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創氏改名 |
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カルト臭のある人物が実権を握ると、合理性に欠ける珍策愚策をしばしばやらかします。あらゆる精神論は有害無益である事の、これもまた一つの例証と思われます。まとめ① 創氏の本質は、男子血族中心の家族制度を「家」中心に変えた事。届出しなかった者も全員自動で切り替えた法的強制② 創氏の際に日本風の苗字を届け出るのは、当初は任意だった。が、途中から圧力をかけて強要し、最終的には8割が届出 ③ 改名は日本風に名前をつけ直す事。こちらは創氏ほどの圧力がかからず ④ 具体的強要方法は末端の各機関に任せられたので、強要の程度も含めてまちまち。 |
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大学受験(日本史)の必携書、山川出版社の『日本史用語集』(1988年版)は、この語を「1939年、朝鮮人に民族固有名を日本式氏名に改正することを強要。神社参拝・日本語強制などと共に皇民化政策を推進。」と解説しています(P255)。 同書によれば、「皇民化政策」は8点、「朝鮮人の強制連行」は15点の教科書に記載されていました。 人様の名前を異国風に変えさせる所業が横暴の極みなのは、自分が名前を中国式や韓国式に変えろと強要されたらどうなのか軽く想像してみれば容易に推察できるはずの事です。 しかし、世の中には右の新聞記事のように、どうにか正当化しようと無理なこじつけを試みる、月並みな人間性も持ち合わせのなさそうな手合いが跡を絶ちません。 後に首相になり ass ho と呼ばれたこの御仁が差別意識の持ち主である事は、自民党の重鎮だった野中広務氏の証言があります。がそれはともかく、手っ取り早く数字で否定しておきましょう。 左のグラフは、在日コリアン1世の創氏改名体験についての聞き取り調査の結果です。 差別回避の実利を推定できなくもない在日の方が対象で、かつ創氏改名時すでに日本在住だった方が約7割前後いらしたと思われますので、その分、朝鮮本土よりも否定的姿勢が弱い可能性を推定できます。それでも強制が80%、「うれしかった」「当然の事だと思った」合わせてたった3.3%です。 麻生発言が ass hole である事は実数字上も明らかです。 この記事では、創氏改名についての最低限の知識をおさらいする他、上記事にあるような歴史歪曲の主な言説について検証することを目的とします。 創氏改名についてきちんと知りたい方は、記事末尾の図書などを読んでいただければと思います。 この記事も、末尾にご紹介の本をもとにして書いています。 創氏による2つの強制:日本式家族制度と日本風苗字創氏改名と一口に言いますが、実際は「創氏」+「改名」で、前者は1939年の制令第19号、後者は同第20号によって1940年2月11日から施行されました。 まずは創氏から説明します。 創氏の強制(1) 朝鮮式家族制度による「姓」を斥け、明治期日本式の「氏」を正式な人名として強制家族制度の強制改変は全員が対象でした。 朝鮮本来の家族制度には、次の3つの原則があります。 「姓不変」 =人の姓は一生変わらない。結婚しても元の姓のまま 「同姓不婚」 =同族の者同士は結婚しない 「異姓不養」 =同族でない者は養子にしない (宮田節子・金英達・梁泰旲『創氏改名』P50の解説に依る。以下この本を[文献A]と表記します) 朝鮮の人名の姓は「本貫」と共に男系血統を示します。同じ男系血統に属する人で一族を構成します。一族の系譜は「族譜」に記されます。 これを図にすると下のようになります。赤字は女性です。本貫、姓、名前はいずれも架空のもの(実在していても関係なし)です。 上図で、黄色地の部分の人が同一の世帯を構成しているものとします。 この場合、日本(明治31年以降)のシステムなら、まず全泳九さんと朴純姫さんが結婚した時点で朴純姫さんが全純姫にさせられます。 全世界さんと車純姫さんについても同じで、2人が結婚した時点で車純姫さんが全順姫さんにさせられます。 