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「日本が朝鮮に鉄道を敷いてやった」という言説について |
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「朝鮮自前の鉄道建設を日本が阻んでやった」と言い換えると有り難みの内実も判りやすそうですが、ともかく事実関係を見てみましょう。まとめ@ 併合がなければ韓国が独自に作っていた。日本はその機会を力ずくで横取りしただけA 鉄道敷設は利権。日本は感謝を要求する筋合いになく、むしろ「敷かせてもらった」立場 B しかも、稼ぎの9割を担った5大幹線の初期投資は元本回収済みと考えるのが妥当 B 国債で建設費を賄ったので「日本人の血税」は殆ど無関係。その国債をハイパーインフレで紙くず同然にしたのは日本自身 |
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最初に最も基本的な事実を確認しておきます。 鉄道が朝鮮自身の所有なら、投下資本を回収した後の利益は朝鮮自身に落ちます。 しかし植民者日本帝国の所有だったので、利益は日本にしか落ちない。これが搾取です。 1940年末時点で、投資額累計10.1億円に対して(単式簿記のようですが)収益累計も4.1億円に達し、1931年までの投資累計額をカバーしていたのです。 (おおまかな全体像は右グラフの通り、後ほど大きめのサイズでもう一度呈示します) 韓国が独立を保ったまま借款で建設していれば、利子を考慮するにしても、少なくとも収益で投資回収した分は韓国の所有に帰っていたのです。 そして、投下資本を回収できない赤字事業なら、それは投資した者の責任による失敗です。赤字しか産まない施設を遺すのは「尻拭いの押しつけ」であって、何ら有難味のある話ではありません。 後で見るように、日本帝国の鉄道投資は回収を考えていない要素がありました。朝鮮自前の投資なら、たとえ外国からの借款で建設したとしても、そのような投資にはおのずからブレーキがかかったでしょうし、失敗しても自己責任だったのです。押しかけ押しつけ投資の赤字は、押しかけた側の責任ですから、押しかけた側が黙ってかぶるしかありません。 どんな数字を並べても、上の事実は変わりません。よく「日本は××円も朝鮮に貢いだ」云々と必死に言い募る投稿をネットで見かけますが、この投資の根本を理解できていない経済音痴か、さもなくば投資失敗の責任を投資先になすりつけているだけです。 それでは、事実関係を見ていきましょう。 日本は自力建設を阻んだだけ。「日本がやらねば出来なかった」は思い上がり『朝鮮鉄道四十年略史』という本を朝鮮総督府が1940年に出しています。これが黎明期の話を赤裸々に漏らしていて面白いので、帝国趣味な自尊臭にむせながら第一章をかいつまんで引用してみます。 歴史の本でも同じ事が指摘されていますが、当事者本人に告白してもらうのが一番近道です。
いかがでしょうか。 作りたい人はたくさん居た訳で、別に日本でなくてもよかったのは明らかです。 諸外国も鉄道を作らせろと押し寄せていたし、民族資本を使って敷設権を守ろうとする動きもあったのに、外国はおろか民族資本までことごとく妨害したと自慢気に述べています。 日清戦争で財政が痛み自分はお金を出せない状況でも、他人が金を出す話には強烈に文句をつけている体たらくで、「韓国政府にはお金がなかった」のは日本の妨害のせいなのが露見しています。 そして、日本帝国が鉄道敷設を自分の権益、それも国防がらみの権益として捉えていた事を赤裸々に白状しています。 借款競争がいけないとまでは言いませんが、以下は事実として認めねばなりません。 @ 日本以外にも鉄道を敷きたい国はいろいろ居た。借款供与の意志ある国・外国資本も居た。 A 朝鮮=韓国自身の手で鉄道を敷設する動きが当初からあったし、資金の貸し手も居た。 B 朝鮮自力の鉄道建設ができず日本が独占敷設したのは、日本が自らの利益のため@Aを妨害したから。 ここで少し寄り道して、朝鮮総督府の鉄道事業なるものが一体どういうものだったのか、ついでに見てみましょう。 客が少なく経営不振が続いたまずは左のグラフから。 これは、路線1kmあたりいくら稼いだかを示しています。 