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近代教育と識字率: 日本の統治が近代教育を施し、識字率を上げた説 |
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日本が学校を建ててやってハングルをどうのこうの、という物言いが本当に成り立つのか、数字で検証してみます。
まとめ① 学校を潰して義務教育を施行せず、20年かけて就学率1割台、識字率は2割強。日本帝国は近代教育を妨げた可能性も② 併合前から書堂などの民間教育があり、併合後も朝鮮人自身による識字運動があった。朝鮮総督府の付加価値が見えない ③ 韓国の識字率が劇的に上がったのは独立回復の後。 ④ 医学校や専門学校は併合前の韓国が自前で作っていた。日本帝国の恩恵ではない |
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まずは手っ取り早く、大日本帝国の栄えある朝鮮文明統治20年の成果を、帝国の正確無比な(たぶん、ね)統計で確かめてみましょう。 下記に、1930年(昭和5年)の国勢調査結果から作成した識字率のグラフを示します。 全年齢層トータルでは、ハングルを読み書きできる人は22.2%(男36.0%、女7.9%)です。 ちなみに日本仮名だけ読み書きできる人は全ての年齢男女クラスタを通して0.2%を超えません。 20年も空費して一体、何のていたらくでしょうか、これは。 学齢期の10代ですら識字率が男性で半分いかず、女性に至っては1割台なかばです。 併合後に日本帝国より賜ったとかいう近代教育が朝鮮人の識字率を劇的に上げたなら、こんな事起こる筈がありません。 この時点で早くも、日本帝国は初等教育の普及を怠っていたことが露見されます。実際、朝鮮総督府は最後まで義務教育を施行しませんでした。 更に、併合のかなり前から朝鮮・韓国自前で、16~20%程度の識字率を確保し、漸次改善していた事をこのデータは強く示唆しています。 40代以上の識字率が男女各々最高齢層に至るまで緩い下降を描き、80歳以上でも16.8%(男35.4%、女4.2%)に達している事、40歳以上の女性に日本仮名を読み書きする人が殆ど居ない事に注目しましょう。 後出しの日本統治でこういう分布にするには、60歳超のじっちゃんばっちゃんまで若者と同じ文字教育に呼び出さねばなりません。それ自体が至難の業ですが、呼び出したなら日本仮名の理解者が高齢層でほぼ皆無である事の説明がつきません。 更に、男性の識字率が20代~40代>10代になっています。 これは ① 官製の学校制度でない何かが識字率向上に寄与したか、もしくは ② 併合後のなんらかの事情が、かえって識字率にマイナスの効果を及ぼした可能性が推定できます。 後者は深刻な容疑です。日帝=文明伝道者説の逆が証明されてしまうからです。要因としては、無理なバイリンガル環境による学童の負担、貧困の激化による通学率の低下などが考えられますが、ここでは敢えて深く追及しない事にして次に行きます。 1944年の総督府調査でもまだ、13歳以上識字率が南部で23%でした(出典:川瀬俊治、2005、P38)。 解放後の数値を板垣竜太氏の論文『植民地期朝鮮による識字調査』で参照すると、漸く右グラフのようになります。 結局、韓国の識字率が劇的に向上したのは独立を回復した後のこと。「日本統治が朝鮮人にハングルを普及させた」は真っ赤な何かであることがわかります。なんでこんなひどい事になってしまったのでしょうか。 日本に併合されたら学校が減った話は併合前の1906年、日本帝国が韓国を保護国化した翌年までさかのぼります。朝鮮総督府学務局が1921年に作った「朝鮮教育ノ沿革」はこう言います(P6-7)。 『先ず教育制度を整備せむことを期し、日本人参画の下に教育に関する諸法令(普通学校令、高等学校令、師範学校令、外国語学校令等を制定し同年(引用者註:1906年)之を発布するに至れり』 『(1) 普通学校 従来の小学校を改めて普通学校と称し、尋常高等の区別を置かず成るべく朝鮮の事情に適応せしむが為その組織を単一にし修業年限4年とし…旧小学校令に学齢を定むる等義務教育の精神を加味せし如きは全然之を廃せり』(下線は引用者) 下線の部分、韓国政府が小学校制度に織り込んでいた「義務教育の精神」を全く廃してしまったと自ら言っています。