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植民地期朝鮮の法治と人権

 
日本帝国は本国より先に植民地で被差別部落をなくし民主主義を導入したという言説があるそうです。すごいですね。

まとめ

@ 戦前の日本は形式的法治国家に過ぎず、「法の支配」はなかった。いわんや植民地朝鮮をや。
A 警察による杜撰な即決処断が横行しており、近代的裁判制度が行き渡っていたとはとても言えない
B 植民地朝鮮における朝鮮人の待遇は大きく差別されており、行政の要路はほぼ日本人が抑えていた
C 本土以上の人権抑圧法規が施行され、流血の弾圧も行われており、人権が保障されているとはとても言えない状態だった
D 地方行政に制限選挙が行われていただけで、議会の権限も小さく、地方自治が機能していたとは言えない
E 衆院選挙権付与の法改正は公布されたが、たった23議席、国税15円以上納めた男子だけの制限選挙、しかも施行されず


つまみ食い用リンク(本ページの途中に飛びます)

法治国家って何だっけ
平等って何だっけ
自由って何だっけ
参政権って何だっけ
 いやあ、「近代」って何でしたっけ。

 帝国主義やファシズムもまた「近代」の一面ゆえ、確かに日本帝国は朝鮮を植民地という形の「近代」に巻き込んだということになりますね。
 それに、ファシズムも「民主主義」の一形態ですから、確かに日本帝国は朝鮮をファシズムという形の「民主主義」に巻き込んだかもね。

 自動車や自動皿洗い機だけが「近代」ではないし、ファシズムは「民主主義」の内なる敵というか双子の兄弟である、という所までぶちまけるのであれば、上のような議論もありなのでしょうが、近代とは何か、民主主義とは何か、といった議論はとても片手間にできそうにないので、ここでははしょることにしたいと思います。


法治国家って何だっけ


 日本の植民地統治が朝鮮を法治国家にしたとか吹く向きが居るようです。
 それでは、「法治国家」がいかなる意味で使われる言葉なのかを確かめてみましょう。
 「法の支配」の原理に類似するものに、戦前のドイツの「法治主義」ないしは「法治国家」の概念がある。この観念は、法によって権力を制限しようとする点においては「法の支配」の原理と同じ意図を有するが、次の二点において両者は著しく異なる。
 …戦前のドイツの法治国家 (Rechtsstaat) の観念は、そのような民主的な政治制度と結びついて構成されたものではない。もっぱら、国家作用が行われる形式または手続を示すものにすぎない。
 もっとも、戦後のドイツでは、ナチズムの苦い経験とその反省に基づいて、法律の内容の正当性を要求し、不当な内容の法律を憲法に照らして排除するという違憲審査制が採用されるに至った。その意味で、現在のドイツは、戦前の形式的法治国家から実質的法治国家へと移行しており、法治主義は英米法に言う「法の支配」の原理とほぼ同じ意味をもつようになっている。
芦部信喜『憲法』岩波書店、1993年、P14-15 下線は原典では傍点
 法治国家とひとくちに言っても、形式的に法を用いて支配しているだけのものと、「法の支配」に合致した実質的法治国家との2通りある、と述べられています。
 前者の意味で捉えるなら、法の中身がどうであろうと、「法支配」されてさえいれば──すなわち、すべき事、してもよい事、してはならない事、手続の方法などが法の形で規定されていれば法治国家と呼べることになります。中身に関係ないので、法治国家だから民が幸せだとか国家が上等だという事には必ずしもなりそうにありません。
 後者の意味で捉えるなら、「法支配」──すなわち、例えば基本的人権のような、変更も否定も許されない根源的価値を最高法規として、権力機構といえどもその最高法規に支配される体制を為してはじめて法治国家と呼べる事になります。上記の芦部信喜『憲法』は、法の支配の内容として重要と考えられているものに次の4つを挙げています。
@憲法の最高法規性の観念、
A権力によって侵されない個人の人権、
B法の内容・手続の公正を要求する適正手続 (due process of law) 、
C権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重
芦部信喜『憲法』岩波書店、1993年、P14
 そこで、日本帝国の朝鮮統治はどうだったのか見てみることにします。

