百田本
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検証
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頁
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検証の対象
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No.
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指摘事項
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子供の自由を奪った
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その最も象徴的なものが、【注:日本が】朝鮮人の子供たちに学校に通うことを強制したことです。 |
013A |
ネトウヨ星の朝鮮のことだろうか。
地球の朝鮮では、日本の植民地当局は最後まで義務教育を施行せず、朝鮮人向け初等教育である普通学校の就学率は併合20年後の1930年でも2割に及ばなかった。
また、特に1922年までの間は学制を短縮し、高等教育機関への学歴の連絡を断って、特別な留学取り計らいを受けられる者以外への高等教育の途をふさいでしまった。 |
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ごくざっと史料を拾うと以下の通り。
(1) 1906年: 韓国内政に干与して学制変更
「先ず教育制度を整備せむことを期し、日本人参画の下に教育に関する諸法令(普通学校令、高等学校令、師範学校令、外国語学校令等を制定し同年之を発布するに至れり」
「従来の小学校を改めて普通学校と称し、…旧小学校令に学齢を定むる等義務教育の精神を加味せし如きは全然之を廃せり」
「されば学部は高等教育機関即ち現在の中等教育機関をして更に上級学校に進むの予備階梯たる弊習に陥らしめない様に、事実上終結の教育機関たらしむる様に方針をとったのであった。此の方針は日韓併合後明治44年8月制定せられたる朝鮮教育令の根義を築き、朝鮮に於いてのみ特殊の制度を定むることとなり大正9年まで続いたのである」
(2) 1911年: 第一次朝鮮教育令
「当時の朝鮮教育令によれば、朝鮮人の教育は…制度としては全然別個のもので、内地の教育制度とは連絡すら之を認むるの便宜を図らなかったのである。若し連絡を認めむか自然連絡に重きを置き特立制度の精神を没却するに至るべき…」
(弓削幸太郎・元朝鮮総督府学務課長 『朝鮮の教育』 1923年、P200)
(3) 1938年: 第三次朝鮮教育令
「小学校の設置、…授業料、…児童の就学に関しては小学校令を適用せず」
「初等学校を義務教育となさざるが如きもまた従前と同様なりとす」
なお、朝鮮総督府は末期になって 「1946年から義務教育施行」 の方針を出しているが、朝鮮人学童の全員就学間近まで迫った訳では全然ない。
1943年就学率49.0%に1938-43年の就学率年平均伸び率1.09874を3回掛けても65.0%にしかならない(古川宣子「植民地期朝鮮における初等教育」 『日本史研究』 370号、P40の就学率数値から計算)。
しかも、法制化しないまま敗戦で消滅した。 |
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13 |
当時【注:1905年】、朝鮮半島には小学校はわずかに40校しかありませんでしたが、日本は統監府を通して、大韓帝国政府に対し「小学校を作れ!」と…
【中略】
大韓帝国がこの命令に従わなかったのは当然です。5年後、日本が大韓帝国を併合した時でさえも、小学校はわずか60校増えただけでした。 |
013B-1 |
[1] 日本政府の「命令」(?)は逆で、「やみくもに作るな」だった。
マッチポンプを描く時は、マッチとポンプの両方を描くのが筋。
1905-09年の韓国で採られた「初等学校は数を急がず模範校をちびちび作っていきませう」 という方針は、日本政府の干与で決め、日本政府の干与で実行したもの。
当時の韓国政府で、日本でいう文部次官のイスに座っていたのは、俵という日本の官僚。
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1904年、韓国の学部(文部省相当)に「日本人学政参与官を置き 学政顧問の府を設けて 文学博士幣原担をして教育行政の枢機に参与せしめたり」
1906年になると「統監府書記官 俵孫一 命を承け学部に入りて 鋭意教育の刷新に従事し 法令の改廃、学校の新設等著々その歩を進め」た(出典は同上)。1907年にはこの俵が韓国の学部次官になっている。
命令どころか実行部隊のナンバー2に日本の官僚が入り込んでいた。
その俵が学部次官として1909年に垂れた講話で、義務教育をこきおろした後にこんな事を言っている。
要は、大日本帝国に従いそうもないキリスト教ミッションスクールを中心とした4桁もの私立学校を義務教育校として包摂するくらいなら、どんなに校数が限られようと日本の願望通りの学校を作って、これが手本だとして浸透を図る方がはるかにマシという趣旨。
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【口語訳】
このため、この模範学校を一地方に2校以上設置するのは好まない。
たとえ平壌のように8学級あっても公立普通学校は1校にとどめ、大邱においても現在4学級だが1校のみである。
それで、これらの地方では更に第二の公立もしくは私立補助の学校を設けたいとの希望があるが、学部は容易にこれを実行しない。
なぜなら学部の意図は、これらの学校をもって、道内の重要中心地になるべく広く新教育の模範を示させて、教育界の気運を善い方に導き、私立学校を啓発させようとする所にあるからだ。 |
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【原文】
…故に此模範学校は一地方に二校以上を設置するを好まず 例之平壌の如き八学級なるも一公立普通学校に止め 大邱に於ても現在四学級なるも一学校のみなり 而して此等の地方に於ては更に第二の公立若しくは私立補助の学校を設けたき希望あるも
学部は容易に之を実行せず 何となれば 学部の旨意は 此等の学校を以て道内枢要の各地に成るべく広く新教育の模範を示し 教育界の気運を善導し 私立学校を啓発せしめんとするにあり |
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『韓国教育ノ既往及現在』 大韓帝国政府学部(文部省相当)、1909年 P37
『日本植民地教育政策史料集成』 朝鮮篇 第63巻所収 空白挿入、カナ→かな) |
以上の通り、韓国併合直前期に初等学校が増えなかったのは日本政府が介入したうえでの意図的な結果。韓国政府の怠慢や抵抗のためとするのは間違い。
※ちなみに「朝鮮にはお金がないから義務教育は無理」と主張している史料もあるが、後述の通り併合後は住民負担を主な財源として初等学校を設立運営しているので、「金が無い」が 理由にならない口実 だった事は明らか。
日本の義務教育費用を基準に試算してみせている史料もあるが、日本では1900年から義務教育を無償化すると同時に国庫補助を開始しており、授業料を徴収する場合とは政府負担が大きく異なる点に注意。 |
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013B-2 |
[2] あたかも朝鮮に教育インフラが存在しなかったかのような重大な誤解を誘導する失当な表現。
この章で非識字率を云々している以上、初等教育機関として公立小学校だけを挙げ、それ以外の教育インフラを無視するのは、歴史歪曲と言われても仕方ないのではないか。
(1) 日本本土で小学校の前身となった寺子屋に相当する「書堂」が1万校以上あった。
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1872年に学制を制定した明治の日本が、翌年いきなり万単位の小学校を揃えられたのは、寺子屋を小学校に移行させたからであり、当初の小学校の大半は寺子屋と大差なかった。
