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朝鮮人労務者強制連行 |
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生き証人が至る所に健在だった時分は決して語られなかった「強制連行はなかった」説。数字と一次資料ではっきりさせておきましょう。まとめ@ 1939〜45年にかけて、国家総動員法に基づく国民動員計画により、約72万人の朝鮮人労務者が日本本土などに送られたA 最初の年だけ応募好調だったが、現地待遇の悪さが知れ渡る等して、強制なしに計画人数を動員できなくなった B 強制動員の方法は夜襲、誘い出しなど誘拐と言える手段も用いられ、文字通りの強制連行であり、様々な抵抗もあった C 動員先は大半が炭鉱や土木工事現場で、劣悪な条件の所が多く、給料も満足に受け取れない事が多々あった |
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当時の日本政府自身が強制と認めていたまずは実行当局の責任者に直接語っていただきましょう。発言者自身に不利な証言こそ最も信用できます。 『国民動員計画に基く内地その他の地域に対する産業要員および軍要員の送出また激増を来し、今日なお相当弾力性を有する半島の人力が我が国戦力増強上最大の鍵となって居るのであります。…(中略)…官庁斡旋労務供出の実情を検討するに、労務に応ずべき者の志望の有無を無視して漫然下部行政機関に供出数を割当て、下部行政機関もまた概して強制供出を敢てし、かくして労働能率低下を招来しつつある欠陥は断じて是正せねばなりません』 これは1944年4月13日付の朝鮮総督府官報に載った、政務総監(総督の次席にあたる高官)田中武雄の訓示です。官報に訓示を載せるというのは異例です。しかも同時掲載の小磯総督訓示は行政機関が民を苦しめているという趣旨の厳しいお説教です。事態は総督府トップが民草の眼前で組織を強く諌めなくてはならないほど切羽詰った事態だったとみるべきでしょう。 いずれにしても、国民動員計画に係る官庁斡旋労務供出、いわゆる官斡旋は「概して強制供出」だった事がここでわかります。 そして、総督と政務総監が公開で訓示を垂れてみせても現場は一向に改善しなかったようです。訓示の3ヶ月後に朝鮮に派遣された内務省管理局嘱託の小暮泰用氏は、1944年7月31日の復命書(出張報告)にこう書いています。 『戦争に勝つ為にはかくの如き多少困難な事情にあっても国家の至上命令に依って無理にでも内地に送り出さなければならない今日である、然らば無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務舎の残留家庭の実情は果たして如何であらうか…(中略)…蓋し朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的略奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼす悪影響もさること乍ら、送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様である』 『徴用は別としてその他如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である。それはもし事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、その他各種の方策を講じて人質的略奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼等を精神的に惹付ける何物もなかったことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪極まることは往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難ないし破滅が屡々あったからである』 ここで更に、強制連行は全て当時の国民徴用令による「国民の義務」だったという見解も明快に否定されます。