★ 形式的法治国家なら、大韓帝国も着手していた

 下の表は、併合前の大韓帝国、植民地朝鮮、同時期の日本本土の基本法と立法権を比較したものです。
項目 韓国(併合前) 朝鮮(植民地時代) 日本本土
主権 独立国の体裁(日本の干渉下) なし(植民地) 独立国
基本法 大韓国国制 (1899年) 「朝鮮ニ施行スヘキ法律ニ関スル法律」
(1911年)
明治憲法は直接施行されず
大日本帝国憲法 (1889年)
立法権者 皇帝 天皇   (勅令により日本法を選択的施行)
朝鮮総督(制令の制定:但し天皇勅裁が必要)
天皇+帝国議会の協賛
(緊急勅令あり)

 日本に四半世紀ほど遅れて開国した李氏朝鮮は、日本より10年遅れで最高法規「大韓国国制」を制定するに至ります。
 全9条から成り、皇帝に全ての権力を集中させる事のみを規定したごく簡素なものでしたが、法治国家の要件を「法支配」の形式のみで判断し、内容を問わないなら、少なくとも法治国家の第一歩は踏み出しています。1905年には刑法も制定しています。行政法も併合直前時点で韓国法典に見られる所まで整備されてきていました。併合前の韓国が全くの停滞状態だったと言うのは誤りです。

★ 君主専制という意味では、日本帝国の統治も同類

 さて、日本帝国が朝鮮を植民地にして適用した「法律の法律」は、次の通りです。短いので本文全文を載せます。太字は転載者。
朝鮮ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律  (明治44年法律第30号)

第1条 朝鮮ニ於テハ法律ヲ要スル事項ハ朝鮮総督ノ命令ヲ以テ之ヲ規定スルコトヲ得 
第2条 前条ノ命令ハ内閣総理大臣ヲ経テ勅裁ヲ請フヘシ
第3条 臨時緊急ヲ要スル場合ニ於テ朝鮮総督ハ直ニ第一条ノ命令ヲ発スルコトヲ得
     前項ノ命令ハ発布後直ニ勅裁ヲ請フヘシ若勅裁ヲ得サルトキハ朝鮮総督ハ直ニ其ノ命令ヲ将来ニ向テ効力ナキコトヲ
     公布スヘシ
第4条 法律ノ全部又ハ一部ヲ朝鮮ニ施行スルヲ要スルモノハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
第5条 第一条ノ命令ハ第四条ニ依リ朝鮮ニ施行シタル法律及特ニ朝鮮ニ施行スル目的ヲ以テ制定シタル法律及勅令ニ違背
     スルコトヲ得ス
第6条 第一条ノ命令ハ制令ト称ス
 これだけです。
 明治憲法は直接施行されなかったので、天皇名義(勅令)で日本国内の法律を選択的に施行する他、その範囲内でではありますが、朝鮮総督が天皇の勅裁によって好き勝手に法令を制定できる、というのが異法域・植民地朝鮮の法制でした。
 ひらたく言えば、天皇と朝鮮総督が組めば何でも好き勝手に専制できる理屈になります。

 確かに法律を明文化したという意味では形式的法治体制だし、35年余の統治期間の間に立派な文章の制令がたくさん整備されたでしょう。
 ですが、専制という意味では君主が入れ替わっただけで、「大韓国国制」と本質的には違いがよくわかりません。台湾総督は地元で「土皇帝」と呼ばれていたそうですが、朝鮮総督も権力の独占においては同様でした。

 もっとも、明治憲法が施行されたところで、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」(第4条)、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第3条、天皇は責任を追及されないという規定)、「天皇ハ…命令ヲ発シ又ハ発セシム」(第9条)、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(第11条、軍の独走を許した統帥権規定)といった具合に人民主権ではなく、”臣民”の権利も「法律ノ範囲内」つまり法律さえいじくればどうにでもなる規定だったので、上に述べた実質的法治国家の要件を満たす代物でなかった事は、これ、今でも小学校の授業でちゃんとやってるかな?