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学制の実施によって全国に多数の小学校が設立されたが、その多くは寺子屋・私塾・郷学校などの庶民教育機関を母体として成立した。…【中略】…各村々に設ける小学校は寺子屋や郷学校を母体とするほかはなく、したがって一般の小学校はこれらを母体とし、これらと大差のない簡易な初等教育機関として発足したのである。 |
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八年当時の状況をみると、小学校総数の約四〇%は寺院を借用したものであり、約三〇%は民家の借用によっている。
すなわち約七〇%が寺院、民家を借用したものであることは、当時の小学校がその校舎からみで江戸時代の寺子屋をもととして開設したものであることをよく示している。
またその小学校の大部分は一教員か二教員であって、多くは生徒数が四〇人から五〇人程度の規模であったということは、これらがほとんど寺子屋と変わらない構成のものであったことを示している。 |
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文部省編 『学制百年史』 第1編第1章第2節 .4. 小学校の普及と就学状況 |
朝鮮の書堂は1912年3月時点でも16,540校、書堂規則制定で届出が義務化された翌年の1919年3月末には23,369校が当局に把握されており、生徒数は1912年が141,604人、1919年が260,975人であった(朝鮮総督府統計年報1918年版。校数はP975、生徒数はP1004)。
冒頭紹介の古川宣子推算(1993)による1919年※普通学校の就学率3.1%、生徒数80,143人から単純計算すると、同年の書堂生徒数は就学率10.1%に相当する(修業年数が揃わないのでメノコの概算)。
1919年=1918年度末
教授内容が統一されていた訳ではないが、右上画像のような千字文が定番教科書の一つだったとされている。
漢字千字と言えば、現在の日本の小学校で教える漢字も1,000字前後(文部科学省『学年別漢字配当表』)であって、文字教育については書堂に遜色があるとは言えない。
これだけの貢献がある機関を無視して、朝鮮の教育インフラを語るのは誤り。
書堂をくさす人は、その前にせめて漢字千字を手本なしで手書きしてみせるべき。 |
(2) 更に加えて、概ね初等学校水準以上の私立学校2,131校※が存在した。
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生徒数で言えば上グラフの紫色格子の部分が私立各種学校、黄色が私立普通学校。
規模のごく小さい学校が多かったものの、初等教育普及の元種になれる存在であった。
この2,131校のうち「普通学校」が43校、高等程度2校、実業学校6校、各種学校が2,080校だった(朝鮮総督府統計年鑑1910版、同前)が、この私立各種学校のほとんどが小学~中等レベルの水準だった、と朝鮮総督府も認めていた。
(国会図書館館内またはその提携図書館館内でデジタル閲覧可能)
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これだけの量と質を備えた教育機関群がありながら全く触れず、数の少ない公立校だけをプレーヤ-として語るのは、実態と著しく異なる全体像に読み手を誘導してしまうもので、間違いといって良いレベル。
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013B-3 |
[3] それ小学校じゃない。
細かいが大切な点なので一言しておくと、
厳密には、朝鮮人学童向け教育を語るのに小学校の数を数えても全く意味がない。
「小学校」は1922年まで日本人学童専用(右画像)、その後も1938年までは日本語常用者(=ほとんど日本人)(第二次朝鮮教育令第2~3条)のための学校だったから。
朝鮮人学童向けの初等学校は「普通学校」。中学校相当の学校は「高等普通学校」「女子高等普通学校」と言った。
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14 |
併合した時、まっさきに行なったのが、朝鮮全土に小学校を建てたことです。 |
014A |
就学率2割超えに四半世紀を空費。
冒頭にグラフを示した通り、普通学校就学率2ケタ達成まで13年、20%超えに25年も費している。
真っ先に実行したと言えるのは、むしろ日本当局に従順でない私立各種学校の弾圧・整理取り潰し。
学校数だけを単純に見れば、最初の10年ほどはむしろ学校を減らしていた。
(史料はこの項の末尾参照)
※くり返すが、「学校数を単純に見れば」。小規模校が多かった点には留意が必要。
「全土に初等学校」のやる気が数字に見え始めるのは三一運動(1919年)で痛い目に逢った後で、まっさきどころか9年も後回し。
日本当局は意に染まない私立学校の排除を教育普及よりも優先させた、と言われても仕方がないだろう。
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14 |
日本は、朝鮮人労働者を大量に生産しようと考えたのではないでしょうか。 |
014B |
基礎資料くらい確認しよう。
総督府の教育の目的は法令に書かれている通り。
「教育ハ…忠良ナル国民ヲ育成スルコトヲ本義トス(第一次朝鮮教育令第2条)」
「普通学校ハ…国語(注:日本語)ヲ教ヘ徳育ヲ施シ国民タルの性格ヲ養成シ…(第一次朝鮮教育令第8条)
要するに、露骨に言えば「日本に従順で日本語を話す朝鮮人」にしたてあげる事が初等教育の動機。
法令に書いてあったのだから間違いない。
※右絵でわかる通り、国語(日本語)以外の授業も日本語の教科書で行われていた。 |
14 |
日韓併合当時、朝鮮人の文盲率は90パーセントを超えていたといわれています。「文盲」というのは文字を読めない人のことです。 |
014C-1 |
[1] 風聞は過ちの第一歩。
ここでは「いわれています」と言いながらP17では断定にすり替えているのだが、
1930年の朝鮮国勢調査以前に、全朝鮮の識字率をまともに調査した記録など、学界でも発見されていない。
(i.e. 板垣竜太 『植民地期朝鮮における識字調査』 1999年、P290は 『この調査(引用者注:1930年の朝鮮国勢調査)は、はじめての大々的な識字調査であった』 として、それまでの巷間言われていた識字率の大きなブレを紹介している)
よって、断定的に識字率を特定するのは全て間違い。
できる事は3つだけ。
1.明らかな間違い(例:1910年の識字率は95%)を間違いと言う事
2.識字率の定義のブレを留保しつつ、何らかの根拠を付して「だいたいこの範囲だろう」と推定する事
3.新たな史料を学界に先駆けて発掘し、その史料の範囲で新たな知見を述べる事
(図書館で閲覧できる本は著者編者が発掘済みの物に限られるので、たぶんほぼ不可能)
推定を名乗っていても根拠のないものは一律に切り捨てるべき。
非識字率9割(以上)と推定する合理的な根拠を、百田は何も提示していない。
以上を踏まえたうえで、以下に根拠を付して推定を述べると、 |
014C-2 |
[2] 併合当時の識字率はざっくり2割位と推定するのが自然。1割未満だとデータと合わない
1910年の識字率は、1930年国勢調査の基準でざっくり2割以上と推定するのが妥当。
10%以下なら、1910年すでに成人していた世代、つまり1930年に40歳以上の階層のハングル識字率が24.8%だった事の説明がつかない。
1930年朝鮮国勢調査:読ミ書キノ程度及年齢別人口
併合後の日本当局の識字教育に成果があったなら、この階層の日本仮名識字率がほぼゼロだった事の説明がつかない。
日本語教育を私立学校に強要していた日本当局が、万一、成人世代にハングルを講じる機会を設けていたなら、同時に日本仮名も教えていない筈がないから。 |
14 |
戦前の「東亜日報」には、一九二〇年代まで、朝鮮人の文盲率は八〇~九九パーセントであったという推計記事が載っています。 |
014D-1 |
[1] その記事、主張の根拠にならない。
80~99%が推計値なら90%以下も充分有り得るから、非識字率が「90%を超えていた」とは言えないんだけどどうなってんの。 |
014D-2 |
[2] 東亜日報はどうやって調べたの?