このようにして、この世帯は「全」家、構成員の苗字はすべて「全」に統一され、この家に養子に入った人も「全」氏になるのが、明治31年以降の日本のやり方でした(それ以前は日本も夫婦別姓)。 朴純姫さんや車順姫さんは結婚してもあくまで慶州朴氏、咸鏡車氏の一族であるのに対し、日本式では「家」(黄色の一群)でくくり、「全泳九氏の一家」とされ、出身一族とは切り離されます。戸主の全泳九氏が亡くなり、全世界氏が家督相続すれば、新たな戸主である全世界氏の一家という単位で家族がくくられます。 このように、創氏とは家族制度の強制改変であり、苗字を日本式に変えるかどうかは関係ありません。〆切の8月10日までに何の届出をしなくても、戸籍上で本名の「氏」をこのように決められてしまうのが創氏です(本貫と姓の記事も残りますが、本名として残る訳ではありませんでした)。 よく旧日本陸軍に居た朝鮮人・洪思翊(ホン・サイク)中将が苗字を変えなかった事を「創氏が強制でなかった」事の事例として持ち出してくるのが居ますが、とんでもありません。「洪」姓だった洪思翊中将は創氏によって自動的に「洪」氏にされ、奥さんは趙○○という名前のはずが洪○○という名前に自動的に変えられてしまったのです(金英達『創氏改名の研究』未来社、1997年、P44──以下この本を[文献B]と表記)。 『朝鮮では「十親等過ぎれば他人」という言葉がある。いいかえれば十親等以内はすべて身内であり、一つの家族である(尹学準、前掲書)。今日の在日韓国・朝鮮人においてでさえ六親等なら近い親戚、十親等くらいはゆうに頭の中で描くことができる、というのが族譜のもつ力である。一族はイルガ(一家)とも、宗親(宗中あるいは宗門)とも呼ばれる』(文献A、P137-138)。 というくらいですから、「親族」の範囲に対する考え方も姿勢も重みも、日本のそれとはかなり違うと考えたほうがいいでしょう。その建前を壊すような介入がいかような精神的苦痛をもたらすものであったか、軽々しく想像で語るべきではないでしょう。 創氏の強制(2) 創氏届出による日本風苗字設定の圧力さて、創氏には洪思翊中将のように氏を届出しなかった結果戸主の姓が一家の氏にされたケース(これを法定創氏と言います)の他、新たな氏を設定し届け出たケース(これを設定創氏と言います)の2通りあります。 この設定創氏が、創氏改名で広くイメージされる「日本名の押しつけ」にあたり、朝鮮における朝鮮人全世帯の80%に及びました。 上述の制令第20号第1条第2項に 『自己の姓以外ノ姓ハ氏トシテ之ヲ用フルコトヲ得ズ…』とあり、姓として他で用いられている朝鮮の苗字を氏にすることはできませんでした。 加えて、『総督府は、法令の解釈によってさまざまな制限を設けた。例えば、夫婦の姓を合わせた二字の氏(朴李、金梁など)、姓に日本人風の苗字を付け加えた氏(中村金、井上朴など)は、受付けないとした。金英出という姓名を持つ者が、中村を氏、金英出を名とすることも認められなかった。 さらに総督府は二字からなる氏が「日本人風」であると奨励したため、実質的に新たな氏として認められるものは、「二文字からなる日本人風の苗字」へと狭められることになった』(水野直樹『創氏改名』岩波新書──以下、[文献C]と表記、P53)。 右の画像は、大邱地方法院が出した創氏督促のチラシです(Wikipedia収録)。この第2項では、次のように日本式の苗字を薦めています。
1940年(いわゆる「皇紀2600年」)2月11日から半年間の届出期間中における創氏届出の推移に、当局側の主な動きを抜粋して加えたのが右図です。 当初、朝鮮総督府は事務処理経費の予算計上において、創氏の届出率を12~18%と見積もっていました(文献C、P54) 。しかし、いざ蓋を開けると3月末時点で1.5%、4月末でも3.9% (文献C、P64) と極めて低調で、南総督や法務局長から徹底の指示が出ます。 ここから届出は急伸し、最終的には80.3%の届出率に達しました。 これが途中からどのような強制的圧力を伴ったものに変質したかは後述します。 改名はファーストネームを日本風にする事こちらは創氏ほどの圧力はかからなかったようです。 日本風に名前を変える場合は改名や改氏を許可する、という内容で、制度的には下記のような仕組みでした。 ★ 前出の制令第20号第2条 『氏名ハ之ヲ変更スルコトヲ得ズ但シ正当ノ事由アル場合ニ於テ朝鮮総督ノ定ムル所ニ依リ許可ヲ受ケタルトキハ此ノ限ニ在ラズ』 ★この「正当ノ事由」とは何か、総督府法務局長から以下の見解が出されていました。 『従来慣習に依り認められたるものの外、(イ)内地人式氏を設定したる者(中略)が其の氏との調和上内地人式名に変更せんとする場合 (ロ)同一府邑面内に於て同一氏名の者存し諸般の事務上著しく支障を生ずる場合 (ハ)営業上襲名の必要ある場合』 (1940.1.16付通牒) 『氏が内地人式なると将姓其の儘なるとを問わず、朝鮮人式名を内地人式名に変更するは…正当の事由あり』 (1940.9.25付通牒) 1941年10月時点での改名率は11.4%でした(第79回帝国議会説明資料)。 ただし、読み方を日本語の訓読みに変えさせられたケースも相応にあったでしょう。 総督府の関連団体だった緑旗日本文化研究所が当時出した手引書 「氏創設の真精神とその手続」(1940年)に『名はできるだけそのまゝにして、よみ方だけ改める 名は親から頂いたものであり、出来るだけそのまゝにして国語の訓でよむのが理想的であらう』(P134)とあります。 これは手続き不要(同、P147)なので、上記グラフにはカウントされていません。 また、訓読みにするつもりがなくても、公式には日本語の音読みにされてしまっていたのではないかと推測されます。 一例として、当時の修身教科書を左に挙げます。「尹龍吉」が本来の「ユン・ヨンギル」ではなく、「いんりうきち」と振り仮名をつけられています。これは1910年代の教科書からの傾向ですが、創氏改名の風が吹き荒れる中で、もはや本来の朝鮮語読みで押し通す事が公的に出来たかどうか、充分疑ってかかるべきではないかと思います。 逆をやってみるとこの横暴さが多少は感じられるかもしれません。「麻生太郎」は「マセンテラン(마생태랑)」と呼ぶ事になります。これはまだいい方で、「宿本繁」さんは「スッポンボン(숙본번)」になってしまいます! 日本風苗字は強制だったのか南総督時代の総督府の建前は「朝鮮人の熱烈な要望により日本式氏名を名乗れる制度を作り、朝鮮人は喜んで自発的に届け出た」というものでした。 皇国臣民なのだから当然、日本式苗字名前をつけられれば歓喜にうち震えるのだ、というリクツ、いや信仰です。志願兵、日本語常用運動、神社参拝、何事につけてもこの手のカルトな発想が顔を出し、「美談」を集めて自発性を喧伝するのが南総督時代の特徴です。人によってはこれを自発性の強制と呼んでいます。 日本風氏名の押しつけは日本帝国当局の内部(朝鮮総督府自身の警察を含む)にも大勢の反対者が居たので、推進した総督府法務局などはどうしても「自発的にこれだけ届出があった」と強弁する必要があった、という事情もあります。 いうなれば、様々な圧迫をかけて退職させておいて「あれは自分で辞めたのだ」と言い張る今日のリストラのようなものでしょう。 おまけに、当初は「皇国臣民たるもの自ら任意でジャンジャン届け出る」と本気で思っていたのか、届出期間の初期は締め付けもゆるく、右記事のように「強制じゃないよ」という文書が残っていたりもします。 この初期の文書ばかりを拾ってくれば、創氏改名は全くの任意でした、みたいなストーリーを都合よく作れなくもないでしょう。 さて実際はどうだったのでしょうか。 当局の関係者自身が強制的圧力を認めているまずは公式記録ということで、強制があった事を貴族院と枢密院で当局が認めている答弁です。 議会と枢密院での答弁ですから遠回しな言い方ですが、調べてみたら強制を否定できない=強制があったという事です。 著者の八木信雄氏は1926年から45年まで総督府に勤務し、警務局保安課長(特高警察のボス)や黄海道、全羅南道の知事を勤めた経歴の持主で、証人としては申し分ありません。