★ 裁判は近代的だったか

 「法の支配」の要件を満たす実質的法治国家である為には、法の適正手続や、権力をも抑え得る裁判所が必要でした。
 ところが、日本帝国は併合前に施行されていた勅令を継承し、1910年12月に犯罪即決例を制定しています。これにより、三月以下の懲役、笞刑(むち打ちの刑)等に相当の犯罪裁判は警察署長が即決できる仕組みになっていました。
 (当時の日本内地でも拘留30日/科料20円以下は同様に即決可でしたが、これは言い訳にはなりません)

 犯人を捕まえる警察署が裁判もやるのは、とても適正な裁判手続とは言えません。警察は総督の指揮下にあるので、独立性もありません。
 そんな警察の即決で、右グラフに挙げる数の被疑者が刑を科せられていました。
 うち赤い折れ線は、むち打ちの刑(笞刑)に処せられた人数です。韓国をくさしたいサイトでよくこの笞刑の写真が「併合前の遅れた韓国」を揶揄すると覚しき目的で載せられていますが、併合後の日本帝国もこの笞刑を大活用していた事はこの数値から明らかです。わざわざ朝鮮笞刑令を制定して、1920年の廃止まで即決処断の半分以上は笞刑にしていたのですから。

 そんな即決処断の質を占うデータが左のグラフです。正式裁判に至ったケース(年2〜3桁ほどですが)がどのような判決結果になったか、各年度の割合で示しています。
 赤の「無罪・免訴」で概ね2割、青縞の「軽く」なったケースを加えれば4割、年によっては6割を超えます。これらの人は、正式裁判に辿りついていなかったらもっと重い刑か、無実の罰を受けた事を意味します。
 裁判に至ったケースだけとはいえ、2割も冤罪が出る審判が due process of law の名に値しない事は論を待ちません。

平等って何だっけ


 そんな即決処断を任されていた警察の人員構成を示したのが、右のグラフです。

 奥から手前に巡査(黄)、警部補(青)、警部(赤)、警視(緑)と位が上がるにつれ朝鮮人警官の割合が減っていき、警察部長のポスト(黒、13〜14人程度)に座った朝鮮人は、1940年まで皆無です(これ以降のデータは未入手)。
 警部補以上は、年を追っても同様に比率が減っていきます。日本人を優遇し、日本人に権限を集めていた事が明らかに読み取れます。

 判事(=裁判官)の人員構成についても同様に見てみると、左グラフのようになります。
 併合初期を除き、朝鮮人判事は全体の22%を超えた事がありません。奏任より上級の勅任判事は全員日本人です。裁判所も日本人で固めていました

 検事は右グラフの通りもっと寡占状態で、朝鮮人検事は概ね1割程度、多い年でも15%止まりでした。

 本丸の朝鮮総督府および所属官署の職員構成は下の通りです。全年度のデータが揃わないので、3つの年度を切り出して作図しています。
 警察同様、上級職に行くほど日本人比率が上がり、年を追って朝鮮人比率が下がる傾向にありました。
 道知事(概ね高等官2等相当)より位が上(高等官1等相当)とされた総督府本府の局長に登用された朝鮮人は35年間でたった2人でした(稲葉継雄『朝鮮植民地教育政策史の再検討』九州大学出版会、2010年、P59・67)。
 歴代総督や、ナンバー2の政務総監は言うまでもなく全員日本人で、異民族支配の色がはっきり出ています

 などと言うと、それは能力差が原因でないという証拠を出せ云々、という手合いが例によって出てくるかもしれません。
 そう言うなら、まずは能力差が原因だと主張する根拠を示すのが筋で、なんでも相手に証明を求めるのは怠慢というべきですが、問題はこのような決定的な格差があったという結果そのものであって、どんな原因があろうと正当化できません。

 また、併合初期ならともかく、民族による能力差がこれほど長期に温存されていたなら、そのような能力差が出る環境を放置した施政を問題にしなくてはなりません。
 教育について述べたページに示す通り、総督府は朝鮮人民への義務教育を最後まで怠り、就学率を長年2割未満に放置し、中等・高等教育の環境整備も手抜きしていました。
 併合初期の学制は卒業しても上級学校への入学資格が付与されない仕組みだった故、愚民化政策だったという指摘もある位です。
 機会が不均等な状況を作っておいて結果の自己責任を問うのは、卑劣な責任転嫁です。

