百田本
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検証
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頁
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検証の対象
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No.
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指摘事項
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山々の破壊
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28 |
日韓併合当時、朝鮮の山々にはほとんど木が生えていませんでした。 |
028A |
世の中には後頭部がフサフサの人も居る。
朝鮮半島の東海岸沿いに伸びる太白山脈や中国国境沿いは大森林地帯。
「老齢林は鴨緑江豆満江の両流域または脊梁山脈に偏在し、交通運搬不便にしてその大半は未利用の状態にあり、その他の七百二十九万町歩は稚樹の散生地または未立木地」
前から見ただけで全体の生え具合を決めつけてはいけない。 |
28 |
日本は朝鮮の禿山を見て、
…【中略】…
「緑化運動」と称して勝手に植林事業を始めました。
赤茶けた地肌剥き出しの朝鮮半島の独特の景色が、緑豊かな日本風に変えられてしまいました。
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028B-1 |
トータルでは森林資源を減らしている。
生えてる木の総量(体積)の統計が1927年分から残っているが、この通り。
なんでこうなったかというと、こんな具合。
「立木地といえども植伐相伴はざる結果、その蓄積比年減退するの傾向あり、しかも一方建築用材および燃料の需要は年年激増し、かつ鉄道枕木・電柱・橋梁用材・鉱業に要する坑木その他製紙原料木材等の需要また逐年増加…」
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028B-2 |
「日本風」にはほど遠かった。
1町(≒1ha)あたりの蓄積を比べると右グラフのような塩梅。
平均値とはいえ、朝鮮の林野に生えてる木の密度は皇室御料林の1割ちょっと、日本本土国有林の2割に遠く及ばず民有林にも4倍ほどの差をつけられていた。
カツラであれば決して売れないレベルではないか。 |
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上グラフの計算根拠は以下の通り。
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林野面積 |
林野蓄積 |
密度 |
単位:町 |
単位:石 |
→m3換算 |
m3/町 |
日本 |
御料林 |
517,309 |
228,121,251 |
63,477,019 |
122.7 |
国有林 |
4,222,604 |
1,526,845,996 |
424,860,167 |
100.6 |
民有林 |
12,207,081 |
2,360,000,000 |
656,693,600 |
53.8 |
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単位:尺締 |
→m3換算 |
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朝鮮 |
1927年 |
16,472,402 |
824,734,317 |
275,395,283 |
16.7 |
1932年 |
16,458,101 |
717,387,428 |
239,550,010 |
14.6 |
1940年 |
16,272,645 |
677,824,636 |
226,339,202 |
13.9 |
データ出典:
日本:農林省山林局 『林勢要覧』(1928年) P1、P20 (民有には公有、社寺有含む)
朝鮮:朝鮮総督府統計年報 1935年版P100、1940年版P70
単位換算: 林野庁 『森林・林業統計要覧2016』 付表中の単位換算表(12尺〆) |
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29 |
(禿山と言いたいらしい写真2葉、片方は植林中) |
029A-1 |
ハゲばかり見るのは嫌な奴。
元ネタ本の、その写真の次のページにこういうのも載ってるな。落葉松の自然林。
更に下巻にいくと、こういう自然林の写真も載っているだろうが。
極端な場所の写真だけ提示して印象操作するのが歴史修正主義者の常套手段。写真では全体像はわからない。写真ではなく数字を見るのが大切。 |
029A-2 |
一応書いておくと、このP29の上の写真は禿山というより雪山。右下に踏み跡が写っている。「赤茶けた地肌剝き出し」の例示になっていない。 |
30 |
朝鮮半島の山々が禿山だった理由の一つに「火田民」の存在がありました。火田民は焼畑農業をする民です。
…【中略】…
すると火田民たちは、その土地を捨て、別の山へと移動します。捨てられた山にはもはや木も生えず、禿山として残るというわけです。 |
030A |
火田の面積は森林全体のせいぜい3%。
火田が一番広かったのは1939年の522,141町(≒ha)で、同年の全林野16,313,194町の3.2% (朝鮮総督府統計年報1942年版P70-71。なお同年年報のP43によれば、火田の面積が最大だったのは1938年の442,044.6町)に相当。影響力は十円ハゲ程度。
3年に一度焼畑しても全森林を一通り回るのに99年かかる勘定で、それだけ放置すれば当然、元の火田は森林に還っている。火田には林野全体を禿山にするほどのパワーはなかった。
十円ハゲの拡大写真で全体を判断してはならない。 |
30 |
総督府は火田民に農業用地を与え、定住させて、伝統的な焼畑農業を禁止しました。 |
030B |
火田に定住させただけ。与えた替地も林野。
「現地はそのまま耕作を認容するを原則とし、国土保安ならびに営林上特に廃耕せしむるの要あるもの等に限り、他に国有林野内農耕適地を替地として供与なすこととし…」 (朝鮮総督府施政年報1940年版、P307 太字は引用者) |
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百田本
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検証
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頁
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検証の対象
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No.