朝鮮を植民地にして日本帝国の「国民の義務」を課する事自体が正当性を追及される行為ですが、そもそも強制連行は法的な徴用が実施される前から既に行われていたのです。 そして、この復命書が出され、追って徴用による動員が始まった直後の9月に開かれた第85回帝国議会への説明資料(後出)で、朝鮮総督府は「警察に於ける濃厚なる指導取締の裏付を為すにあらざれば所期の動員至難」と述べ、暴力装置の助けを借りた動員を継続する旨表明しています。 強制連行はなかったなどという大嘘、珍説が生き残る余地は、正常な言論界の中にはありません。 終戦時に日本帝国が証拠隠滅のため書類を大量焼却したにも拘らず、なおこのように、存在証明に充分な一次資料が残されているのです。日本帝国当局の文書ですから、「反日デマ」(笑)の余地も皆無です。 ここではそれを、具体的数字を見ながら追っていきます。 何人、どうやってどこに送られたのか一連の動員は、国家総動員法に基づく国民動員計画によって実施されました(初期の名称は「労務動員計画」)。労働期間は当初、2年間を原則としていました。 右図はこの動員数について、日本政府の内部文書に記載された数字です。 これ以外の動員として朝鮮域内の動員などがありますが、いわゆる「朝鮮人強制連行」と言えば域外への労務者動員を指します。 1943年度までの数字は、朝鮮総督府が第86回帝国議会(1944年12月〜翌3月)向けに作成した説明資料に記載の、「昭和十四年以降国民動員計画ニ基キ内地、樺太南洋ニ送出シタル状況」の数字です。この資料は不二出版鰍ゥら復刻版が刊行されており、気の利いた大学図書館であれば蔵本を期待できるかと思います。 1944-45年度は、大蔵省が1947年に非公表で取りまとめた「日本人の海外活動に関する歴史的調査」という文書が情報源です。韓国の高麗書林が1985年に復刻しています。 のべ72万人強が朝鮮から外に労務動員された事がわかります。これとは別に、軍属など軍要員に動員された人も145,010人居ます。朝鮮内での動員も官斡旋422,397人、道内動員のべ200万人超、ほか徴用など様々な形でありました(大蔵省、前掲、第10冊P71-72)。 送られた先を業種別で見ると下のグラフのようになります。 「工場その他」分が上積みされた1944年を除き、炭鉱、建設現場が圧倒的多数を占めます。 ★最初は募集の建前 最初の年(1939年)は朝鮮で旱魃があり、応募が好調だったとされています。ところが翌年から早くも強制連行の事例が出てきます。『慶尚北道金泉郡出身の尹萬徳は1940年6月頃(中略)「日本人と朝鮮人の手先4人が土足で部屋に上がりこみ、そのまま連行された」と述べている』 『朝鮮の鉱山に「斡旋」でやってきた労働者の1940年中の「離散」の理由を調査した朝鮮総督府は、10.9%が強制募集と推定されることを認めていた』 (外村大「朝鮮人強制連行」2012年、P77)。 この初期のやり方は、事業者が職業紹介所を通じて募集を申請し、朝鮮総督府の承認を得て自ら募集し職場まで連れていくという建前でしたが、現地行政機関・警察がしばしば協力していました。 この時期すでに官憲の深い関与と強制色があった事を示す、受け入れ企業側のこんな文書が残っています。
★1年半で官斡旋に移行 1942年2月には「朝鮮人内地移入斡旋要綱」が出されます。いわゆる官斡旋の始まりです。 これには 「職業紹介所及び府邑面は常に管内の労働事情の推移に留意精通し供出可能労務の所在及供出時期の緩急を考慮し、警察官憲、朝鮮労務協会、国民総力団体其の他関係機関と密接なる連絡を持し労務補導員と協力の上割当労務者の選定を了するものとする」 と規定されていました(外村、前掲書、P113:太字は引用者)。 職業紹介所は数が少なかったので、実行部隊は末端行政機関の府邑面(日本で言えば市町村)でした。割当人数分の応募がなければ、村役場が選定せざるを得ないことになり、行政機関の関与が公的に明確になります。 この時期の官斡旋の実態が、当局の担当者によって語られています。東洋経済新報社が1943年11月に行った座談会で朝鮮総督府厚生局労務課の田原実が述べた発言を上述の外村氏著書が紹介しているので、P144から引用します。(太字は引用者)