80~99%では幅があり過ぎて、推計の意味をなしておらず無意味。むしろ東亜日報が実態を把握していなかった事を強く示唆している。
根拠のない推計というより憶測記事を、さも何かの根拠になるかのように示す書き方は失当。
そうでないと言うなら、いかなる根拠・調査で99%の可能性もあると推計したのか、東亜日報が掲げた推計の根拠とその記事の日付をを示すべき。 |
15 |
日本政府は朝鮮半島全土に一面一校(一つの村に一つの小学校)を目標にして、凄まじい国家予算を投入して小学校を建設したのです。 |
015A-1 |
[1] 他人の財布で恩着せ三昧、日本帝国とブラック上司。
初期は廃校利用や私立学校転換が主力。李朝時代の教育機関である郷校の学校農場収入や設備等、朝鮮自身の資産を多々引き継いでいた。
1920年代以降は地元住民の負担が主力。
それなのに、まるで日本政府独りの出費、手柄であるかのように言うのは、他人のフンドシ感が半端なく厚かましい。
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(A) 1911年、1912年に"新設"した公立普通学校は、大半を私立学校の転換によって設立していた。
『朝鮮総督府月報』は、この時期の"新設"事情を次のように述べている。
(口語訳。原典の画像はここをクリック)
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その設置の方法は前年と大差なく、多くは既設学校の組織変更に属する。
すなわち、私立普通学校の変更52、一般私立学校の変更31であり、新規創始したものはわずかに19に過ぎない。
しかも、その新規創始に属するものの中にも、一面では私立学校を廃止しつつ更に公立普通学校を設置し、表面上組織変更の手続きによらなかったものもあり、全く新規に創設されたものは極めて少数である。 |
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『朝鮮総督府月報』 1912年10月号 P120-121 太字は引用者設定 |
(B) 「大正4年度公立普通学校予算表」(総督府学務局)を見ると、1915年の予算総額は115万円、うち校舎建築費は11.4万円であり、最大の支出項目は俸給の64万円だった。
この時期の校舎工事にはたいしてお金をかけていない事がわかる。
また、歳入として授業料の他、戸税附加、家屋税附加、地税附加の項目が見られ、学校経費を税金にむき身で上乗せしていた事がわかる。これが、「学校設立区域内の朝鮮人の負担となし強制賦課を為し得る」(朝鮮総督府 『朝鮮教育要覧』 1919年1月、P37) とした「賦課金」だろう。
本格的に増設が始まった1919年以降は経費の増加分を賦課金に頼ったので、国費補助の割合は更に落ちた。
(C) 右画像に示すように、1920年以降は学校経費の膨張分を住民負担に転嫁し、負担は更に増えていった。
1921年に、朝鮮総督府学務局長の柴田善三郎が、次のような講演記録を残している。
「経費の点を申し上ぐると、400校増加の為には約1500万円の金を必要とするのであります。…【中略】…
朝鮮の従来の教育に対する負担の関係からいうと、実に著しい増加にして、むしろ突飛といふそしりを受けるのではないかと思ふ程の数字になるのであります。
教育費の負担は大正七年【註:1918年】において朝鮮人一戸あたり税金によって負担する額は6銭3厘であった。
それが八年になって増加して16銭8厘に達している、すなわち約3倍の負担の増加であるが、さらに今回400校増設するについては、その負担はにわかに増加して一戸平均が1円39銭となり、八年に対し約8倍の増加になるのであります」
(朝鮮総督府学務局 『新施政と教育』 1921年、P5-6)
後年の『朝鮮教育要覧』(1926年)は、もっと明確に「住民負担が主、国庫補助は従」と記している。
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【注:1920年制定の】 学校費令公布前に於ては 公立普通学校の設立は 公立普通学校費用令に依る公立普通学校なる 一種の団体の経営に属し、先帝陛下の下賜せられたる臨時恩賜金の利子の一部、国庫及地方費補助、基本財産及郷校財産収入、授業料、賦課金等を以て経営したるが、学校費令公布後 其の主要なる財源は之を賦課金に求め、国庫及地方費の補助を得て之を経営す。 |
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朝鮮総督府 『朝鮮教育要覧』(1926年) P35-36 太字は引用者 |
このように 時期別に分けて見てみると、日本政府が主力出資者になって、かつ学校の維持運営費用を超える程度の建設費用を負担した形跡は見当たらない。
この認識が違うというなら、せめて5年分くらいの国庫負担の確証と、その負担が全学校費用に占める割合を具体的に金額で示すべきである。 |
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015A-2 |
[2] 凄まじい盛り過ぎ。
日本政府が朝鮮総督府に支出していた補充金は、初等学校生徒急増中の1935年度ですら1300万円弱で、総督府歳入の3.9%にしかならず、日本本国政府の歳出約22億円(日本帝国統計年鑑1935年版)と比べれば1%にも満たない。
しかも、これは日本から朝鮮に赴任した官僚の僻地手当にほぼ費消する金額。
1935年度の朝鮮総督府決算は下図の通りで、学校建設費が占める割合はどうひねっても凄まじい割合になりそうもない。
日本政府が朝鮮人の教育に「凄まじい」お金を出したとの物言いは、すさまじい別の何か。
朝鮮総督府統計年報1936年版(総督府決算)
※ ちなみに公立学校費用は地方行政体の出費。 |
015A-3 |
[3] 一面一校、始めたのは19年後。
総督府は、三一運動が起きた1919年度にやっと公立普通学校の3面1校設置を目標に設定。1面1校事業を始めたのは、光州学生事件が起きた1929年。達成は1936年度。「併合後まっさきに行った」は、四半世紀近く時空をトリップした主張。
朝鮮総督府施政年報1937年版 P183-184
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15 |
ヨーロッパ諸国は、日本のような考え方はしませんでした。【中略】オランダはインドネシアを二百年も支配しましたが、その間、現地の子供たちが通う小学校などは一つも作っていません。
【中略】
イギリスもフランスもスペインも同様です。 |
015B |
完全にデタラメ。
いずれも植民地に初等教育はもちろん、高等教育の学校まで作っている。現地人向け学校を作らずにどうやって宗主国の言語を広めるのかな? インドネシア初代大統領スカルノの卒業したスラバヤやバンドンの学校はどこの国にあったっけ?