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指摘事項
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鉄道による自然破壊
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31 |
日本は美しい朝鮮半島の至る所に醜い鉄道網を敷きまくりました。併合前はわずか100キロしかなかった鉄道を総延長距離6000キロにまで増やしたのです。 |
031A-1 |
謝りたいなら鉄道利権と土地の剥奪を謝罪すべし。
日本帝国は朝鮮の鉄道事業を独占することで、国有鉄道だけでこんなに利益を挙げた。
今日と異なり、戦前の鉄道は単なる開発インフラに留まらず、鉄道それ自体が巨大な利権だったのだ。
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【注意】 朝鮮総督府統計年報の数値は発行年によって異なる事がある。 |
しかも、稼いでいた5幹線(京釜、京義、湖南、京元、咸鏡)はもともと大韓帝国が共同投資、工事開始、あるいは敷設を自国民に認可していたもの。
それを日本帝国が王宮占拠や借款妨害、戦争に乗じた工事強行などの策を弄して、全て自らの手中に収めた。
特に、日露戦争の兵站路線として京義線を工事した時は、農民から鉄道用地を強奪し、抵抗した地元民を殺している。
全て日本帝国所有となった朝鮮国鉄の収益は、全て日本帝国当局に落ちた。
謝罪すべきはこれらの事である。
詳細:別記事 「日本が朝鮮に鉄道を敷いてやった」という言説について」 |
031A-2 |
清々しいほど間違っている。
1909年度末時点ですでに640.5哩(マイル)=約1025km開通していた。
(第四次朝鮮総督府統計年報 1909年、P585)
日露戦争の軍事輸送のために、南端の釜山から中朝国境の新義州まで突貫工事でつなげたのが韓国併合の5年前。
朝鮮半島を縦断してたった100kmで済む訳ないのに、なぜ気づかないのか。歴史も何にも全く知らないからだろう。 |
32 |
また驚くのは、国鉄が朝鮮に走らせた鉄道は「広軌」であったということです。 |
032A |
韓国併合前から朝鮮半島は標準軌。
×広軌
○標準軌(レール間隔1435mm)
李朝政府による1896年の鉄道規則6ヵ条が既に標準軌と定めていた。
1899年にソウル~仁川の京仁線が、1905年に京釜・京義線が標準軌で開通。
驚くべきは日本の狭軌(1067mm)のほうで、明治の大失敗。 |
33 |
朝鮮において、電化による鉄道(電車)を走らせたのは、1938年です |
033A |
何見て書いてんの?