黄色の棒は1920年代末頃の数値で、同時期の他の地域と比べていますが、韓国併合後20年近く費やしてなお北海道の8割強しか稼いでいません。一番の儲け頭である京釜線でやっと全日本の6割強。 日中戦争による軍需輸送などで業績の上積みをした1940年にようやく、その10年ちょい前の全日本に対して9割を超えます。 1943年の急激な伸びは、戦争による陸運非常体制の一環として、中国大陸の物資を陸上転嫁輸送した事に加え、インフレによる費用増と乗客抑制のため運賃を値上げした事によります。船便の振替輸送なので、朝鮮の経済発展を反映している訳ではありません。 輸送密度(右のグラフ)で見ても、日本の1920年の水準に追いつくのはやはり1940年頃でした。基幹の幹線である釜山〜京城〜新義州947.2kmのうち複線区間は1936年の時点でわずか12.0km。1940年にようやく340.1kmに増強されますが、それまでは複線化を急ぐほどの需要がなかった事のあらわれと言えるでしょう。 なんでこんなに儲からないのか。1925〜32年に総督府鉄道局長を務めた大村卓一はこう言っています。 「由来朝鮮の鉄道はその出発点が、当初政治上または軍事上に起因するもの多く、したがって天然の資源を求め経済地点を辿りて漸次発達したる底の鉄道と少しくその趣を異にし」 (出典:上グラフに同じ、P81) つまり、お客のたくさん居る所をたどって通すのが常道なのに、朝鮮の場合は軍事上の必要を基準に経路を決めてしまったので経営がしんどくなった、という訳です。 また、軍用に突貫工事で作った京義線は全線開通前の1905年度から1911年まで延々と、線形を変える改良工事を続けています。ムダな重複投資が生じていたと見るべきでしょう。 こんなデータが残ってるんですね。朝鮮国鉄の利用者数を民族別に数えています。 これを人口で割ると、一人あたりの乗車回数が出ます。 朝鮮民族の人々は一人あたり年1回も乗っていなかった事になります。 これを「朝鮮の鉄道は日本人のためのものだった」と見るか、「いやそれでも乗客数で見れば朝鮮人のほうが多い(約8割)」と言うかは別として、なじみはなかったと言っていいでしょう。 先に作られた5大幹線でシェア9割次に、中身をもう少し細かく見てみます。 右グラフは、1936年の輸送量を線別の割合で見たものです。 旅客も貨物も、1914年までに開通した4路線(京釜線、京義線、京元線、湖南線)で全輸送量の約4分の3を占めている事が見て取れます。後から開通した咸鏡線を加えれば旅客88.6%、貨物93.1%になります。 この上位5路線は、下の地図の場所を走っていました。 咸鏡線を除き、1918年以降1936年まで新たな支線の開通はありません。咸鏡線が途中ちぎれている部分は、1928年に開通します。 ※馬山線と鎮海線は、慶全線に含めています。
通常、京釜線と言えば京釜本線だけを指しますが、ここでは京城〜釜山の京釜本線の他、京城〜仁川の京仁線を含みます。同様に、京義線には京義本線の他、何本かの支線を含みます。元データの朝鮮総督府統計年報がそのように束ねてデータを出しているためです。 早期に建設された路線ほど、投資の回収も早く終わる道理です。 従って、早期に完成した5大幹線に利用者の9割が集中していた事は、幹線の投資回収が相応に終わっていた筈であることを示唆しています。 線区ごとの投資・収入を分解するだけの資料が手許にないので、全体の傾向だけでも見てみましょう。朝鮮国鉄への投資累計(併合前含む総額)と、純収入累計のグラフです。 金利を考慮しない額面だけの比較ですが、1939年度までの収益累計で1928年度迄の投資累計以上を稼ぎ出しています。1943年度までの収益累計なら、1937年度までの投資累計額をカバーします。 これ以降の投資は戦時輸送に係る京釜、京義両本線の複線化投資などが主になっていたと思われます。陸上転嫁輸送だけでも1943年度実績は17億トンキロ、1944年度見込みは52億トンキロ、1945年度見込みは69億トンキロで、各々輸送総貨物の18%、37%、40%を占めていました(第86回帝国議会説明資料より引用、算出)。これらは戦争がなければ需要も発生せず、それを見込んだ鉄道投資も不要でした。 @ 京釜線・京義線・京元線・湖南線・咸鏡線の5大幹線が輸送の9割を占めていた A 5大幹線は1928年に会寧まで全通しており、その初期投資の元本は回収済みだったと考えるのが妥当 以上を確認して、次へ行きましょう。 