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他の植民地でも初等学校を作っていた事を示す史料を掲げておく。
1905年韓国政府に送り込まれ学政参与を務めた幣原担は、自らの関係した韓国併合直前期の学制改定について、後年次のように記している。
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当時朝鮮の時勢に於ては、確かにこれを可なりと信じたのであるけれど、かゝる国柄の教育は、果してこれを以て満足すべきか否かに就(つい)て、久しく思ひ悩んで居たが、其の後ち世界の殖民地を視察するに及んで、初めて意を安んずることを得た。
何となれば、孰(いず)れの地方に於ても、大体これと異ることがなかつたからである。
まづ埃及(エジプト)に於ては、全然朝鮮と同様で、小学校四箇年、中学校四箇年である。
比利賓(フィリピン)に於ても、小学校四箇年、高等学校四箇年で、唯その間には、中間学校三箇年を介在せしめて居る。
布哇(ハワイ)に於ても、尋常小学四箇年、高等学校四箇年で、其の間にグランマー学校四箇年を介在せしめている。
交趾(コーチシナ=ベトナム)も、小学校の修業年限を通ずれば四箇年である。
蘭領東印度(インドネシア)は、六箇年の一等小学があるけれど、最も多いのは四箇年の二等小学である。
海峡殖民地(西マレーシア~シンガポール)の英語小学も、尋常科は四箇年であり、印度の小学も、尋常科は四箇年又は三箇年である。 |
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幣原担 『朝鮮教育論』 六盟館、1919年 P128-129
傍点省略。改行挿入。太字は引用者。漢字の読みは引用者附加。 |
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植民地にしてしまった以上、教育インフラの整備の責任も当然負うのであって、特別な恩恵であるかのように言うのは間違い。やって当たり前、むしろ整備が遅れれば愚民政策として糾弾されても致し方ない。 |
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百田本
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検証
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頁
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検証の対象
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No.
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指摘事項
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劣等文字ハングルを普及させた
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017A-1 |
[1] 侮辱蔑視はヘイトへの一里塚。
何の留保もなく「劣等文字」呼ばわりするのは民族文化への、従って民族への侮辱である。ヘイトピーチは許されない。
法務省Web ヘイトスピーチ典型例の例示: 東京新聞 毎日新聞 日本経済新聞 |
017A-2 |
[2] ハングルは高効率。
少ない字母(24字)と画数で漢字に匹敵する情報を記述できる点において、ハングルは効率の高い文字である。劣っているとする評価者は語学に無知なだけではなかろうか。
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17 |
先ほど、当時の朝鮮人で文字が読める人は人口の一〇パーセント以下ということを書きましたが、 |
017B |
「いわれています」と書いただけ(P14)で何ひとつ根拠を示せていないのに、いつの間にか既知の事実のように言うのは大変残念な何か。 |
17 |
それらはほとんどが両班であり、 |
017C-1 |
識字率は高齢層ほど極端な男高女低だったが(014Cのグラフ参照)、男性の3割が両班だったの? でもって、女性の両班は5%近辺しか居なかったの? |
017C-2 |
P18の記述と矛盾する。 |
18 |
【注:朝鮮の子供たちに文字を教えるのに】 おそらく日本政府も頭を悩ましたと思いますが、便利な言葉を発見しました。それがハングルです。 |
018A |
それ、周回遅れ。
日本帝国が朝鮮人自身をさしおいてハングルを再発見・発掘して広めたと言うなら、それはフトンの中に留めるべきレベルの完全な妄想。
日本帝国が 「朝鮮の子供たちに字を教える」 段になってやっとハングルに気がついたのであれば、それは何周もの周回遅れ。
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そもそもハングルが完全に廃れていた事実はなく、世宗時代以後19世紀後半に至るまで多くのハングル文献が作られている。
(ハングル文献目録:中期朝鮮語研究室参照)
19世紀後半になるとキリスト教の宣教師が朝鮮に入り、ハングルを使って布教活動していた。
宣教師たちは朝鮮語の研究を進め、1880年にはフランスの朝鮮宣教師会 (Les missionnaires de Corée) によってハングルを用いた朝鮮語-フランス語辞書 『韓仏字典』 (装丁カラー画像) (内容画像) まで出版されている。
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…本「韓仏字典」ならびに「韓仏文典」が完成さるるに至るまでには、彼ら宣教師にとってその宣教上不可欠の条件たる朝鮮語習熟の絶対的必要に駆られ、彼らはその繁忙なる布教のかたわら、実に涙ぐましい努力を朝鮮語の学的・系統的研究に対して続けていたのである。
李太王二年の宣教師虐殺の大迫害は、実にこれら血の努力の結晶を水泡に帰せしめたものであった。
しかして韓仏字典・韓仏文典の二書は、あるいは本迫害においてかろうじてその虐殺をのがれ得たリデル司教が、遼東半島の一孤村秀嶽県盆溝にあって再度入鮮の機会をうかがう間に、同行の鮮人崔智爀(リデル司教と共に獄舎につながれ、幽囚の身をもって餓死した)の助力を得て完成したとも言われ、また崔智爀は文筆に長じ、韓仏字典・韓仏文典の諺文(引用者注:ハングルの事)活字のモデルは崔智爀の筆蹟によるものであると伝えられている。
これを要するに、宣教師らがその布教上の絶対的要請に基づき、朝鮮語辞典ならびに文法書の編纂企画より、李太王二年の迫害による原稿煙滅の後をうけて、とにかくこの二書がリデル司教不屈の努力によって完成出版を見るに至ったことは、まことに当時における決死の一大事業といわねばならないだろう。 |
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朝鮮総督府図書館 『文献報国』 1941年12月号 P3より
読点を補足、一部を漢字→かな、現代かな遣い・現行漢字に修正 |
朝鮮人正式留学生第一号の兪吉濬が慶応義塾に来たのはこの翌年。福沢諭吉がハングルを広めたという妄想が出回っているが、福沢がハングルに「いいね!」をつけた時点で既に出遅れていたのが事実。