韓国で初めて電車が走ったのは韓国併合の11年前、1899年開通のソウル市電。
作ったのは韓米合弁の漢城電気会社。
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疑り深い人のために、日本帝国当局の公式記録も載せておく。
明治31年京城場内の交通状況は一時期を画する進歩を見た。それは電気鉄道の敷設である。
これより先き明治29年に米国人エッチ・コールプラン及びエッチ・アール・ポストヰックの両人は仁川に来り…【中略】…皇帝の意大に動き、陸軍総将李学均に命じコールプランと交渉せしむる所あり、40万元と35万元を両回にわたり出資し、両者共同で之を経営することゝした。…【中略】…
電気鉄道・電灯および電話の設置出願に関しては李根命・金斗昇の両名が形式上出願人となり、その請願書には漢城五署内に電気路車と、電灯と電話筒とを併せ設くることを明記し、光武2年(明治31年)1月18日出願と同時に認可の指令を得た。これを漢城電気会社と云ひ、光武8年(明治37年)韓美電気会社と改称した。
…【中略】…31年10月17日より軌道敷設に着手し、同年12月25日に竣工した。軌道は西大門外より鐘路・東大門を経て清涼里洪陵に達する5哩単線軌道であった。又その発電所を東大門内に置いた。
(『京城府史』 第1巻 京城府発行、1934年 P661-663。 この資料に従えば、市電の竣工は明治31年=1898年という事になるが、竣工とだけ書いており、別資料で開通は1899年とされているので、本稿では遅い方を取り1899年開通とする) |
その一方で、日本帝国当局が1940年に出した『朝鮮鉄道四十年略史』には、未だに朝鮮国鉄の電化は実現していない、1939年度予算でようやく京元線の山越え区間に電化の予算がついたと書いてある(P381-382)が、これ山越えだから電車ではなく電気機関車のための電化計画。
もういい加減にしろや(笑)。1938年に電車が走った朝鮮国鉄の区間ってどこからどこまでだか言うてみ?
デタラメ吹くのは5秒でできても、検証はその何十倍~何千倍もリソースがかかるし、内容がこのレベルでは潰すほうに知的収穫も喜びもない。歴史学者が歴史デマをスルーするのは内容があまりにもスカだからと見つけたり。 |
33 |
北海道で初めて電車が走ったのは、その30年後の1968年です。いかに日本が最新技術を朝鮮半島で前もって実験していたかがわかります。 |
033B |
日本で初めて電車が走ったの明治何年?
中央線の飯田町~中野(東京)に電車が走った1904年は、1938年より前?後?
あと一応尋ねておくと、北海道で初めて電車が走ったの大正何年?
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百田本
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検証
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頁
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検証の対象
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No.
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指摘事項
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河川の破壊
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34 |
日本は多くの川に護岸工事を施して、川の姿を変えてしまいました。そのお陰で、洪水などによる被害は激減しました |
034A |
激減? は?
統治下に入れたのだからインフラ整備は責務であって恩恵ではないが、ともかく水害金額の推移をみると上のグラフの通り。何が激減したのか。
(ちなみに総督府の治水事業開始は1925年。[朝鮮総督府施政年報1940年版 P481])
1枚目グラフの数値出典へのリンク: 朝鮮土木事業誌 朝鮮河川調査年報 |
34 |
併合前の朝鮮半島の農業は古き良き時代ののどかなものでした。灌漑はほとんどされず、水は雨水頼りでした。日本はそれでは効率が悪いと考え、水利組合を組織して、防水、灌漑… |
034B |
何も無かったように言うのは間違い。
灌漑設備そのものは李氏朝鮮時代からあり、植民地期の水利事業はこの既存設備を利用したものも多かった。水利組合を組織して一から作ったものばかりではない。
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「堤堰および洑はその痕跡を存するもの堤堰六千余、洑二万有余に及ぶ」
(朝鮮総督府施政年報1925年版 P194 「堤堰」は溜池、「洑(ふく)」は堰に相当)
「昭和15年度末現在調査において、灌漑設備を有し水利概ね安全と見做さるるものは水利組合に依るもの約23万町歩、その他約65万5千町歩、合計約88万5千町歩…」
(朝鮮総督府施政年報1940年版 P260 太字は引用者)
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34 |
さらに水力発電を兼ね備えた貯水池を作るため、日本国内にもない巨大なダムをいたるところに建設したのです。 |
034C |
北朝鮮のごく一部にしか建設されていない。