これが義務教育サボタージュの起点です。しかもこの時、5~6年だった小学校の修業年限を4年に縮め、更に旧制高校など上級学校との学歴連絡も意図的に絶ち進学不能にしてしまっています。この時の学制変更は、後に韓国で愚民化政策とすら評されています (長沢雅春『韓国学部の普通学校制度と「義務教育精神の廃止」について』参照)。 上級学校との連絡は1922年の第二次朝鮮教育令で復活しますが、義務教育放棄はその後も続き、民族による学制区分をなくした1938年の第三次教育令施行にあたってもなお、「小学校の設置、…授業料、…児童の就学に関しては小学校令を適用せず」(1938年3月小学校規程第5条)として、「初等学校を義務教育となさざるが如きもまた従前と同様なりとす」(朝鮮総督府施政年報1937年版、P178)のまま終戦、解放を迎えることになります。 植民地時代、朝鮮民族の通う学校は、法律上は右図のように設定されていました。 併合前からあったミッションスクールなどの私立学校、各種専門学校や医学校は、1911年に朝鮮教育令によってこのどこかに分類され、どこにも分類されないものは「朝鮮総督の定むる所に依る」(朝鮮教育令第30条)とされました。これが各種学校という事になります。 各種学校は1936年の統計年報で初等程度、中等程度に区分けされ、394校中45校が中等程度とされています。生徒内訳には日本人生徒も1~6%ほど登場します。 併合当初は、民族によって通う学校を別にされていました。小学校にあたる学校は普通学校と呼ばれ、日本人の小学校が6年制なのに対し4年制で発足しています。 「身体の発達に留意し国語を教え徳育を施し国民たるの性格を養成…」と、朝鮮教育令第8条に定められていました。ここでいう国語は、日本語です。 さて、併合当初10年間で、朝鮮民族向け学校数は増えるどころか、逆に激減しています。 下のグラフの通り、私立各種学校が激減しているのです。学校数と生徒数、就学率は必ずしも比例しませんが、ともあれ日本が韓国併合で学校を増やした説はここで一旦崩壊します。私立学校をカウントから外して、増やしたように見せただけの話です。 一体何をやらかしたのか、朝鮮総督府施政年報を見てみましょう。 少し長くなりますが、総督府の姿勢がわかります。下線、太字は引用者がつけています。 『朝鮮人を教育する私立学校に関しては、明治44年11月より私立学校規則を実施して旧私立学校令に代え、その設置は総督の許可を要し、その教科用図書は本府の編集に係るもの又は総督の検定もしくは認可を経めるものたることを要し、設備、授業その他の事項にして不適当なりと認めたるときは之が変更を命じ、また私立学校にして法令の規定に違反し、安寧秩序を紊乱し風俗を壊乱するの虞ありもしくは設備授業等変更の命令に違反したるときは事宜に依りその閉鎖を命ずべきことを規定し、大体に於て従来の方針を踏襲せり。 明治44年度末に於ける私立学校現在数は普通学校および実業学校を除き合計約千七百校にして、近年著しく減少の趨勢を示し、明治44年中設立の許可を与えたるものは39校あるのみに反し廃校の届出を為したるものは461校の多きに及べり。』(1911年) 『今なお職員の言動穏当を欠き、その経営また宜しきを得ざるもの尠からず。之が指導監督の必要洵に緊切なるものあるを以て、本年度に於ては視学の制度を設け、私立学校の指導監督を一層周到ならしめたり』(1911年版) 『約五百校は外国宣教師の直接間接関係する所謂宗教学校にして、輓今漸次良傾向を示し、殊にその大部分を占むる長老・監理両派に属する学校は前年来進んで本府の指示を請い、殆ど全部その教科課程を略普通学校または高等普通学校の課程と一致せしめ、教科目に国語を加え…』(1913年版) 『私立学校の整理改善は本府の常に留意する所にして年々之が指導監督に力を致すと共に…』 『特種の私立学校に対しては国庫及地方費より補助金を交付してその改善に資し、一而、私立学校規則を改正してその方針を明確にし…(中略)…その校数に於ては年々減少せるも…概して維持比較的鞏固なる学校のみ存続するの情勢を示し、国語の教授実科の施設に勗むるもの漸く増加し頗る往時の面目を革めたり。然れども往々にして朝鮮教育の方針に遠ざかるものなきに非ざるを以て、常に厳密なる注意を加えつつあり』(1917年版) いかがでしょうか。 