この座談会の半年後に出たのが冒頭に紹介した「概して強制供出」の訓示で、「全く拉致同様の状態」の復命書が続きます。 「出稼ぎに応募しただけ」という寝言がどれだけ論外のデマであるかは充分に証明していると言っていいでしょう。 ★末期になって徴用 国民徴用令に基づく徴用が労務者動員に適用されたのは1944年8月になります。 徴用ですから必然的に強制になりますが、どういう状況だったか、これも朝鮮総督府自身に語ってもらいましょう。 ここでは1944年8月の第85回帝国議会に出された説明資料から引用します。不二出版の復刻版では第9巻P260の位置からになります。 戦前の例に洩れず文を区切らない読点も打たない書き方で非常に読みづらいので、適宜整形しています。太字は引用者。
徴用は議論の余地なく強制です。「国民の義務だったに過ぎない」などと吹聴する向きを見かけますが、植民地化ゆえに発生した「義務」ならそれは植民地化による被害なのであって、何の弁解にもなっていません。日本の植民地にされなければ、このような強制は受けなかったのです。 劣悪な待遇、給料の天引きに強制貯金→ 特高月報に見る、強制連行された朝鮮人労務者の実情(1943-44年)初年度は応募好調と言われた労務者動員が、なんであっという間に強制連行しないと人手を確保できない事態に転落したのか。給料の支払が良く労働条件も宿舎もまともで、約束の2年経てば故郷に錦を飾れるような話だったら、好評が好評を呼んで「半強制的な供出は今後もなほ強化」する必要などないはずです。 ★ 当初からトラブル多発 動員先の企業によって待遇は様々だった筈なので、一律にこうだったと言う事はできません。が、当初からトラブルの多かった事を示唆する数字はあります。 『労務動員されて来た朝鮮人を受入れた事業場では労働争議やあるいは「内鮮人争闘事件」と官憲が呼んだ日本人と朝鮮人の衝突事件が多発した。両者を「紛争議」として調査していた特高警察によれば、その件数と参加人員数は一九三九年から一九四〇年末までにおいて三三八件、二万三三八三人を数える。参加人数は一九四〇年末時点の「移入朝鮮人労働者」数の二六.三%、つまり四人に一人が紛争議にかかわっていたことになる。紛争議の原因は、@募集時の労働条件と実際の労働条件との相違、A言語習慣の違いによる誤解、B坑内作業を危険視しての忌避、C安全対策や福利施設の設備要求、などであると特高警察はまとめている。』(外村、前掲書、P65) 炭鉱の安全対策と言えば戦後頻発した炭鉱事故を思い出さずにいられませんが、動員2年目で早くも4人に1人以上が警察の記録に残るトラブルに至らざるを得なかった事は、自発的応募者ですら受忍できない労働環境が低くない確率で当初から待ち受けていた事を示しています。 ★ 給与は天引きに強制預金、手に入らないケースも 冒頭でご紹介した内務省嘱託・小暮泰用氏の復命書に挙げられている事例を見てみましょう。太字は引用者。
遅まきながら1944年9月には財団法人朝鮮勤労動員援護会が発足、上の引用にある通り官斡旋労務者を含め困窮する留守家庭を援護する事になりましたが、 「空襲に伴う通信の不円滑又は援護機関の末端不整頓のため、送金極めて円滑を欠き、政府に対する更に新しき不信の声となつて遂に終戦となつた。」(大蔵省管理局編『日本人の海外活動に関する歴史的調査 第10冊』 P73) 「援護施策の不徹底という結果には、受給資格を有する者を含めてその制度がよく知られていなかったことが関係した。 …朝鮮に残っていたのは女性や老人であり、申請書類の作成の能力をもたないケースがむしろ多かった。 …そして申請を行ったとしても受給決定までにはかなりの時間を要した …朝鮮勤労動員援護会会員、つまり動員された朝鮮人を雇用する企業側のサボタージュの問題もあった。…日本内地の企業からの補給の送金も、一九四五年三月末時点で予定額の10%程度にとどまっていたと言われていた」(外村、前掲書、P193-195)
