そもそも日本の統治で初めて交通インフラが整備されたなら、それ以前は他地域で栽培された粟を買う手段もごく限られていた筈ではありませんか。

 もっと言ってしまえば、粟の域内生産量は1931-40年でざっくり500万石/年前後で輸入量のだいたい4倍前後。
 同期間の麦合計は10-15百万石の範囲で、粟生産の倍以上。 (朝鮮総督府統計年報1940年版 P44-47参照)
 なので、そもそも輸入粟のウェイト自体が低く、カロリー不足を補う主力だったとは言えないでしょう。

 もう一押ししてみましょう。
 左は1940年に慶尚南道蔚山で行われたフィールドワークの結果を記した「朝鮮の農村衛生」という本に載っている、農家における米・大麦の販売と消費の状況です。
 一戸あたりであって、一人あたりではない事に留意ください。上層、下層の区分けは経済力による分類です。

 注目すべきは、下層の家ですら米を買っているという事です。
 また、豊かな農家ほど米の比率が高く、米への選好は明らかです。

 この本は次のような事も言っています。この村落で雑穀主食の事実はありません
 『下層Aクラスでは…冬季に大根を混用する家庭が極めて多いのである。しかもそれは嗜好云々とは全く無関係であり、ただ単に容量を大ならしめるためであることは注目すべきであらう』(P73)
 『小麦、粟、稗等は殆ど無視しても差支へない。大豆は味噌や醤油の製造に甚だ重要な意義を持つ。…小豆、緑豆、馬鈴薯、甘藷は挙げるにたらない程度の量しか消費してゐない。しかし甜瓜(真瓜)は比較的多く夏季の副食としての役割を演じてゐる』
(P75)


 なんで雑穀が朝鮮全土で主食として選好されていたかのような珍説が流通しているのかな、と思ったら、次のような論説を見つけました。著者はソウル大学校経済学部の教授と紹介されています。
 周知の通り、あの時代に対して一般の韓国人が持っている集団記憶は、一言で要約すれば「収奪」です。
   (中略)
 総督府は生産された米の半分を奪い、日本へ積み出した。農作業をすべて終えると、警察と憲兵が銃剣を突き付けて収穫の半分を奪っていった……。このように解釈できる文脈で生徒たちを教えてきました。
   (中略)
 しかし、私は敢えて言います。このような教科書の内容は事実ではありません。
   (中略)
 生産された米のほぼ半分が日本に渡っていったのは事実です。しかしながら、米が搬出される経路は奪われていったのではなく、輸出という市場経済のルートを通じてでした。当時は輸出ではなく、「移出」と言いました。収奪と輸出はまったく異なります。収奪は朝鮮側に飢餓のほかには何も残しませんが、輸出は輸出した農民と地主に輸出にともなう所得を残します。米が輸出されたのは総督府が強制したからではなく、日本内地の米価が30%程高かったからです。ということは、輸出を行えば、農民と地主はより多くの所得を得ることになります。その結果、朝鮮の総所得が増え、全体的な経済が成長しました。不足する食糧は満洲から粟や豆のような代用品を購入して充当しました。ですから、具体的な推計によれば、人口一人当たりのカロリー摂取量が減ったとは必ずしも言えないのが実情でした。
李栄薫『大韓民国の物語』文芸春秋、2009年 P76-79より抜粋
 なるほど、この話が化けて「米は主食でない」説になったのかな。

 この本の冒頭に書かれていますが、著者が標的にしているのは韓国内の民族主義歴史学、もっと狭く特定すれば『解放前後史の認識』という本です(同書、P30)。日帝憎しで史実を歪めるな、という趣旨と思われます。

 かといって、「日帝統治は良かった」という結論がこの方から出てくる可能性はありません。同氏はこうも書いています。
 ところで、そのようなかたちで経済成長が続いていったら、結局のところどのようになるでしょうか。朝鮮の土地と資源、そして工業施設は少しずつ日本人の所有に帰します。まさにそれこそが、本来の意味における植民地的な収奪でしょう。奪っていくのではなく、投資をして朝鮮半島の資源と工業施設とを日本人の所有にしていくのです。その点に同化政策に伴う実質的な収奪の恐ろしい結果というものを見るのです。この点は明確にしておく必要があります。植民地近代化論といえば、人びとは日本の朝鮮支配を美化するものと考えていますが、とんでもない思い違いです。真の意味での収奪と差別がいかなるメカニズムを通じて展開していたのかを、あるがままに見ようというのが植民地近代化論です。文字通り「植民地的に進行する近代化」なのです。
前掲書 P101-102 太字は引用者

 李栄薫氏が市場ルート云々を論じたのは、「日本は米を銃剣で奪ったのではない」と言うためです。
 そう論じた理由は、韓国の教科書が(少なくともかつて)「銃剣で奪った」と理解されかねない書き方をしていると認識していたからです。
 その一方で、経済活動を通じた収奪も収奪である、とクギを刺しておいでです。この指摘はまったく真っ当であると思います。
 借金を背負わせて買い叩くのは収奪というべきです。