1886年にはハングルのみの「独立新聞」が創刊されている。
そして1895年には、ハングルを公用文字にすると李氏朝鮮政府が勅令で定めている。
右画像は 『韓国法典』P27-28より。
「開国504年」 は李氏王朝が成立した1392年起算の数え方。
日本帝国が大韓帝国に露骨な内政干渉を始めたのは日露戦争開戦の1904年。
韓国併合は1910年。
総督府が朝日辞典「朝鮮語辞典」を作ったのは更に10年後の1920年で、これらの動きよりもずっと後の話。 |
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18 |
この文字は、両班からは、「劣等文字」「下賤の者が使う文字」として馬鹿にされていました。 |
018B |
【ブーメラン】
つまり、百田の言う「両班」から見て「下賤の者」にあたる人々がハングルを使っていた、主に両班以外の人々がハングルを使っていたと認めており、P17の「識字者のほとんどが両班」との主張を自ら潰している。 |
18 |
日本政府は【中略】ハングル習得を小学校の必修科目にしたのです。 |
018C |
逆。
必修でなかったものを日本帝国当局が必修科目に「した」のではない。
当たり前過ぎる話だが、元々日本が干渉する以前から朝鮮語は必修科目で、ハングルを教える事になっていた。(右絵参照)
李氏朝鮮は1895年に小学校令を定めている。
1905年以前の韓国の小学校で課していた国語(=朝鮮語)の授業内容は「諺文(=ハングル)と諺文の短文」「近易なる漢字を交えた文」である。
(李淑子 『教科書に描かれた朝鮮と日本』 1985年、P70の尋常科カリキュラムより)
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それが併合前後に日本の干渉で大幅に授業時間を削られ、1938年には必修科目から外されてしまった。 |
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19 |
ハングルが劣等文字とされてきたのは歴史的事実です。世宗がこの文字を広めようとしたとき、集賢殿(国家及び王室のための研究機関であり諮問機関)の副堤学だった崔萬理は次のように書いて反対しました。
【中略】
この言葉を見ても、当時の朝鮮が自分たちは中国の一部で、独立国ではないという認識を持っていたことがわかります。 |
019A-1 |
王様の世宗大王がハングルを広めようとしていたのをさしおいて学者約一名に朝鮮を代表させるのはマンガ。 |
019A-2 |
学者の数のみ数えても、ハングルを世に出した「訓民正音」の著者だけで8名居るので、9名以上の反対派学者を挙げないと反対が多数派とすら言えない。
いつどこにでも居る、新しい物に対応できない人が当時も居たというだけの話。 |
019A-3 |
識字率の話と関係ないが一言。中国王朝との冊封関係をもって独立国でないというなら、同時代に明朝に朝貢する形で勘合貿易を行っていた日本はどうなるのかな。ひらがなはかつて日本でどういう扱いだったかな。 |
19 |
「訓民正音」とは、「愚かな民に発音を教える記号」という意味です。 |
019B |
漢和辞典ひいてね。
「訓」「民」「正」「音」のどこに「愚かな」という意味が入っているのか、漢和辞典の該当箇所を示すべし。なお韓国政府機関の解釈は「国民に教える正しい音」。 |
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百田本
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検証
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頁
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検証の対象
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No.
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指摘事項
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豪華校舎で目をくらませた
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21 |
長年、九十パーセント以上であった文盲率は四十パーセントに下がりました。 |
021A-1 |
この数字は無理過ぎる。
[1] 1944年人口調査でも就学歴のある人はたったの2割。
1944年、日本帝国敗戦の前年ですら学歴分布は下グラフのような按配。
戦時の諸般の事情を考慮して誤差を多少大きく見込むべきだが、それでも学校の力で識字率を60%にできるような学歴比率にはほど遠かった。
この人口調査は戦時動員可能人数を調べるため行われたもので、学歴が調査項目に入っていた。
結果は、15歳以上で小卒相当(普通学校、国民学校、初等相当の私立学校)以上の学歴を持つ者が167万人。書堂含めた通学歴のある者を含めても280万人で、15歳以上の学歴回答者1420万人の各々12%、20%に過ぎない。
(朝鮮総督府 『昭和十九年五月一日人口調査結果報告 其ノ二』1945年、P142-143統計表よ-り算出 )
(板垣竜太 『植民地期朝鮮における識字調査』 1999年、P292-293参照) |
021A-2 |
[2] 終戦解放時のハングル識字率はざっくり2割が自然。
上記(1)を踏まえると、以下のデータが日本帝国敗戦時のハングル識字率の実態にざっくり近い、と考えるのが合理的。
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1945年 解放当時
(朝鮮南半部) |
12歳以上の人口 |
10,253,138 |
ハングル解得者 |
2,272,236 |
文盲者(ママ) |
7,980,922 |
非識字率% |
78.0 |
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出典:韓国文教部 『文教月報』 第49号(1959年11月)
引用元:森田芳夫 『韓国における国語・国史教育』 P197 |
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このざっくり2割前後という数値は、日本帝国敗戦=朝鮮解放直後、ハングルを正しく読み書きできる教師が不足しており、促成教育が必要だった状況とも符合する。
日本の学校教育でハングル識字率が6割に届くような状況であったというなら、どれだけ日本人教師が居なくなってもこのような事態に陥った事の説明がつかない。
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「解放」当時、韓国各級学校全職員数の44.8%は日本人によって占められていた。したがって、日本人教員が引揚げた後の空白を埋めることがまず必要であり、加えて、「解放」に伴う教育熱の高まりが、教員の絶対数の不足を一層深刻なものにしていた。
しかし、取敢えず教員の頭数を揃えることはできても、日本語常用政策の結果当時の韓国教育界には、韓国語を自由に読み書きできる者は多くなかった。のみならず、これを正確且つ体系的に教えることのできる者は更に少なかった。