★ 朝鮮の被差別階級を解放したというブラックジョーク

 日本帝国が朝鮮の奴隷制度を廃止して差別をなくした云々という妄想も流れているようなので、事実関係を確認しておきます。

朝鮮戸籍令(1923年施行)
第1条 朝鮮人ノ戸籍ニ関シテハ朝鮮民事令ノ規定ニ依ルノ外
本令ノ定ムル所ニ依ル
朝鮮教育令(第一次、1911年)
第1条 朝鮮ニ於ケル朝鮮人ノ教育ハ本令ニ依ル
朝鮮教育令(第二次、1922年)
第2条 国語ヲ常用スル者ノ普通教育ハ小学校令、中学校令及
高等女学校令ニ依ル(以下略)
第3条 国語ヲ常用セサル者ニ普通教育ヲ為ス学校ハ普通学校、
高等普通学校及女子高等普通学校トス













 朝鮮を植民地化する事により、日本帝国が「朝鮮人」自体を被差別階級にしてしまった事は、日本人に課していた義務教育を朝鮮人には最後まで適用しなかった事一つですでに明白かつ決定的です。教育が人生の機会を決定的に縛ってしまうからです。現に権力機構の中枢にほとんど参画できていなかったのは、すぐ上で見た通りです。戸籍が明確に分離されており、このような差別待遇は容易でした。
 この一大事をスルーして「全ての朝鮮人を平等に扱いました」と言われても、それ自分が見えてませんね、という嗤い話にしかなりませんが、これでおしまいでは面白くないので、もう少しだけ掘り下げてみます。
1882 官職登用の条件から身分を外す
1886 私奴婢の世襲を禁止
1894 奴婢売買禁止と賎民解放
1896 庶子の李采淵が漢城判尹(ソウル市長)に就任
ソウルの都市改造事業を実行
1909 民籍法施行
1923 朝鮮戸籍令施行、民籍法を置換
1923 被差別民解放を唱え衝平社設立

 右は被差別民解放に関する簡単な年表です。
 制度的にはすでに1894年までに解放されており、日本帝国の手柄らしきものは何もない事がわかります。

 もちろん、制度をなくしただけで差別もすぐ無くなる訳がないのは、今日の日本を見ればすぐわかる話です。そこで実態が改善されたかどうかが問題になりますが、日本帝国の統治よろしく差別が実態上も改善された証拠はみあたりません。
 就学差別をきっかけに被差別民解放を訴える団体「衝平社」が設立されたのは日帝統治下の1923年です。
 1933年に朝鮮総督府から出版された『朝鮮の聚落』中巻は、駅吏部落、在家僧部落、旧白丁部落などが1930年時点でも依然として残っている事を事例を挙げて指摘し、うち屠蓄業を営む者として差別を受けていた旧白丁部落について「従来他の部落と社交関係なく、社会に於ける特殊階級として一部落に集団せり」と記しています(P306)。

 このように、「日本帝国が朝鮮の被差別階級を解放した」という物言いは、二重の意味で実態を伴わないデマです。


自由って何だっけ


 戦前は日本本土も人権が保障されているとは言いがたい状況でしたが、植民地朝鮮が本土をさしおいてパラダイスだった訳がありません。以下、ざっくり人権抑圧・弾圧法規を並べてみます。
1907 第三次日韓協約と同日に新聞紙法を制定させる 検閲、発行禁止処分などを規定
第三次日韓協約直後に保安法を制定させる 結社・集会の解散命令、ビラ配布・掲示の禁止、「政治に関し不穏の動作を行う虞ありと認むる者」の住居退去命令などが可能に
1909 出版法を制定させる  出版を許可制に
1910 韓国併合とほぼ同時に集会取締を発令 「当分の内、政治に関する集会もしくは屋外に於ける多衆の集合を禁止す」
1912 朝鮮刑事令を制定 容疑者の任意拘束、証拠無き判決可能に
警察犯処罰規則を制定 集会や請願も処罰対象に
1919 三・一独立運動
政治ニ関スル犯罪処罰ノ件を制定 政治変革を目指す運動等に10年以下の懲役または禁固、在外朝鮮人にも適用
1925 治安維持法制定、朝鮮にも施行 独立運動も対象に 結社に入っただけで懲役、最高刑死刑
1936 朝鮮思想犯保護観察令を制定 治安維持法の刑猶予者、仮出獄者の監視、交友制限などを規定
1941 朝鮮思想犯予防拘禁令を制定 刑期終えても拘禁可能に (直後の治安維持法全部改正により同法での対応に統合)