義務教育メニューを用意しないなら、学校の教育内容を揃える必然性もありません。なのに私立各種学校に対し、学校査察までして職員の言動に神経を尖らせ、学校が減るのを心配するどころか逆に「学校の整理」に常に留意し、日本語を授業させる事にばかり関心が向いていた事がわかります。総督府は民心操縦のためなら教育の普及すら犠牲にした、と言われても仕方のない所業です。 1922年の改正で、民族ではなく常用言語で学校を分ける建前になります(ほぼ同じ事ですが)。同時に、普通学校も4年制から6年制が原則になります。ただし原則は原則で、実際には1930年代に入ってもなお7~8割が4年制だったという指摘が総督府の資料に引用されています(朝鮮総督府警務局『朝鮮に於ける同盟休校の考察』1933年、P65)。 この体制の末期、小学校(日本人向け)と普通学校(朝鮮人向け)に、どのようにリソースが配分されていたかを示すのが右の表です。 一人あたり経費半分以下。朝鮮の子供達にはお金をかけなかったのが露骨に判ります。 1938年の改正で、師範学校以外はすべて日本内地の学校制度にならうものとなりました。 一見平等になったように見えますが、朝鮮民族固有の事情、言語を無視するという事でもあります。朝鮮語は任意科目となりましたが、朝鮮総督府施政年報を年度を追って見ていくと、1939年度まで設定のあった朝鮮語の教科書がその翌年には無くなっています。教科書がなければ授業もできません。この頃吹き荒れた国語(→日本語)常用運動に連なる流れの中で朝鮮語の授業がなくなっていった表われの一つでしょう。 先生が授業で使う言語も日本語となり、『小学校などでは、日本語が下手な朝鮮人教師が、日本語がよくできる生徒に日本語で授業をするというような滑稽な事態があちこちで見られるようになった』 (趙景達「植民地朝鮮と日本」、P187) という事態を引き起こします。 低すぎる就学率次に、朝鮮総督府の用意したメニューである普通学校に適齢期児童のどれくらいが通ったのか見てみましょう。 ところが実を言うと、朝鮮総督府という役所は正確な就学率を把握していませんでした。
そこで、近年デジタル化され入手が格段に容易になった統計を使って推定してみる事にします。 右図は、普通学校普通科と書堂の生徒数推移です。 1930年は国勢調査の数字があるので、この年の就学率を試算する事にします。 といっても義務教育がない以上学齢の公式定義もありませんが、ここでは日本人とほぼ同等に7-12歳と仮置きします。すると学齢期児童数は2,859,832人となります。 この年、朝鮮人向け初等学校である普通学校普通科(原則6年制)の生徒は490,001人です。書堂は私塾なので学校には含めません。 ※ 書堂規則を制定して総督府が統制の手を伸ばすのは1918年です。これ以前は統計漏れの存在を想定したほうがよいかと思います。 すると、1930年の朝鮮人の普通学校就学率は17.1%と算定できます。 上に挙げた1993年の古川論文でも、諸々のデータから植民地期をほぼ通した就学率を推算しています。これをグラフにしたのが左図です。生徒数推移とも形が合います。 併合最初の10年は就学率1ケタ台前半、そこからアクセルを踏んでようやく1割台半ばでした。上のグラフの形とも整合します。 1930年の普通学校就学率は15.9%ですが、上記の国勢調査からの試算とも良く整合する水準であることがわかります。 1930年代前半からようやくコンスタントに改善し始めますが、上述のように1938年の制度改正からほどなく朝鮮語科目が公立学校から消えてしまったので、これ以降(グラフの黒い折れ線部分)はいくら就学率が上がってもハングル識字率向上に寄与したとは認められません。 古川論文はインターネットには出ていないようですが、この就学率推算を引用した井上薫(かおり)氏の論文 『日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策 :徴兵制度導入に至るまでの日本語常用・全解運動への動員』(1997)のはネットで閲覧できます。 一方で、上に上げた書堂をはじめ、1930年前後には朝鮮日報社の生活改新運動や東亜日報社のヴ・ナロード運動など民間の識字運動が展開されるなど、学校外での文字教育の場もありました。家庭も文字教育の場であったことは論を待ちません。 