そこで当局(当初「学務局」、1946年3月29日以降「文教部」)は、「朝鮮語学会」(現ハングル学会)の助力を得て教員の国語再教育に乗り出した。
それは、学校再開(国民学校1945年9月24日、中等学校10月1日、専門学校以上10月5日)に対応する最優先の措置であった。
当時、軍政庁学務局にあって事実上韓国側の最高責任者であった呉天錫は、その状況を次のように回顧している。 |
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何よりも火急な問題は、教師たちにわれわれの文字を教えることであった。こうして、有難いことに朝鮮語学会(ハングル学会の前身)が作った『ハングル初歩』を譲り受け、数十万部印刷して各級学校に配布すると同時に、これを教本として教師教育を実施した。いわば、教師も学生も、こぞってハングルを学ばねばならなかったのである。
【後略】 (3) |
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教員のハングル講習会は、当局主催の他、各学校が自主的に計画し朝鮮語学会から講師を招聘して行われたものもあった。
このような学校側の意欲的な姿勢は、国語教師であると否とを問わず、国語能力が教師たる者の必要最低限の条件として要求されていた時代状況の反映に他ならない。
次は、当時の教師全般に対する要求の例である。 |
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国語教育があらゆる教育の基礎となることは再言する必要もありません。いずれの学者も国語を正しく指導していくべきことは、この転換期に際して一層必要なことです。
したがって、社会全体が先生のこれに関する力量を注目しており、父兄側において、先生の国語知識の浅薄さを嘲笑う者がたくさんいます。
これは、過渡期において不可避の事態ですが、かといってこのままいけば、これは大きな問題です。先生が生徒に劣れば、その威信がなくなるのみならず、これは、われわれの教育の根本を揺るがしかねない大きな問題です。
【後略】 (4) |
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朝鮮語学会は、1945年9月11日、米軍政の実質スタートと時を同じくしてハングル講習会を開始した。その際、国語教員の緊急需要に応ずるため講習会に「高等部」と「師範部」を特設、1946年1月18日まで四次にわたって延べ約2,000名の国語教員を養成した(5)。講習期間はそれぞれ2~3週間と短く、このため後に、「(ハングル)綴字法を完全に解得したという、それだけで中学校国語教師になることのできた時があった(6)」という批判も招くことになるが、学校再開前後の教員需給状況からして致し方のないところであったろう。 |
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(3) 呉天錫「軍政文教の証言」
『新教育(セギョユク)』第213号 1972年7月 116頁
(4) 李浩盛「諸問題と教育者の態度」
『ハングル』第11巻1号(統刊四月号)1946年4月 30頁
(5) 李応鎬 『米軍政期のハングル運動史』 ソウル・ソンチョン社 1974年 207-208頁
(6) 洪雄善 「国語教育の進路」
『教育』 1948年8月 9頁 |
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稲葉継雄 「米軍政下韓国における言語政策の展開」
『韓国の戦後教育改革』 龍渓書舎、2004年 P65-67、P103より
抜粋して引用 (改行挿入、漢数字→算用数字に変換) 太字は引用者設定 |
もしこれを疑うなら、上記の引用文献と米軍の軍政記録を検証すればよい。米軍記録を含め、文献リストは以下の本に掲載されている。
阿部洋編著 『韓国の戦後教育改革』 龍渓書舎、2004年 巻末
朝鮮語が初等教育の正課から外された1938年より以前において、初等学校就学率(013Aに既出)が2割を超えたのは1934-37年の4年間しかなかった。
この事実も、1945年朝鮮解放時においてハングル識字率が22%という数字と符合する。 |
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21 |
朝鮮半島に建てられた小学校の校舎の多くがコンクリートの造りやレンガの造りの立派なものなのです。戦前の朝鮮の小学校の写真がいくつも残っていますが、その豪華さに唖然とします。 |
021B |
当時の朝鮮総督府の説明と真逆。
実際には郷校の廃校舎など既存の建物をできる限り活用している。
また、特に初期は015A-1で見た通り私立学校を転換して設備を流用したものが大半を占めた。
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以下、朝鮮教育要覧 (朝鮮総督府 1919年1月) P38の現代口語訳(原文はリンク先参照)。
『公立普通学校の校舎は、創立当初あらたに建築したものも少なくはないが、併合以来、郷校(注:かつての科挙予備校。科挙廃止で廃れていた)や客舎を修繕して充てる場合が多く、一に経費を省き、二に公有建物を公共目的に使わせることを狙った。このように、校舎その他の設備はあえて華美を誇らず、もっぱら堅牢と実用とを趣旨として、民度の実際に適応させようとした。』 |
よって、豪華新築校舎は例外的存在と考えるのが自然。たかだか数枚の写真で全体を見誤らないよう、以下にレンガ造でもコンクリ造でもない普通学校の例を示す。
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21 |
もちろんこれらは日本のお金で建てられたものです。 |
021C |
日本が全額出資したような言い方は間違い。
前段で見た通り、郷校の廃校舎を利用したり、既存私立学校の転換に大きく依存するなど、「日本のお金」由来でない資産が多々投入されている。
また、015A-1で見た通り、1919年時点でも国庫・地方費補助合わせて経費の4割5分。地元の朝鮮人住民に賦課をかけており、学校が増えるにつれ住民負担が主力になった。 |
21 |
日本が作ったのは小学校だけではありません。二十四の専門学校、【…後略】 |
021D-1 |
[1] 中等学校進学率は2%そこそこ。
1936年ですら公立は高等普通学校が16校、女子高等普通学校は10校しかなかった(朝鮮総督府統計年鑑1936年版、P305、P308)。
13歳人口がわかる1930年の進学率を概算すると次の通り。しかも全員卒業した訳ではない。統治していたのだから、むしろ責任を問われる低さではないか。
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021D-2 |
[2] 日本本土と比べスカスカ。
人口が日本本土約3分の1だった事を考慮してもなお学校数、生徒数共に圧倒的に見劣りする規模。上の表の7年後でも下表のような具合。統治していた以上学校整備の責任も当然負っていたのであって、これは怠慢の謗りを免れないレベルの格差ではないか。
※下の表は生徒数かつ日本人を含み、一つ前の表は朝鮮人入学者数である点に注意
1937年の高校・専門系中等教育状況 日本帝国統計年鑑1940年版 P150-151 |
学校の種類 |
学校数 |
生徒数 |
朝鮮 |
日本本土 |