★ その他、監獄部屋、暴行、飯がろくに出ない…… 約束通りのまっとうな待遇をした企業も探せばあるかもしれませんが、『動員された朝鮮人の証言でより多く語られるのは、やはり暴力を伴う抑圧的な管理、労働するには十分とはいえない食事、長時間労働の強要などである』(外村、前掲書、P159)。慰問演芸会を催す炭鉱もあったようですが、それくらいは刑務所にもあります。娯楽を提供する炭鉱は暴力や酷使がない、ということにはなりません。 一方、上に挙げた話を素直に受け止めるなら、たった1年で強制連行が出始め、その後加速した事の説明が成り立ちます。 ここから先は個別の具体例を見ていく話になりますので、先ほどからたびたびご登場いただいている右記の本が手始めに読むには手頃かと思います。様々な事例がほどよく紹介されており、本稿でカバーしていない事も諸々述べられています。 他にもぶ厚い史料集がありますが、警察の内部資料からでも知ることができます。特高警察の月報の複製版が戦後公刊されています。本項冒頭にもリンクを入れましたが、ここからいくつかの事例を別ページでご紹介しますので、興味のある方は読んでみてください。
逃走と防止システム動員されて来日した朝鮮人労務者は全員、「協和会」という統制団体に入会させられました。 中央協和会は1939年6月、厚生省管轄の財団法人として設立され、沖縄を除く各道府県(東京府が都になるのは1943年)と樺太庁に下部組織が設置されています。道府県の協和会は知事を会長とし、その下に警察管区ごとの支会が置かれ警察署長を支会長として、特高警察のメンバーが幹事に加わっていました(協和事業年鑑(1941年版) P26「協和事業機構」の図参照)。 この団体に入ると協和会手帳が発給されました。写真欄の左ページには職業欄があり、逃亡しても手帳を見られれば逃亡元がわかり摘発できる仕組みです。更に企業によっては「住宅の廻りに歩哨みたいなものを立てたり、場合によつては鉄条網を張つて非常に厳重な管理を致します」(日産懇話会本部『時局下に於ける労務問題座談会』1941年。引用元は外村、前掲書、P64)という具合に、監禁ではないのかと思える具体例も残っています。「嫌なら辞めて帰れば良かった」ような生易しいものではなかったのです。 しかしそれでも脱走者は多く、警察による1943年末時点の「現在調べ」では動員された朝鮮人「移入者」366,464人中逃走者が118,735人で、実に32.4%が逃走していた計算になります(外村、前掲書、P158)。 世界遺産・端島の強制連行ユネスコの世界遺産に長崎県の旧炭鉱・端島(いわゆる軍艦島)などの炭鉱施設を登録するにあたり、これら炭鉱に強制連行された朝鮮人労働者などに関する記述で韓国との交渉が難航し、「forced to work」の表現で妥結しています。 ところが安倍政権は性懲りもなく、「強制労働を意味するものではまったくない」(菅官房長官記者会見、7月6日──右記事、動画は官邸Webの6分過ぎあたりから) 「我が国として,強制労働があったと認めるものではなく,これまでの日本政府の認識を述べたものであります」(岸田外務大臣記者会見、7月7日) などと無理筋にしがみついています。 既に長年調査が行われ、『百万人の身世打鈴』をはじめとする膨大な聞き取り記録や現地調査の刊行物はもちろん、『戦時外国人強制連行関係史料集』 『戦時強制連行・労務管理政策』各巻、『石炭統制会極秘文書 復刻版』のような加害側の内部資料まで復刻され日の目を見ているのに、往生際が悪過ぎます。 端島は三菱高島炭鉱の一部であり、高島は長崎市中心部から十数キロ、端島はそこから更に数キロを隔てた島です。1941年の出炭量は高島坑37万トン、端島坑41万トン(『竹内康人『調査・朝鮮人強制労働@ (炭鉱編)』P267)であり、炭鉱の規模として高島と端島は当時拮抗していました。 このヤマもまた強制連行、強制労働の場であったことは、資料ではっきり証明されています。 [1] 内部資料 石炭統制会、という当時の業界団体(炭鉱は全部強制加入)の内部資料が出版されています。下の画像はその資料です。 問題の端島が高島炭鉱に含まれるのは上述の通り。 高島炭鉱への朝鮮人の在籍が明確に記録されています。 