 韓国には韓国の様々な歴史観と、国内の相互対立があるものと思います。
 その文脈を踏まえずに、他国の国内論争のおいしそうな所だけつまもうとするのは、厳に控えるべきでしょう。

 さて、それでは李栄薫先生の指摘について考えてみます。
  「銃剣で奪ったのではない」は、少なくとも産米増殖計画についてはその通りと思われますが、

(1) 米移出増が農家に儲けを残さなかったのは上に分析の通り。実質所得推移は低迷、半数が赤字、小作と貧窮者が増えた。
 米移出で儲けた者が居るなら、それは農家が負担を強いられた水利事業の工事業者や貸金業者、肥料等の資材業者、買い叩いた米商社と考えるのが妥当。
 水利事業の負担を負わせて農家の収入増なき生産増を導いた総督府の政策は、意図はともかく結果として植民地的収奪と言えよう。
 
(2) 「不足する食糧は満洲から粟や豆のような代用品を購入して充当」 は全朝鮮合計で米移出が飢えに直結しなかったと言っているだけ。本稿で挙げた問題の第一である小作・小規模農家の赤字家計と貧窮、経済的没落に対して、代用品購入は救いになっていない
 問題の第二である飢餓輸出とカロリー不足については、
[a] 一人当たりカロリー摂取量については上述の木村論文で、雑穀を含めても1918年の1840calを頂点に1936年の1520calまで下がる一方だったと示されており、「減ったとは必ずしも言えない」には必ずしも同意できない。
[b] 仮にカロリー摂取が減らなかったにしても、肉体重労働者が2000cal./日以下の水準は過少であり、農家が米を飢餓輸出していた事実に変わりはない。
 
(3) 戦時中は話が別
 戦時中は食糧管理法に基づき、朝鮮でも米の強制供出が行われ、農村は過酷な食糧事情に置かれた(詳細は『ファシズムと戦争への巻き添え』の記事『飯の召し上げ』参照)。
 日本本土ですら、1940年の米穀統制規則、更に1942年2月公布の食糧管理法によって、政府の定めた数量の米を供出する義務が農家に課せられ、サーベル供出と呼ばれたような警察力による強権的な米供出が行われたと伝えられている。
 この食糧管理法は同年6月、強制供出を定めた部分や罰則などを抜粋して朝鮮に施行された(食糧管理法朝鮮施行令)。供出された朝鮮米は軍用に回された(倉橋正直・愛知県立大学名誉教授記事参照)が、最終消費者の誰であるかはともかく、日帝本国の農家すら困窮した時期に植民地朝鮮が無事でなかったのは論をまたない。

なぜこの話にこだわるか


 それは、この時代の農家の困窮が朝鮮人の都市流入や域外脱出、つまり在日コリアンの方々の先祖が日本に来た有力な理由を説明するからです。

 右グラフの通り、在日朝鮮人人口は1920年代に増え始め、30年代に加速します。
 1939年以降は労務動員、いわゆる強制連行による増加が加わりますが、強制連行で来た人の大半は戦後すぐに引き揚げたと考えられています。
 同じ時期に朝鮮の都市も急速に人口を増やし、土幕と呼ばれるバラックからなるスラムを形成しています(医療と衛生の記事参照)。

 労務動員で人口が更に急増し始める直前の1937年、在日朝鮮人の生活状況を調査した記録が残っています。
 筆者が入手できた兵庫県と大阪府の調査結果から、日本に渡ってきた理由を世帯ごとに尋ねた結果を以下に示します。

 渡日以前の職業は9割近くが農民であり、渡日理由の7割以上が生活難です。
 ごく一部で言われている 「金儲けのために好き勝手に来た人が大半」 というデマの余地は無い事が明確にわかります。

 上グラフの数値は世帯単位ですが、大阪府の調査対象人数は50,896人であり、同年(1932年)の在日朝鮮人人口390,543人(内務省統計)の8分の1強に相当します。

 当時、朝鮮人の日本移住は同じ国内の引越しに相当する行為でした。
 移住する人も、その前提で移住してきており、生活基盤を置き子孫をもうけました。
 子孫は日本生まれ日本育ちであり、日本が故郷です。血筋だけを理由に市民権を享受できない被差別状態にあります。
 韓国併合によりそのような環境を作り出しておきながら、敗戦後日本政府は朝鮮人と台湾人を外国人扱いに切り替え、ことに朝鮮人は無国籍状態に放り出したのです。

 これだけでも日本政府には充分責任のある経緯です。
 が、これに加えて、在日コリアンの先祖の人達が全くの自由意志ではなく、少なからず上述のような日本の植民地支配の影響を蒙って来日した点は、経緯理解のうえでわきまえておくべきものと考えます。



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