朝鮮 |
日本本土 |
高等学校 |
無 |
32 |
0 |
17,017 |
(実業)専門学校 |
15 |
61 |
4,252 |
27,613 |
高等師範学校(女子高等師範含む) |
無 |
4 |
0 |
2,691 |
師範学校 |
6 |
101 |
3,658 |
30,783 |
実業・職業学校 |
72 |
1,355 |
20,323 |
477,596 |
しかも、大学以外の最高教育機関である上記の専門学校15校の内8校は私立(出典は上表に同じ)。官立5校は全て韓国併合前の創立(朝鮮総督府施政年報1937年版 P187-189)。
※この後、戦時中に職業系学校を濫造したので、終戦時の数字は多少ふくれているが、1943年設置の医学校などは卒業生を出していないし、設立前にさかのぼって学校不足を解決した訳でないのは言うまでもない。 |
021D-3 |
[3] 職業系学校、生徒の半分は日本人。
更にその上、数少ない専門教育の場(朝・日共学)も、官公立学校にあっては実業学校(農業以外)で概ね定員の半分、師範で4割、法科・医科などの専門学校では3分の2が日本人生徒に占められていた。
この年の朝鮮の人口比が朝鮮人2,137万人 vs. 日本人61万人、35対1の開きにも拘らずだ(朝鮮総督府統計年報1936年版 P21)。
朝鮮人の教育に貢献したのは見かけの半分。
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22 |
併合時代に教育を受けた朝鮮人たちの多くが、「日本人教師は公正で差別をしなかった」と賛美しますが |
022A-1 |
[1] 出典が示されていない。
そんな話どこにあるのかな。 世論調査? それとも例によって「いち、に、たくさん」の美談類? |
022A-2 |
[2] 朝鮮人向け学校そのものが差別されていた。
(1) 最後まで義務教育が施行されなかった。013A参照
(2) 特に1922年までは、高等教育学校への連絡が絶たれていた。013A弓削引用参照
(3) 予算配分が日本人学校に偏っており、教員1人あたり60人以上の生徒を抱えていた(右グラフ参照)。
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22 |
驚くことに、日本は朝鮮に帝国大学まで作っています。
【中略】
つまり日本は小学校の義務教育だけでは飽き足らず、朝鮮人を大学まで教育しようとしたのです。大阪と名古屋を後回しにしてまでです。 |
022B-1 |
[1] ミニ大学1つで優先しましたと言われても。
1936年の大学生人数(院生・予科含む)は、日本本土が72,193人に対して、朝鮮は京城帝大の977人だけだった(日本帝国統計年鑑1940年版、P166)。朝鮮の優先順位が圧倒的に低かったのは自明である。 |
022B-2 |
[2] しかも学生の7割は日本人。
京城帝国大学、人口2千万に対して本科入学者が200人/年にも満たなかったうえに、その7割ほどは日本人だった。
(朝鮮総督府統計年報1936年版参照)
朝鮮人向け教育という意味なら、京城帝大は見かけの3分の1の大きさしかなかった。
また日本本土と違い、大学はこれ一つで、私立大学も認可されていない。
私立各種学校の梨花学堂には1910年から大学部があったが大学認可に至らず、1925年文科・音楽科を持つ専門学校に改称している。(『梨花女子専門・梨花保育学校一覧』 1937年) |
022B-3 |
[3] 阪大のほうが先にできている。
大阪帝大が京城帝大より後にできたような書き方も間違い。前身の一つ大阪工業学校は1896年、大阪府立医大は1915年創設で、医大の源流は江戸時代の適塾にまで遡る(大阪大学Web)。帝大になったのが京城帝大創立より後なだけ。 |
022B-4 |
[4] めずらしくもなんともない。
植民地に大学を作るのは珍しくもなんともなく、驚くには値しない。015B参照。 |
23 |
【京城壽松洞普通学校の写真。レンガ造らしい】 |
023A |
そこ、首都のド真ん中。
壽松洞はこんな場所。東京で言えば銀座と皇居の間くらいで、こんな超一等地にはりこんだ建物が典型例にならないのは上述の021Bに挙げた総督府史料からも明らか。
|
23 |
【京城鐘路尋常高等小学校の写真】 |
023B |
それ、日本人学校。
鐘路は銀座通りみたいな…という前に、そもそも「小学校」は1937年まで実質日本人向けなので朝鮮人学童への教育を語る材料にならない。
この写真はいつ撮ったのかな? 出典に挙げている日本地理風俗史大系…ではなく「日本地理風俗大系16」の出版年は1929-1932年なんだけど? |
24 |
京城帝国大学の図書館予算は東京帝国大学の十倍もありました。 |
024A-1 |
[1] 学生は何倍居たの?
図書館の話は出典が無いので真偽不明だが、何にいくらお金を使おうと、京城帝国大学が学生数で東京帝大とはくらべ物にならないミニ大学であった事に変わりはない。
京城帝国大学(本科)の入学者数は1940年でも200人(朝鮮総督府統計年報1940年版 P274)。
東京帝国大学の入学者数が1,000人を超えたのは1904年。2,000人超えは1922年(古屋野素材 『東京帝国大学入学者に関する統計』 東京大学史紀要 1979年3月号)。 |
024A-2 |
[2] しかもその学生の3分の2は日本人。022B参照 |
24 |
ちなみに韓国で最も競争率の高いソウル大学は、戦後にできた大学ですが、京城帝国大学の理事会や施設を受け継ぎました。しかし同大学は京城帝国大学が起源ではないと主張しています。 |
024B-1 |
接収資産が転用されたのは事実だが、京城帝大がソウル国立大学の中核的な母体で連続的存在であるかのように錯覚させるような表現は大盛りの盛り過ぎ。
[1] 旧京城帝大は10分の1程度。
大学の規模が違い過ぎて、京城帝国大学≒ソウル国立大学とはとても言えない。
ソウル国立大学は学校10校を廃止したうえで施設を統合して発足しており、京城帝国大学跡地はその一つに過ぎない([2]項引用文の前半参照)。
人的にも、京城帝国大学の1940年入学者が200人なのに対して、1946年9月の開学にあたりソウル国立大学に学生登録した人数は6,799人で、京城帝国大学の軽く10倍かそれ以上 (Summation of United States Army Military Government Activities in Korea,
No.12, Sep.1946, P67)。 |
024B-2 |
[2] 組織的連続性もない。
旧学校は全て以下の通り正式に廃止されており、教授陣や理事が誰だろうと組織的連続性が無いのは事実。
|
The following Seoul colleges and institutions of learning and affiliated
installations are disestablished and merged into Seoul National University; the Seoul Commercial, Dental,
Law, Medical, Mining, Normal and Technical Colleges, the Seoul University,
the Women's Normal College and the Suwon Agriculture and Forestry College.