内部文書も残っている冒頭のグラフに示したように、創氏届出の圧力に拍車がかかったのは1940年の4月頃を境にしての事です。この時期、2つの出来事がありました。 【1】 総督府法務局長が4/12の裁判所検事局監督打合会で冒頭に「希望事項」を述べ、創氏制度の「周知徹底と指導」を要請します(全文が[文献B]末尾に収録されています)。 更に、4/15付で 『各地方法院長宛に「創氏徹底に関する件」と題する文書を送り、氏制度創設に関して周知徹底を図るための活動計画とそれに要する経費見積もりを二〇日までに回答するよう求めた』 (文献C、P73)。 この文書は韓国の国家記録院に保管されていますが、各地方法院からこれへの回答として様々な策が回答されます。例えば: 京城地方法院: 府尹、邑面長指示の下に町総代、区長、総動員聯盟愛国班等を動員し、氏設定届出の戸別的指導、斡旋を行う 「届出の僅少なる府邑面及び僻遠地」に裁判所職員を…出張させ、…可成多数の戸主を招集して…「個々に懇切なる斡旋」をさせる 大邱・釜山地方法院: 中等学校以上の学校で講演会を開き「生徒を通じて家庭に徹底」する 光州地方法院: 各郡各邑面別の創氏届出の旬報を作成し…状況を瞭然たらしめ、届出慫慂の資料に供す(=地域間競争を煽る) (以上、文献C、P74-76より抜粋)
【2】 南総督が4/23の道知事会議で次のような事を訓示しています。紀元の佳節を卜して施行せられたる氏制度は半島統治史上まさに一期を画するものでありまして、往古の史実に顧み、大和大愛の肇国精神を奉ずる国家本然の所産であると共に内鮮一体の大道を進みつつある半島同胞に更に門戸を開きたるものに外ならず。各位宜しく本制度の大精神を究め管下民衆の各層に徹底せしめられたし (諭告・訓示・演述総攬 P205) この2つのトリガーを受けて、各地方毎にさまざまな動きのあった事が文献Cに紹介されていますが、日本語を強要し朝鮮語使用を抑圧した同時期の国語常用運動と同様、具体的な方策は各下部機関に任せられたので、創氏届出プッシュの方策も強度も地域まちまちになったものと思われます。従って、中央の指示で全国一律あれをしたこれをこうした、という話にはめぐり遭いません。 が、地方個別に見れば、創氏届出の督励のため様々な動きをした記録が残っています。そのうち一番明確な事例を挙げましょう。
となれば最早、「強制ではない」とは言えません。とはいえ強制する法令はなく、強制ではないという建前なので、何らかの方法で圧力をかけて強要することになります。 報道にも足跡が残されている新聞紙上に、地区ごとに創氏届出を競わせるアオリ記事が出ていました。 届出数は10日毎に集計のため報告する事になっており、督励の指示が出れば直ちに地区間競争の燃料を投下できたのです。 届出が真に任意なら、届出率がいくら低くとも「汚名」である筈がありません。 ここに挙げている京城日報、毎日新報ともに総督府お抱えの新聞であり、総督府の方針を忠実に反映していた事は言うまでもありません。 また、右上記事の下方「先づ官吏から」や、右側端記事「全志願兵、挙つて創氏」にもある通り、先鞭をつけるとの理由で公務員や教師に創氏の圧力がかけられました。 圧力をかけ易い所からかけていったという事です。志願兵全員に創氏させた事例はその最たるものでしょう。 全員に分家させたのでない限り、兵士の家族も全員道連れになっている筈です。 逮捕者を出している4月の総督・法務部長大号令からほどなくして、右下画像の記事がポンと新聞に載ります(京城日報、1940.5.9付)。 何をすると裁判にかかると喧伝されたのか、どうも下線の部分の行為がケシカランとされたようなのですが、これで懲役1年求刑と言われては訳もわからず萎縮するより他ないし、身内の会話で捕まるとは実に恐れ入る監視社会です。 全文を以下に書き出しておきます。下線は引用者。■は判読不能。
もう一日待てば判決までわかったのに求刑で記事にするあたり、ハッタリと威嚇狙いが透けて見えます。 処罰対象の具体的内容が曖昧なところに「全朝鮮が感激してるのにおまい何だ」などとコメントがつくと、感激しないのが罪だとすら読めて、病的スピリチュアル・ワールド炸裂です。 他にも、以下のような逮捕・検挙の例が挙げられます(出典C、P118-123)。 《他の生徒の前で「創氏する必要なし」と放言したりしたとして、保安法違反で検挙》 《氏制度に対し反対の意向を表明し以て政治に関し不穏の言動を為し…とされ、懲役六ヶ月の判決》 《「千余年近く伝えて来たる麗しき吾等の姓、今般施行される創氏には極力反対しましょう」と書いた紙を11枚作り、各地の面長などに郵送したとして検挙》 具体的な強要方法被害者である韓国側には、創氏を強要した方法を次のように述べた歴史書が残されています。