1944年5月1日、戦時動員で人員の枯渇が進みいわゆる強制連行もむき出しに手荒になってきた時分、朝鮮総督府は残された人的資源(!)を知るため、極秘で全朝鮮に「今いる人」の人口調査を行っています。 このデータはインターネットでは公開されていませんが、国会図書館で入手できます。 この時、識字率は調査されませんでしたが、学歴の回答を求めています。その結果が右のグラフ。 元データ 就学率ではなく学歴です。強制連行などで動員され朝鮮に居なかった人の分など、誤差を多少大きく見込む必要がありますが、このデータで初等学校中退、書堂含め何らかの修学をした15歳以上の人を計算すると20%にしかなりません。 就学率が低いまま長年放置された。それなりに改善した30年代末には、朝鮮語を正課から外し、授業でも使わなくしてしまった。 一方、学制外での民間の文字教育がそれなりに展開されていた。
最後に高等教育を見てみます。 高等教育は日本帝国の賜物かまずは、朝鮮総督府施政年報1939年版から、官立専門学校紹介を見てみましょう。
6校あるうちの5校は併合前の創立、うち4校は旧韓国政府が作った学校です。 朝鮮総督府は、概ね韓国政府時代の事業を受け継いでいるだけであることがわかります。 そして、あちこちで日帝善政説の拠り所にしている人が居るらしき京城帝国大学です。 まずは右のグラフをご覧ください。 わずか数十万人オーダーしか居なかった日本人の学生が7割を占め、地元朝鮮の学生は3割前後を行ったりきたりしています。場所は朝鮮だったかもしれませんが、朝鮮の人達のために作ったと言うには苦しい実態です。 学生数も、当時朝鮮唯一の大学だったことを考えると非常に少ないように思います。学部も法文学部と医学部だけでした(後に理工学部を増設)。 次に、開学の経緯をふりかえってみましょう。 趙景達『植民地朝鮮と日本』(岩波新書、2013年)のP71~P73から関連する記述を引用していきます。 『大学を設立しようという動きは韓末以来あったが、三・一運動以降にわかに教育熱が高まったことを背景に本格的に展開された。』 『民立大学設立の動きは、一九二〇年六月二六日に創立された朝鮮教育会の活動より始まる。』 『この組織は二二年一月、総督府から正式に認可されて朝鮮教育協会と改称した。その間、総督府でもそうした朝鮮人の要求を受け入れる方向で動き、それゆえに第二次教育令では大学教育を認めたのである。』 『法・経・文・理・医・農などを含んだ総合大学の設立が計画され、その基金規模は一〇〇〇万円とされた。』 『しかし、二三年の関東大震災、同年八月の大洪水、二四年の旱災などの自然災害によって、基金は思いのほか集まらなかった。』 『こうした動きに対して総督府は、東洋大学の分校設立案を出すなどして沈静化につとめたが、すぐに方向転換して官立大学の設立を急速に進めていった。』 つまり、 ① もともと自前の大学を作ろうとしていたところに総督府が先回りをして京城帝大を作った ② 朝鮮人学生は3割ほどを占めただけで、7割は日本人学生向けの大学になっていた ということで、「学問の価値を知らない植民地臣民に大学を賜り啓蒙した」が如くのイメージで京城帝大を語るのは間違いです。 そもそも占領した責任を取って大学くらい作って当然のところ、民衆の運動に背中を押されてようやく動き出し、地元の私立大学ができる前に大急ぎで官立を一個こさえた、というのが実情です。 おまけ:「日本(人)がハングルを広めた」という信仰について総督府がハングルの綴字法をなにがしか3回ほど規定したのは事実ですが、異民族の統治者だったから作らないと自分が理解できない→使えない→困る、というだけの話で、これでは全く面白くもなんともありません。 しかも、それが普及したか、人様の役に立ったかどうか問題にせねばならず、一筋縄ではいかないのです。1回目の綴字法なぞ普通学校用に作ったのに教科書にすらろくに反映されていなかったそうですから(後述の三ツ井論文参照)、思わぬ落とし穴が開いています。 日本語の文部省式ローマ字を思い出します。実用になっているのは圧倒的にヘボン式です。ウソだと思ったら「知人が小腸を手術した」って文部省式ローマ字で書いて外国人100人に読ませてみるべし。「てぃずぃんがすょーてょーをすゅずゅとぅすぃた」って読まれるのがオチでしょう。規定したから広まった、実用になったとは言えない身近な事例ですね。 