The corporate existence of each listed college and institution of learning is terminated and the property, equipment, records, funds and personnel of each institution and its affiliates are transferred to the control of Seoul National University. |
|
Summation of United States Army Military Government Activities in Korea,
No.11, Aug.1946, P81 太字は引用者。2番目の文の太字部分は「上に挙げた各学校・教育機関の法人としての存在は終了する」と書いてある |
|
024B-3 |
[3] 3分の2が居なくなったのでは?
1940年の京城帝国大学職員599人のうち、日本人が410人で3分の2強を占めていたが、これら日本人教職員や学生のうち、敗戦で資産全部没収されても日本に引き揚げず朝鮮に残り、しかもソウル国立大学に入れた人は何人居たのかな。
人が3分の2も居なくなった組織が単純に連続していたかのように言うのは盛り過ぎ。
|
024B-4 |
[4] もっと古い先祖が居る。
施設を受け継いだ者は子孫だと言ってよい事にしても、京城帝国大学開学時の2つの学部、医学部・法文学部の両方について、統合された学校の中に"先輩"が居る。
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統合した学校の一つが、源流を李氏朝鮮時代の1895年に設立された法学校に求めることができ、ソウル国立大学はこれを起源としている。
この法学校は、植民地期の大半を「京城法学専門学校」として過ごしている
(朝鮮総督府施政年報1927年版 P172)が、ソウル国立大学が接収した学校施設の中で最も歴史が古く、1926年開学の京城帝大法文学部より早いのは言うまでもない。
医学部についても最も古い先祖は1899年創立の京城医学校(『朝鮮教育ノ沿革』 朝鮮総督府学務局、1921年 P6)であり、京城帝大医学部ではない。
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古いほうの先祖を起源とするのは、何らおかしな事ではない。 |
24 |
総督府は村々に建てた公民館で夜に字の読めない大人にハングルや日本語を教えたのです。 |
024C |
日本語講習会の間違いでは?
1930年代前半、東亜日報や朝鮮日報が学生を使って展開した識字運動(1935年中止命令)に押されてか、朝鮮総督府でも1935年近辺に何かしら少しやったような話は読んだ覚えがあるものの、同年の施政年報にも載っていない。
国語講習会(1938年度~)にかり出した話?
であればそれは日本語しか教えておらずハングル関係ない。
それと、開催は公民館ではなく普通学校や簡易学校が中心。学校建設ですらしぶちんだった朝鮮総督府が公民館なんて建てたんだっけ?
簡易学校(1934年度~)の話?
であればそれは児童向けなので大人関係ないし、1938年小学校で朝鮮語が必修から除外されるまでの4年間の卒業生は合計52,263人に過ぎない。
朝鮮総督府が朝鮮語を奨励したとかいう話?
であればそれは日本人官僚向け限定であって、被統治者の言語がわからないと統治に差し支えるから現地語として勉強を奨励しただけの話。
朝鮮人民衆は関係ないし、どういう事態だと朝鮮人に朝鮮語を奨励する羽目になるのかな?
で、1938年には小学校(この年から普通学校→小学校)の朝鮮語を必修でなくしたうえに、1942年からは日本語常用運動を始めたので、ハングル教育などなされていない。 |
25 |
1905年当時、朝鮮半島には小学校でさえも四十校しかなかったのです。中学校も高等学校もありません。もちろん大学などもありません。 |
025B-1 |
[1] 中等教育以上の学校が何もなかったというのは間違い。
1905年当時すでに開学していた学校を、取り敢えずいくつか記す。分類の「高等/中等程度」は出典そのまま。
分類 |
名称 |
開校 |
出典 |
官立、
高等程度 |
成均館 |
李朝時代~ |
A |
法学校 |
1895年 |
A, 学校Web |
京城医学校 |
1899年 |
B, E |
漢城師範学校 |
1895年(官制発布) |
E |
漢城外国語学校 |
日語学校:1891年
英語学校:1894年
法語学校:1895年(フランス語)
俄語学校:1896年(ロシア語)
など
1895年(外国語学校官制発布) |
A, C, E |
私立
医学校 |
セブランス聨合
医学専門学校 |
1885年 |
学校Web |
官立中学 |
官立中学校 |
1900年 |
E, 学校Web |
私立、
中等程度 |
培材学堂 |
1885年 |
D |
梨花学堂 |
1890年 |
D |
出典 |
A:朝鮮総督府施政年報1910年版 P349
B:朝鮮総督府施政年報1935年版 P167
C:李淑子『教科書に描かれた朝鮮と日本』 1985年 P67
D:『朝鮮人教育私立各種学校状況』 朝鮮総督府学務局、1920年 P17, P21
E:『朝鮮教育ノ沿革』 朝鮮総督府学務局、1921年 P4-6, 9 |
1894年の科挙廃止により郷校、四学が廃れ、官公立の中等教育に穴が空いていたのは事実だが、学校自体がゼロになった訳ではない。 |
025B-2 |
[2] 西洋式学制以外は学校にあらず、というなら、1871年までの日本も同じ。
何か言えた義理ではない。
李氏朝鮮時代にも高等教育相当に至る学校体系が次のように存在していた事は、朝鮮総督府の文書にも記録されている。
書堂 →郷校 (→四学) →成均館
李氏朝鮮が欧米に対し開国したのは1881年なので、1905年は開国から24年目にあたる。
日本の開国を1854年起算とすると24年目は1878(明治11)年であり、東京帝国大学開学の翌年に過ぎない事を考えれば、西洋式学制の学校が少なかったからといって西洋近代化の進度が遅かったとは言えない。 |
26 |
(京城帝国大学が創設されたのはその二年後【=1924年】…
【後略】 |
026A |
細かい話だが、1924年に開学したのは予科。本科の開学は1926年。
|
26 |
どうも韓国人は自国の教育の歴史に関して、何かとんでもない勘違いがあるようです。
現在の日本政府は、韓国のように他国の教科書や教育に口を出すということはしませんから…
【後略】 |
026B-1 |
まずは、国籍で歴史観が決まると思い込んでるあたりからどうにかしたほうがいい。 |
026B-2 |
以上見てきた通り、とんでもない勘違いは間違いと盛り過ぎに満ちた百田本のほう。
こうも歪んだ歴史観を満足させるような歴史教科書は、まっとうな歴史学者が著す限り、日本でも登場し得ないだろう。
もし登場するなら、そして他国に文句を言われたくないのなら、指摘される前に自ら正すべし。 |