★武力弾圧と暴力的取締り

 1919年には三一運動(独立万歳を唱える集団示威運動)が全朝鮮で起こりました。
 当初概ね非暴力を基調として始まった事は、5/10までの新規受刑者1,237名中97%の1,199名が騒擾罪ではなく保安法で有罪とされている事からも窺えます(ほか騒擾が20名、殺人は2名。初犯でない者はわずか6名。当局資料C06031115400による。但し検事の事件受理数は4/20の段階で総数10,361人中騒擾罪が2,540人を占める──当局資料C06031082700より)
 しかし日本政府の対応は「表面上には極めて軽微なる問題と看做すを必要とす、然れども裏面に於ては厳重なる処置を採り将来再発なき様期せられ度、但し其の処置に就ては外国人の最も注目する問題なるに依り残酷酷察の批評を招かさることに十分の注意相成度」原敬首相3/11電報:リンク先最終3ページ参照、太字は引用者)という、なんとも赤裸々に姑息ですがこっそり力で弾圧せよとの方針が東京から指示されています。
 当局側記録には初期段階からデモ隊に兵器を使用した記事が多数見られ(アジア歴史資料センター、初動:C06031080600軍投入:C06031080800本土から派兵:C06031081700など)、民衆側もエスカレートした模様です。
 この三一運動は4月末時点で参加者約110万人、示威行動1,214回、うち衝突426回を数えています(趙景達『植民地朝鮮と日本』P42)。そして5月以降分も含め、朝鮮側死者7,509名、被囚者46,948名に対して、日本側官憲死者8名と集計されています(同書、P46)
 弾圧の様子についてはC06031083900にまとまった記事があります(有名な堤岩里事件は本資料のP48-54)。勃発から半年を経たソウルの様子を記した英文北京日報9/30京城発記事の翻訳が冒頭に紹介されているので、以下に転載します。
 本日市中各街は非常に多数の帯剣巡査憲兵及び帯銃兵士を以て埋めらるるを見る。此の如く武威を示すは鮮人を威嚇して独立示威運動を防遏せんが為に外ならず。
 最近二十四時間内に拘禁せられたる鮮人数二百五十名にして、数週間に拘禁せられたるもの二千名に達し、日本人は全力を遏して鮮人を動揺せしめんと計るものの如く、何等審問を行はず又確証なくして残酷なる殴打を加ふ。官憲の言に拠れば大至急牢獄を新築しつつあるも、何れの牢獄も満員にして収容の余力なきを以て嫌疑者を殴打して釈放するなりと云う。
 日本の探偵制度は実に乱暴を極む、然れども鮮人亦之に対抗するの策を講じつつあるを以て日本人は容易に真相を知る能わざるに至れり。尚続々示威運動起こるべく、十月一日を期して之を行ふべしとの風説あり、九月三十日発行の京城「プレス」は此の点に関する記事を掲げたるも其の詳細を知らずと報じ、尚曰く、此の上騒擾を起すが如きことあらば唯厳酷なる取締を励行して鮮人を圧迫するの外なかるべし云々、是日本人の執れる唯一の手段たり。
 伝道連合会は此の程其の年次会合を閉鎖し、総督代理者は之に挨拶を与え、温和なる手段を執るべきを伝えたるに拘らず、牢獄に於ては鮮人を虐待し居れり。鮮人の言に拠れば、新総督は言行全く相反すと。伝道連合会は真実の改革を求め鮮人に対し野蛮的虐待を加ふるに抗議を提出すべき旨決議せり
 そして、治安維持法の先駆けとなる「政治ニ関スル犯罪処罰ノ件」を作り、政治運動そのものを取締りの対象とするのはこの三一運動真っ最中の1919年4月でした。

 1929年には光州学生事件が起こり、全国に飛び火します。朝鮮人女子校生に対する日本人中学生のいじめが火をつけ、全国の朝鮮人生徒5.4万人が参加する同盟休校などの運動に発展しましたが、1,600人が検挙されています(同書、P120-121)