5大幹線はこうして作られた5つの幹線すべて、日本が多少なりとも力ずくで敷設権をもぎ取ったものです。京仁線と京釜本線以外は、もともと韓国の民族資本に敷設権が免許されていたものを横取りしています。いかにして独占敷設したのか、いまいちど詳細に確認しておきましょう。 京釜線、すなわち京仁線(ソウル〜仁川)と京釜本線(ソウル〜釜山)は、日清戦争で日本軍が朝鮮の首都漢城を占領する中、日朝暫定合同約款で日本が敷設するものとして委細協議するよう認めさせたものです。 戦後、王妃を殺害した日本から逃れるべく朝鮮の高宗王がロシア公使館で執政した露館播遷のさなかに、京仁線の敷設免許は一転、米国人モールスに発給されます。 しかし、日本の渋沢栄一がモールスの事業不調に乗じてこれを買収し、1899年、仁川からソウルの鷺梁津まで開通させます。 京釜本線は1898年、渋沢栄一らの設立した京釜鉄道株式会社が路線免許を取得します。金と技術は日本が出し、土地は韓国政府が無償で提供するという条件でした。1901年に着工し、1905年1月1日に営業を開始します(渋沢社史データベースより)。 この2本の路線も武力を背景に敷設権を取っていますが、植民地化なんかしなくても鉄道を敷けたじゃないか、という主張の強力な証拠でもあります。なお2路線とも民間会社が敷設しましたが、1906年には京釜鉄道買収法によって日本政府に買収されてしまいます。 京義本線(ソウル〜新義州)は1896年1月フランスが敷設権を獲得しますが、期限までに着工できず1899年に免許が失効、権利が返還されます。韓国政府は同年7月8日、民族資本である大韓鉄道会社に敷設権を与え、1902年5月8日にソウル〜開城の起工式が行われます(敷設権特許の日付は渋沢社史データベースによる)。 どうにか自分の手中に収めたい日本政府は、大韓鉄道会社に資金を貸し込む形で間接支配の足がかりを得ます。小村寿太郎外相は1903年11月9日、在欧州の在外公館に次のように通知しています。
そしてその3ヶ月後、1904年2月に日露戦争を開戦すると、日本政府は韓国の首都漢城を占領して、早くも23日に日韓議定書を韓国政府に結ばせます。 この第4条が、日本政府にとって肝の一つでした。
こうなるともう、何の遠慮もありません。『本線ノ敷設ハ軍事上ノ必要ニ基クガ故ニ韓国政府ノ承諾ヲ求ムルに非ル』(小村外相から林公使宛訓令)として、3月12日にはソウルから開城まで、4月9日には更に平壌まで、更に6月25日には終点・新義州までの路盤工事に着手してしまいます(日付は渋沢社史データベースより)。 片端から土地を取り上げ人を徴用して突貫工事をし、相当な軋轢を呼びました。電信線切断や工事妨害が頻発し、9月には始興民擾、谷山民擾と呼ばれる大きな暴動を起こし、日本側に死者も出しています。それでもごりごり突貫工事を進め、一部河川の渡し舟区間を除き1905年4月28日夜にレールを全てつなぎ終わります。(アジア歴史史料センター Ref.C06041156600) 日露戦争のために急いで建設された、とよく言われますが、戦争終了後もせっせと作り続け、全ての橋をかけて全通させたのは1906年の4月です。こうして、日本帝国は敷設権を武力でふんだくり、京義線を自分の鉄道として敷いてしまったのです。 京元線と湖南線は、上に挙げた路線とともに、20世紀に入る前から韓国政府の鉄道建設計画に入っていました。 京元線の敷設権は1899年6月17日、諸外国の要求を退けて、「京城より元山、慶興に至る鉄道」として朴h淙の国内鉄道用達会社に特許しています。慶興は北朝鮮のもっとも北東端の豆満江近く、ロシア国境から20km位の所ですから、これは咸鏡線も併せて免許されたという事になります。 ところが日露戦争を始めた日本は1904年9月、 『帝国政府は今次軍事上の必要に基き京城より准陽を経て元山に至る間に軍用鉄道を敷設し、若くは道路の修築を為すことに決定し之を貴政府に通牒し、併せて今後必要に応じ北青及び鏡城を経て豆満江岸に線路を延長すべきを以て、之と競争若しくは並行して鉄道を敷設せざらんことを予め保留すべく、将又京元間鉄道敷設にあたり必要なる土地収用其の他に関しては京義間軍用鉄道と同一事例に依り貴政府に於て相当便宜を供与せんことを期待す』 と韓国政府に申し入れ、軍事を口実にしながら将来の咸鏡線までお手つきしたばかりか競合路線を作るな便宜を計れと言いたい放題、いけしゃあしゃあと「条約及び契約等の形式は軍事作戦施設の波濤の下に埋没せらるるに至った」(朝鮮鉄道四十年略史、P27)事態に持ち込み、京義線同様、日本帝国が国内資本の敷設権をぶん取ってしまいました。 