表の死傷率が死傷者数に合いませんが、死傷者合計55+186=241人なので合計死傷率は16.0%になり、全国平均12.0%(典拠:上表文献のP71)よりやや高めです。これだけ死傷率が高い事から、客観的に劣悪な環境であった事はほぼ間違いありませんが、国内の他炭鉱と比べても決して良い方でなかった事が判ります。 それなのに、他の炭鉱が軒並み逃走者を出している中で、高島炭鉱は逃走者ゼロ。高島も端島も離島なので自明とはいえ、逃走が非常に困難であった事が改めて確認できます。 また、竹内・前掲書P270 によれば、厚生省は1942年8月(つまり官斡旋が始まった後)以降に高島炭鉱に入山し、1945年8月15日現在在籍した朝鮮人労務者について 「厚生省勤労局報告書長崎県分高島炭鉱名簿」を作成しています。 この名簿から、当該労務者は1,.299名居た事が判っています。官斡旋開始以降の入山なので、総督府訓示の表現を借りれば全員が「概して強制供出」で連れてこられた人達ということになります。 無理やり連れてこられた人が海の孤島に配属されて、公然かつ平穏に脱出できたと考えるのは無理があります。端島が 「監獄島」 だったとする数多くの証言を裏打ちする客観史料と捉えるべきでしょう。 [2] 証言 『調査・朝鮮人強制労働@ (炭鉱編)』は炭鉱ごとにデータ、証言や解説を収録しており、端島については要旨次のような証言が掲載されています。
松坂慶子の父親・韓英明氏も1938年、強制連行とは別枠ですが端島の属する高島炭鉱に日本人名で応募し、日本人飯場に入っています。 8時間労働・日給4円のはずが、親方から「10銭」「20銭」などと書いた紙きれをもらっただけで、逆らえば殴られ、逃げればリンチという環境で、仲間3人で丸太につかまり泳いで逃げたと言います(同書、P264-265)。 被害者の証言は他にも、いくつも残されています。 [3] 加害者自身が認めている 戦争末期の炭鉱に居たのは朝鮮人労務者だけではありません。連合軍の捕虜や中国人も強制労働させられていました。当然、両者からもこの問題を追及されています。 右は朝日新聞の2015年7月24日付け記事です。『戦時中に日本に強制連行され過酷な労働を強いられたとして、中国人元労働者らが三菱マテリアル(旧三菱鉱業)などに損害賠償を求めていた問題で、同社が「使用者としての歴史的責任」を認めて謝罪し、一人10万元(約200万円)を支払うなど、訴訟外で和解する条件を示していることが中国側の複数の関係者の話でわかった』 『元労働者側は…一つのグループを除くすべてのグループが、こうした和解条件を基本的に受け入れている』。 この1年後、2016年6月1日に三菱マテリアルは「中国人元労働者との和解について」というプレスリリースを発表し、「第二次世界大戦中に中国人元労働者(以下、元労働者)が当社の前身である旧三菱鉱業株式会社(以下、旧三菱鉱業)の事務所において労働を強いられたことについて、3名の元労働者の方々と和解致しました。 …歴史的責任に対し真摯かつ誠実な謝罪の意を表明」 と述べています。 このプレスリリースに挙げられた対象の砿山に、端島炭鉱も入っています。 この10日ほど前には、連合軍捕虜に謝罪するという報道がなされています。捕虜の場合は強制が自明として、中国人について認めた以上、朝鮮人だけは強制労働でなかったと強弁し続けるのは無理筋でしょう。朝鮮人に強制する必要がないような環境なら、中国人に強制する動機の説明がつかないからです。 余談:245人いる!現在の在日コリアンの方々の市民権について、「先祖が強制連行された人達だから市民権を認めるべきだ」と主張している人が居るのか居ないのか、私は存じ上げませんが、そう主張するのは許せない、との趣旨とおぼしき書き物は時々みかけます。 在日コリアンの方々の市民権問題は、ご先祖の強制連行云々には関係ないというのが私の理解です。そうではなく、かつて日本国籍と扱われた状況の下に日本国内に生活基盤を築き、日本国内の日本語環境の中で子孫をもうけた故に故国への帰還が困難になった人達なのに、敗戦の後一方的に日本国籍を取り上げ、ゆえに我が国では国籍とセットになっている市民権まで剥奪した事が問題なのだと私は考えます。