★ 心の自由もなくす

 下のグラフは思想犯として送検された人数です。総督府はこう記しています。
 朝鮮に於ける思想犯罪は昭和2年(註:1927年)以来一躍激増し、爾来年々増加の傾向を辿り憂慮すべき情勢に在りたるが、不断周到なる検挙の励行と満洲事変以来の社会情勢の変遷、特に国民精神の昂揚等に支配され、昭和7年(註:1932年)を最高潮時として漸く落潮の傾向を辿るに至れり
 然れども未だ其の跡を絶つに至らず、其の運動は益執拗巧妙となり、之が査察は困難を加え…(中略)…以上の特種事情を考慮し、曩に内地に於て施行せられたる思想犯保護観察法と内容略同一なる朝鮮思想犯保護観察令其の他関係法令の制定を見るにいたり、昭和十一年(註:1936年)十二月十一日より実施せらるることとなり。
 保護観察所は全鮮七箇所即ち(中略)に設置せられたり
(朝鮮総督府施政年報1937年版 P561)
 さらに1936年、南次郎が朝鮮総督になると「内鮮一体」を掲げ、人様の内心に遠慮なく干渉するようになります。日本本土でも同様でしたが、国民精神総動員なる、サイコな香り満点の運動が朝鮮でも始まります。この時代の日本帝国は精神総動員だけでなく、精神統一したり精神注入したりと、どうにも精神をいじくり回すのが大好きだったのですが、具体的に何をしたのか、当時の文章を拾ってみます。太字は引用者。
 十二年(引用者註:1937年)十月には皇国臣民の誓詞が制定されて、朝鮮に住む会員は、諸儀式、諸行事、その他機会ある毎に必ず朗読することとなり、十一月には…(中略)…全面的に一日又は十五日その他適当な日を愛国日と定め、皇居遥拝、神宮参拝、皇国臣民の誓詞をとなへ、適当な講話をする行事を励行することになった。国民的行事の型が定められたのである。
 人や物の総動員の実施計画が進められるために、まづ精神の総動員が行はれねばならない。内地に於ては支那事変勃発直後、八月の末には「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」の三つを目標に国民精神総動員実施要綱が決定され…(中略)…朝鮮では、この動きに即応して総督府を中心に組織結成への準備が進められた。
 十四年(註:1939年)二月には、聯盟組織として愛国班を洩れなく結成するやうに通達された。聯盟はもう加盟自由意志の規定を乗り越えて、強制力を持つ国民組織に育成されてゐたのである。(中略)
 「私の職務は総督であるが、在鮮住民として愛国班の一人である。(中略)毎朝必ずまづ皇居を遥拝する、皇国臣民の誓詞をとなへる、毎月一日には神社に参拝をする。第一、第三日曜には勤労奉仕をする、……今日の朝鮮聯盟は愛国班三十一万八千余、その班員四百二十五万余人である。これ等の人々が日々我等の班と同じ行動をしてゐる(後略)」
国民総力朝鮮聯盟編『朝鮮における国民総力運動史』1945年、P20,21,34

 精神を総動員する位だから、もちろん精神の自由などありよう筈がありません。
 1940年平壌で神社不参拝を決議したキリスト教信者の団体がありましたが、『六月には全国一斉に大量検挙され、獄死者も出た。戦時体制期全体を通じて、神社参拝拒否を理由に閉鎖された教会は200余、投獄された者は二千余名、殉教者は五十余名に及んだ』(趙、前掲書、P224)という事例の通り、内心の自由も全く無視されたのは日本本土と同様です。

 軍国カルトの極めて嫌らしい所は、ただ強制するだけでなく、「心から喜んで」「自ら申し出る」事を強制した点です。これは自発性の強要と言われています。皇国民ならこういう気持ちになるものだからお前もこういう気持ちなのだ、という人格完全無視の論理飛躍がまかり通る世界、人間Aが人間Bに「精神」を「注入」する精神異常の世界です。
 『戦時体制期は、皇民化して戦争協力するか否かという二元論理を再び鋭く問う時代となった。ただ、武断政治期と違うのは、民族系新聞を廃刊したとはいえ、その他のメディアを総動員して、朝鮮人が皇民化と戦争協力をあたかも自発的に応じているかのように装ったことである。(中略)沈黙こそが知識人の良識ある身の処し方であったが、総督府はそれさえも許さなかった。言いもしない話を捏造され、メディアに流された者は、知識人や一般人を問わず少なくない。』(趙、前掲書、P203)
 ここに言われている「自ら喜んで行った」演出は、陸軍志願兵応募、神社参拝など、当時の資料を読んでいるといやでも目につきます。貴方が何か嫌な行為を強制され、その行為を貴方が「歓喜にうちふるえて行った」と吹聴される(否定は許されない)所を、ひとつ想像してみて下さい。