水力発電所の殆ど、従って発電用ダムの殆どは現・北朝鮮の地域に建設されていた。米作の主力であった南部6道(慶尚南北道、全羅南北道、忠清南北道)に水力発電所はわずかしか建設されていない。
北朝鮮に建設された巨大ダムも、主にチッソ財閥が工業用電力を得るため水力発電用に造ったもので、鴨緑江水系に集中しており、流域はごく限られていた。 |
34 |
鴨緑江に作った水豊ダムは、当時世界最大級のもので |
034D |
強権をふるっただけ。
中朝国境をまたがって巨大ダムを建設できたのは、両岸で1万5千戸もの住民を強権で立ち退きさせたから。
それも、先に工事を進めておいて市価の3分の1で土地を買い叩くようなやり方によるもの。
到底自慢できるような作品ではない。
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発電所工事は急速に進んでいくのに対し、補償額が工事開始から一年半以上も決定されなかったことは水没地住民に大きな苦痛をもたらした。現地の朝鮮人の様子を平安北道庁の文書は次のように述べている。
「…【中略】…着々工事の進捗を見 土地買収等 漸次具体化されつつあるを見聞し 殊に土地買収の評価および移転料の如き 一般の地価より相当開きありて 到底予期し居たる補償額の望み薄し等と洩すもの等を初め…
【中略】
…当局の施設改善等に対し熱意を欠き 移住を予期し居るものも 朔州および義州方面の 土地買収状況を聞知して予期し居りし地価の約3分の1程度に過ぎざるに加へ 未だ買収の事なく 徒らに不安と焦燥に日を送らざるべからざあるは忍び能はざる処なりとて会社の存意を疑ひ その不誠意を呪咀し居るもの等 尠しとせざる」。 |
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広瀬貞三「水豊発電所建設による水没地問題」
『朝鮮学報』 朝鮮学会、第139号(1991年4月)所収 P16
太字、半角スペース、カタカナと一部漢字のひらがな化は引用者 |
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こうした水没地住民に対し、平安北道庁は座談会や講演会を開催して説得工作を続けながらも、「群集心裡(ママ)に駆られ不任(ママ)行動化する虞なしとせざるを以て 彼等の集会は之を厳禁する等 是が取締に遺漏なきを期し 関係民をして当局を絶対信頼せしめるを以て その挙惜を誤らざるよう所轄署を督励し
特段の査察取締の万全を期する」とあるように、取締を強化したことで水没地住民は反対の意志を訴えるどころか、集会の自由すら持てなかったのである。長津江発電所の土地問題に対して警察が地主の集会を厳禁した如く、これも日本側の常套手段であった。 |
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同上 P18 |
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36 |
1979年、韓国は同じ漢江に同規模の聖水大橋を架けました。
【中略】
1994年、橋の中央部分が崩壊し、32人が死亡するという事故が起きました。
【次頁に写真】 |
036A |
フクイチの写真を隣に並べてみよう。
東洋最悪の建築物事故を起こしたのは日本。
国単位で何かを言い得るなら、日本はもういかなる建築物の事故も嗤えない立場にいる事を肝に銘じるべし。
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百田本
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検証
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頁
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検証の対象
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No.
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指摘事項
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海岸の破壊
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40 |
また総督府はそれまで電気が通っていなかった朝鮮の村々に電気を行き渡らせました。
【中略】
やがてほとんどの家に電灯が灯るようになりました。 |
040A |
1939年でも家庭電化率は13%弱。
ほとんどの家に電灯は灯っていなかった。
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1939年3月末の電灯契約戸数は543,073戸。
(朝鮮総督府逓信局編 『電気事業要覧』 1939年、Page IV)
1938年末の朝鮮の総戸数は4,271,308戸。うち日本人戸数は158.843戸。
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華々しい(?)水力発電所群は工業用電力、特に重化学工業の為に開発されたのであって、家庭用(=電灯契約)のためではなかった。
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