まず(1)については、既出の枢密院筆記録にそのものズバリの当局証言があります。 (2)の学童を使って父兄に哀訴させる方法は前述の地方法院回答にも出てきますが、1942年に出版された小説『半島の子ら』(飯田彬著)に描かれています。お話の上では教師「峯先生」が金秀永少年を殴打したりしてはいませんが、言論統制下の当時、こんな話が堂々と出版されていた事は、この方法が公認の公然たる方法だった裏付けと言えます。著者の飯田彬はこの当時、全州師範学校の教員で(文献C、P162)、創作ながら「記録小説」と称して出版していました。 文献AのP117-121に、『半島の子ら』のこの部分が紹介されています。 (3)については、創氏届出をせず日本風の氏にしなかった朝鮮人道知事(孫永穆・全羅北道知事、兪萬兼・忠清北道知事)が新聞紙上で弁明させられたうえ免職され(文献C、P176-177)、中枢院参議の閑職に飛ばされています。創氏しなかった全員が罷免された訳ではありませんが、職務に関連して創氏の圧力をかけられた例は上に挙げた例の通りで、相応の強要力はあったと言わねばなりません。 朝鮮名の知事が復活したのは、南総督が居なくなった後(1943年に金大羽・全羅北道知事、1944年に李昌根・慶尚北道知事)でした。 以上見たように、日本風苗字の設定は地域による濃淡の差はあれ、組織的に強要された事は明らかです。 強制というと「法律を見せろ」みたいな茶々が入り得ますが、強要と呼べばその余地もないでしょう。 なんでこんな馬鹿な事をしたのか姓による部族の求心力を弱めて日本への忠誠を仕向けるため、朝鮮人としての民族意識を潰すため、兵隊にするのに朝鮮名では不具合だから、など様々な事が言われています。「朝鮮人が望んだから」は説得力がない当時の文書には、「朝鮮人の熱烈なる要望が云々」みたいな話がよく出てきますが、具体的にどのくらい要望があったのでしょうか。 右画像は当時、朝鮮総督府の関連団体が出した解説本のコピーです。 家族で同じ苗字を名乗りたいという要望が総督府の法務局、つまり戸籍の所管部門に月あたり2~3通あると言っており、これが「氏制度を創設するに至った最も強い理由は半島人の要望にあるのです」という最後尾の文に繋がっています。 月2~3通で「要望に押された」ような事を言うのは盛り過ぎというものです。 この本、この画像部分の直後に、在外(日本や中国など)朝鮮人から「日本人風の名前を名乗りたい」と要望を受けたという話が続きます。 しかし、私の知る限りその要望の実数は記録がない一方、冒頭に紹介した聞き取り調査の結果は正反対の結果を示しています。下に再掲しておきます。そんなに在日・在外朝鮮人に望まれていたなら、「うれしかった」「当然の事だと思った」との答が合計たった3.3%の筈がないではありませんか。 しかもこの3.3%という数字は、創氏改名しなかった人を含めればもっと小さくなります。 一言で言えば、同化政策上述の八木信雄証言にもあるように、総督府内には (1) 日本式の「氏」システムを導入したい、(2) 日本風の名前にさせたい、(3) 創氏改名反対、の3つの動きがありました。 当局内部が意思統一されていなかったのだから、当局の行動に一貫性のある動機を求めるのも困難です。 ことに、「日本式の『氏』システム」と「日本風の名前」が当局の中でもいつの間にか混同され、後者の押しつけに繋がったあたりは一貫性が見当たりません。 しかし、いずれにせよこの創氏改名は、学校での朝鮮語必修廃止と日本語強制、神社参拝の強要、志願兵制度の導入といった一連の皇民化政策の文脈の中にありました。 当初「日本風名前は強制ではない」と繰り返し言っていた南総督もこんな事を書いています。こういう感覚の持ち主なら、このような面妖な政策を出すのもまたむべなるかな、です。
参考図書本稿は、「創氏改名は自由意志だった」「朝鮮人が望んだ」といった類の言説に対抗する事を念頭に書いたので、全体像を洩れなく網羅したつもりはありません。きちんとお知りになりたい方には、以下の本をお薦め致します。特に文献Cが、この中では最新刊であり入手も容易なのでお薦めです。
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