本格的着工は1910年ですが、1904年10月に一部工事を始め、翌年にわたり元山から16kmほど路盤と橋を完成したと言います(朝鮮鉄道四十年略史、P61)。 湖南線は1898年、韓国政府は京城〜木浦間の鉄道を自前で敷設すべき方針を決定します。外国に渡さない為の予防線だったようです。 時を下って1904年6月8日、「稷山より江景群山に至る間および公州・木浦間鉄道」として、徐午淳という人物に敷設権が与えられています。 公州は大田のすぐ西にある町、稷山は現在の天安市にあります。 その後の踏査で、徐午淳は路線の起点を稷山から鳥致院(天安と大田の中間)に移し、1906年10月に測量を完了しますが、土木工事に少し手をつけたところで建設の動きが止まったまま1909年、日本に内政権を握られた韓国政府により路線免許が取り消されます。 こうして京元線、湖南線双方とも日本帝国の手により、韓国併合直後の1910年10月に起工し、1914年に全線開通します。 長くなりましたが、要するに @ 5大幹線はいずれも、韓国の保護国化以前に完成したか、韓国自前の建設計画を日本が横取りした「大きなお世話」 A 日本は自ら利権を求めて敷設した。頼まれた訳でもなく、ましてや慈善事業ではない この2点を確認したところで、次へまいります。 後期に開通させたのは赤字ローカル線?右のグラフは、1936年の輸送密度を線区別に出したものです。 これに線区ごとのランニングコストや初期投資の割掛けを加味すると、線区ごとの収支がだいたい判りそうです。 ざっくり見て、5大幹線以外は全朝鮮国鉄で見た輸送密度の半分にも届いていません。 輸送密度が全体平均の半分に満たない路線は、路線建設に投じた投資を回収できるだけの稼ぎにはほど遠かったと考えていいでしょう。 どうしても鉄道建設で恩を着せたい向きは、これら後発ローカル線の採算性を証明して右グラフからの合理的推定をひっくり返し、投資を経済的に正当化しなくてはなりません。私は興味ありませんが… で、そんな話はどうでもよくなるような事件が最後に起きます。 そしてほとんどチャラになった「朝鮮の開発に必要なる継続事業費は朝鮮の一般歳入を以て之を支弁する余裕なかりしを以て、此等の財源は総て公債もしくは借入金に依ることとし…(中略)…朝鮮に於ける国債は中央政府に於て一般事業公債と共に統一整理することとなれり」 (1941年度朝鮮総督府施政年報、P107-108) ということで、鉄道への投資は日本国民の税金ではなく、もっぱら中央政府の国債で賄われていました。 朝鮮に日本帝国が敷いた鉄道の真の資金提供者は、当時の日本国債を買った人です。 鉄道以外に使われた分もあわせ、朝鮮総督府分の国債発行残高は1940年度末で約9.6億円でした(同上施政年報、P109)。 その国債がどうなったかというと、アジア太平洋戦争で日本帝国が1100億円を超える莫大な借金をしたあげく、日銀引受で(=超簡単に言えば、お札を刷りまくって)尻拭いしたので、ハイパーインフレによって価値が暴落したのです。 1949年の卸売物価は1934-36年の約220倍にも達しましたが、債券は基本的に、どんなひどいインフレが来ても額面だけ返せばいいのです。従って、ハイパーインフレになれば債券は紙くず同然となり、返す側は全額償還しつつ実質的に踏み倒す事ができます。 敗戦直後の日本政府は、この大技と戦時補償債務の踏み倒しによって、戦争までの円建て借金を片付けてしまいました。債券を買った側は踏んだり蹴ったりですが、全額戻ってきた以上文句を言えません。 「日本が朝鮮に投資した残高は今の価値に直せば…」なんて言っている人は、債券の性格を理解できていないか、総督府の財務を無視しています。百年以上前の大黒1円札は、貨幣としては現代でも1円の値打ちしかないのです。 その一方で、海外に残した債務は日本円建とも債券とも限らないので、日本のハイパーインフレで全部チャラになった訳ではありません。 精神論で国力を無視した侵略戦争をすると、かくも祟るということです。 『データで見る植民地朝鮮史』トップへ 植民地期の年表を見る ツイート |