私が目にした限りの情報では、どうも総督府製綴字法の1回目(1912年)、2回目ともに世間で使われている綴字法と一致度が低く、3回目の1930年は在野の民族団体である朝鮮語研究会(のちの朝鮮語学会)に全面的に依存したようです。更に、現在の綴字法の基礎はその後の1933年に朝鮮語学会が発表したもの。 専門家の見解(アウトラインですが)→論文審査要旨:三ツ井崇「植民地下朝鮮における言語支配の構造:朝鮮語規範化問題を中心に」 「日本人が初めて朝鮮語の辞書を作った」と信仰している人も居るようですが、それって1920年に総督府が出した朝鮮語辞典の事ですかね? リンク先の実物を見れば一目瞭然、これは朝日(ちょう・にち)辞典であって、国語辞典の朝鮮語版じゃないですね。閲覧の手間を省くため、右に画像を貼りつけておきましょう。 朝鮮語学会が編纂し、総督府に原稿を押収されながらも解放後回収して1947年出版した朝鮮語大辞典というのがありますが、これ以前に出版された本格的朝鮮語国語辞典があったら見せて欲しいな? そういえばイエズス会が編んだ日葡辞書より古い日本人自前の日本語辞書ってあるんだっけ? 更にとどめを刺しておきます。 外国語辞書としても、総督府の朝鮮語辞典は先駆者ではありません。 これに先立つこと40年前、ハングルを用いた朝鮮語-フランス語辞書 『韓仏字典』 (装丁カラー画像) (内容画像) が1880年に出版されています。 出版したのはフランスの朝鮮宣教師会 (Les missionnaires de Corée) 、印刷は横浜の Echo du Japon 印刷所だった、と朝鮮総督府図書館の雑誌 『文献報国』 1941年12月号に記されています。 朝鮮からの正式な日本留学生第一号、兪吉濬が慶応義塾に来る前年のことです。
もっと痛いのになると、ハングルは15世紀の制定からほどなくして李氏朝鮮が一度捨てたのを日本が復活させたとか、漢字ハングル混合文は福沢諭吉が発明したとかいう大法螺までが巷を流通し信仰を集めていると風の便りに聞きましたが、捨てられていたはずの長い期間に少なくともこれだけのハングル文献が残されているし、左画像の如く既に15世紀には漢字ハングル混合文が登場しているしで、こんなすぐにわかるつまらないウソをついて何の得になるのか全く理解に苦しみます。 福沢諭吉は、朝鮮の指導層が漢文一辺倒をやめハングルを使うよう背中を押しはしました。目的はハングル自体の普及ではなく、ハングルは読めるが漢文を解さない下層階級にも文物の情報を広く伝える事でした。しかし、実際に先例などを調査研究し、読みやすい文体を確立したのは、福沢門下の井上角五郎が教授を頼んだ朝鮮人儒学者にして朝鮮語学者の姜瑋でした。 そして、それを官報である漢城周報に採用するには、井上の熱意のみならず、金允植から国王・高宗への働きかけ等、幾重もの努力がありました。特定の突出した人物が全てを成したのではありません(稲葉継雄『井上角五郎と『漢城旬報』『漢城周報』 : ハングル採用問題を中心に』参照)。 ハングルを読めない外国人ヒーローが独りで新たな書法を発明、民衆に文字を教えて広く普及させたのとは全く話が違いますね。 そんな国漢混合文も、日本語の漢字仮名交じり文ほど価値がある訳ではありません。ハングルは漢字1字に必ず1字で対応し、かつ日本語より音素が豊富で同音異義語が少ないので、漢字なしでもそこそこやっていけるのです。漢字を止めると甚大な影響をこうむる日本語とは事情が違うのです。 (↑細かく言えば、3つめの「간행」には同音異義語「奸行」がありますが、文脈上読み違いはないでしょう) 私の韓国語は少しかじった事がある程度で使い物になりませんが、なんとか解釈してみると上のような按配と思われます。 「漢字混合で便利にしてやった」なんて言えばおのれの語学音痴を晒すだけだ、とものの本に書いてあった事が思い出されます。 いかがでしたでしょうか。 私は資料を改めてひっくり返してみて、就学率の著しい低さが見えた時点でこれは勝負あったなと思いました。 自国の子弟にだけ義務教育を施し、現地の児童を2割にも満たない就学率のまま放置した事は、人生を致命的に左右する差別です。 民草に初等教育をあまねく施さない治世をもって文明を持ち込んだ云々などと吹けば、吹いた側の文明水準を問われるでしょう。 データで見る植民地朝鮮史』トップへ 植民地期の年表を見る ツイート |