 これだけ自由を抑圧されていた状態を指して基本的人権が保障されていたとは、逆立ちしても言えません。


参政権って何だっけ


★ 権限のない議会はお飾り

 日本統治が朝鮮に議会制度をもたらして云々、という主張があるようです。
 地方行政機関に、議会に似たものを作ったのは確かですが、うっかり今日の地方議会と同じようなものを作ったと誤解するといけないので、最初に指摘しておきますが、権限のない議会を作っても「民主的」ということにはなりません、。

 三一運動を受けて、斉藤総督下で1920年に道に評議会、府と指定面(日本で言えば市、町に相当)に協議会が設けられましたが、諮問機関であって議決の権能は与えられていませんでした。
 その後、1930年には従来の評議会・協議会が道会、府会、邑会に格上げされて決議機関となり、一般の面(日本で言えば村に相当)に協議会が諮問機関として設けられますが、決議機関といっても「道に関する重要なる事件を議決するの外、道の公益に関する事件に付意見書を道知事その他関係官庁に提出すること、会議規則を設くること、官庁の諮問に答申すること、副議長を選挙することの権能が認められた」(朝鮮総督府『改正朝鮮地方制度実施概要』1931年、P14)という程度のようでした。
 また、議長は行政の長(道知事、府尹など)が勤め、議決に問題があると判断されれば行政の長が取り消したり道制第23・24条など)、朝鮮総督が道会の決めた予算を変えたり(道制第58条)、道会を解散する事(道制第59条)もできる仕組みでした。中央政府から独立し、行政の首長と対等な今日の地方議会よりもはるかに権限の弱い組織でした。

 そもそも道知事からして、「知事ハ朝鮮総督ニ隷シ」朝鮮総督府地方官制第5条)「朝鮮総督ハ道ノ監督上必要ナル命令ヲ発シ又ハ処分ヲ為スコトヲ得」(道制第59条)という間柄、つまり総督の部下であって独立した首長ではありませんでした。しかも、「平等って何だっけ」の項でご紹介の通り、総督府本府の局長より格下のポストに過ぎなかったのです。
 市町村に相当する府邑面は、そんな道の更に下部機関の位置づけです(朝鮮総督府地方官制第21、25条)

★ 制限選挙

 右は1930年以降の、地方行政体の議会類似機関の選挙制度です。

 普通選挙ではありません。戦前の日本本土同様、女性に選挙権がない。当該行政体に5円以上の税金を納めていないと選挙権がない。
 この制限の結果、有権者は左下グラフの通りごく一部の富裕者に絞られ、かつ、圧倒的少数である日本人が有権者構成では中央下グラフの通り、府、邑で朝鮮人に匹敵することとなります。当選者(右下グラフ)もまた同様です。
 面だけは朝鮮人が圧倒していますが、面に置かれたのは協議会であって議決機関ではない事に注意する必要があります。


 中山成彬という右翼の衆議院議員が、2013年3月8日の予算委員会で従軍慰安婦の話を出した際、「1933年5月の道議会(ママ)選挙で当選者の約80%が朝鮮人だった」というフリップを出しました(左画像)。
 選挙結果自体は間違いではありませんが、まるで今日の都道府県議員選挙のような事が行われていたかのような印象を与えるのは問題です。
 一握りの富裕層が選んだ府邑面の議員による間接選挙に過ぎない事、上述の通り今日の「議会」に比べて著しく独立性が弱く権限の小さな組織だった事、道会の議席の3分の1は道知事が任命する点などに一切触れておらず、道会を「道議会」と呼んでいます。
 これでは、まるで戦後日本の民主憲法下で成立した地方自治体と同じような制度が植民地朝鮮にもあったように読めてしまい、ミスリーディングです。道会が道知事に、道知事が総督に逆らえないよう制度的担保があったのであり、「朝鮮人が8割の地方議会を通して朝鮮住民が独立自治を謳歌していた」のではありません。


★ いまわのきわに衆議院選挙権を与え…てない!