一言で言うなら、いちど日本人扱いした責任を取るべしということです。在日台湾人についても全く同様です。 在日コリアンの大半が2世、3世以降になった今日においては尚更です。日本生まれ日本育ちなのに親の国籍を理由に満足な市民権を享受できないのは、私から見れば門地による差別です。 そういう訳で、現在の在日コリアンの方々の何%の先祖が強制連行で日本に来たのか、私はあまり興味がありませんが、これはあまりにヒドイだろうという話が目に入ったので一言しておきます。 外務省が1959年7月11日付で発表した文書で、当時の在日コリアン約61万人の「外国人登録原票について、いちいち渡来の事情を調査した結果、右のうち戦時中に徴用労務者としてきたものは245人にすぎないことが明らかになつた」とやらかしています。これを近年ほじくり返して何かのエビデンスに用いようとした国会議員が居るようです。 そもそも徴用だけ数えて官斡旋の分を無視している時点でおかしいのですが、徴用開始後だけでも推定20万人オーダー vs. 245人で、残留率は0.1%近辺にしかならずあまりに不自然ですので、ちょっと確かめてみましょう。 外務省(当時)は「外国人登録原票について…渡来の事情を調査した」と言っています。 当時有効だった外国人登録法の第4条によれば、外国人登録原票に記載される情報は次の通りです。一体どの項目を見れば「戦時中の徴用で日本に来た」とわかるのでしょう?
在留資格を見てもわかりません。せいぜい、1945年9月2日以前に来日したかどうか程度がわかるだけです。 上陸許可の日付でしょうか?国民動員計画とほぼ同時期の1939年9月1日〜1945年8月15日に来日し定住していた人は、当の外務省発表で35,016人居ます。245の100倍以上です。終戦前からの在留者388,359人から日本出生者、来日時期不明を引いた143,012人に対して24%を占めます。 この外務省発表はこんな事も言っています(太字は引用者)。 「1939年末現在日本内地に居住していた朝鮮人の総数は約100万人であつたが、1945年終戦直前にはその数は約200万人に達していた。そして、この間に増加した約100万人のうち、約70万人は自から内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加によるのであり、残りの30万人の大部分は工鉱業、土木事業等による募集に応じて自由契約にもとつき内地に渡来したものであり…」 農作業中の人を田んぼからかっさらって炭鉱にひきずり込むのが自由契約なら、世の中に民法は必要ありません。このように基本的な所で明らかな間違いを犯している資料は、数字の出し方も信頼できないと判断するのが賢明でしょう。 この発表は当時から問題視され、新聞に掲載された翌日の7月14日には早くも朝鮮総連の反論が新聞に出ています(右画像)。真偽は興味のある方に検証いただくとして、動員先の一つだった宇部炭鉱の地元「山口県宇部地区だけでも、強制徴用残留者は245人いる」との指摘はなかなか示唆に富んでいます。 ほか、朴慶植氏が体験者への聞き取り調査によって『朝鮮人強制連行の記録』を著す大きなきっかけになるなど、この外務省文書は強制連行問題の掘り起こしに火をつけ多くの反証を招いたとは言えるかもしれませんが、後年の調査研究に対して反証し得る文書と考えるのは論理的順序が逆なようです。 他サイトへのリンクNHK戦争証言アーカイブス イ・ウンシクさん チェ・オナムさん 実際に炭鉱に強制連行されてきた方の証言映像です。お2人とも三井田川の炭鉱です。 徴用と言っていますが、イ・ウンシクさんは1943年に連行され3年居たので、正規の徴用ではなく官斡旋による強制連行です。 朝鮮人強制連行の真相究明 強制連行被害者の名簿整理をしています。「日本の歴史歪曲を許さない!全国大学生行動」作成。 朝鮮人未払金の実態と供託経過 連行労務者への賃金、郵便貯金などの未払金を政府が調査した文書について詳述されています。 『データで見る植民地朝鮮史』トップへ 植民地期の年表を見る ツイート |