 敗戦直前の1945年4月になって、日本帝国は朝鮮・台湾・南樺太の住民に衆議院議員の選挙権・被選挙権を認める法改正を公布します。
 この法改正の公布に至る過程で、朝鮮総督府は第85回帝国議会に次のような説明資料を提出しています。一言で言えば、過重な負担を朝鮮にかけているので待遇を改善しないと統治が崩壊しかねない、という趣旨です。
戦時下鮮内民心の動向を通観するに、一般的には…(中略)…治安概ね静謐を保ちつつあるも、仔細に之を観察する時、大東亜戦争の様相愈々長期化し、各種統制経済の強化、生必物資の受給不円滑、民衆負担の増嵩等、実生活の様相愈々急迫を告ぐるに伴ひ、一部民衆の間に厭戦、反官的機運醸成せられつつあると共に、各種流言、不逞言辞等反時局的悪質言動も亦増加の傾向を示しつつあり。(中略)
…内外諸情勢の急変転するに伴ひ、我方の敗戦必至なるが如き非国民的浮説を敢てするの風漸次台頭せんとし、殊に甚だしきに至りては暗に我が方の敗戦を期待し、朝鮮独立の白昼夢を描きつつある不逞徒輩亦尠しとせさる現況なり。
尚一面治安上当面の重要問題として厳に警戒を要すべきは食糧供出、並労務送出に伴ふ農民大衆層の特異動向にして、時局の要請に基く諸施策の強行に伴ひ、民衆の不平不満頓に増加の傾向を示しつつありて、万一之が措置を誤らんか不測の事態発生の危険なりしとせざるのみならず、…(中略)
…特に顕著に看取らるる有識者層、青年学生層の内鮮差別撤廃期待其他施政に対する動向亦厳に注意を要すべきものあり
近年徴兵制度、義務教育制度、学徒特別志願兵制度、陸軍並海軍特別志願兵制度等正に朝鮮統治上画期的な重要諸施政の実施又は発表を見るに至り、殊に朝鮮民衆に於ては…(中略)…納税義務と共に国民的三大義務の全部を負荷するに至れるものなり…(中略)…内鮮一体の具現たる差別待遇の撤廃、即ち参政権の付与、内地渡航制限の撤廃、官公吏に対する加俸の全面的支給を要望期待する機運相当濃厚にして、此の儘推移せんか将来相当表面化するに至るには非ずやと認めらるる現状にあり
不二出版復刻『朝鮮総督府 帝国議会説明資料』第85回帝国議会分 P247, P249

 こうしてようやく朝鮮にも衆院議席が割り当てられる、と公布されましたが、、、、、

 ⇒議席配分は全朝鮮でたったの23(台湾5、南樺太3、日本本土466)、本土の3分の1に迫る人口を有しながら約20分の1の議席
 ⇒選挙権は25歳以上の男子で直接国税15円以上の納税者のみの制限選挙

ということで、対等に扱う姿勢からは程遠い、申し訳程度のものでした。とても「民主主義を導入した」と言える代物ではありません。

 更にダメ押しをすると、この法改正、公布はされたものの施行されませんでした。「樺太朝鮮及台湾に関する改正規定の施行の期日は各規定に付勅令を以て之を定め…」と附則にうたった『施行日を定める勅令』をどこで紛失したのか、「マダ施行セラレナイデ終戦ト相成リマシテ」(大村国務大臣、衆議院本会議1946年6月29日、1946年の法律第8号で「まだ施行してゐない部分は、これを廃止する」とされ、植民地朝鮮の国政参政権は一度も発効しないまま消えたのです。

 基本中の基本ですが、法律は公布されただけでは有効になりません。施行されないと有効にならず、たとえ解放前に衆院選があったとしても朝鮮は選挙に参加できなかったのです。
 よって、厳密には「朝鮮に衆院議席と選挙権が与えられた」という事実はありません。公布と同時にわざわざ詔書まで賜って宣撫に努めたのに、なんで棚ざらしに放ったらかしたのでしょうね。


【余談】

 右傾化・戦前回帰の風潮はなはだしい昨今ですが、女性のネトウヨ諸氏は戦前の女性の人権がどういう状況だったかわかってますかね。
 参政権は男にしかなかったし、離婚の自由も男にしかなかったしで、女性が戦前を称賛するなど自殺行為もいい所なのですが。いや、女性に限らず、戦前の日本帝国が自ら民主主義を導入とか言ってる時点で、近代日本史を爪の先ほども理解していない事が丸見え、命取りになりますよ。本当に。


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