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工業化と所得 |
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日本帝国の支配下で朝鮮は工業化が進み豊かになったと言われますが、その恩恵はいかほどだったのでしょうか。まとめ@ 工業生産は大きく成長したが、農業の実質生産額は一人あたり1.2-1.3倍程度の成長に留まったA 工業従事者世帯の人が朝鮮人に占める割合は、1940年でも4.7% B 工業従事者など賃労働者の所得は、物価を加味すると、経済情勢により大きく上下しつつ実質的には向上しなかった C 朝鮮人と日本人の間には概ね1.5倍を超える給与格差があった D 株主=会社の持ち主は9割が日本人 E 1930年代の日本資本による重工業は自己完結型が多く、地場産業への波及効果は疑問 F 重工業や発電所は北部偏重で、戦後の韓国には恩恵がなかったどころか朝鮮戦争で北朝鮮の軍事力の支えに |
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![]() 左グラフは1943年時点の日本(本土)と朝鮮の一人あたり平均所得です。 これは朝鮮総督府が帝国議会向けに作成した説明資料に記載の数字です。資料によってはこれより高い数値を挙げているものもありますが、これは当局の内部資料の数字なので相応の信憑性があると思っていいでしょう。 5倍以上の格差があります。少なくとも日本本土ほど豊かにした訳でないのは明らかです。 ![]() 一握りの工業が支えた経済成長まずは域内総生産のデータを何の補正もなしに見たのが右のグラフです。 なかなかすさまじい経済成長をしたように見えます。しかし、実態を知るには少なくとも3点の検討と補正が必要です。 一つめは、そもそもこの統計に信頼性があるかどうかの検討。 二つめは、物価変動分の補正。単に物価が上がって売上が増えただけなら、生産高が伸びたとは言えないからです。 三つ目は、人口の増減を加味した検討。
![]() 最初に示した生産額グラフと併せて見ると、工業の伸びが全体を牽引した事、農業が足を引っ張った事がわかります。 ![]() 3つめは人口の補正。農業、工業の生産高を従事者一人あたりに直して指数にすると左上のグラフの通りです。但し、従事者ではなく従事者世帯の人口で割っているので、特に工業については 「だいたいこんな感じ」 と捉えてください。 農業は1918年比1.2-1.3倍程度で振れのある上昇である一方、工業は3倍に伸びた事がわかります。後で説明しますが、工業の一人あたり生産額がこれだけ伸びた理由は、紡績や金属・重化学工業などの装置産業が1930年代以降に大きく増えて、味噌・酒などの小規模醸造業を初めとした家内制手工業のウェイトを下げたためと考えられます。 工業所得で生活した人は朝鮮人人口の4.7%(1940年)次に、植民地統治下での職業分布を見てみると、以下のようになります(人数は家族込み)。朝鮮人は圧倒的に農民主体、日本人は公務員・自由業が極端に多く商業従事者が続きます。 ![]() ![]() ![]() 見やすくするため、左上を人口割合の折れ線グラフに直したものが右のグラフです。工業従事者は1940年においても朝鮮人の4.7%を占めるに過ぎず、朝鮮人民の所得の大勢は農民層の状況如何で決まっていた事がわかります。 家族を除いた正味の工場従業員人数は1940年でも総数294,971人で、全朝鮮人口の1.3%に過ぎません。朝鮮人に限ればパーセンテージは更に低いでしょう。 農民層の所得と家計状況については「食糧と農村」のページに記してあります。植民地期に向上したとはとても言えず、むしろ貧窮者の国外脱出や都市流入を起こしていました。 では被雇用者はどうだったでしょうか。
右のグラフは1910年7月を100とした賃金(当時は労銀と言った)と物価の指数推移です。データ出典の朝鮮金融事項参考書はオンラインで閲覧できます。 |
朝鮮の会社資本 | 1911年 | 1917年 |
朝鮮人払込資本 | 274万円 | 587万円 |
日本人払込資本 | 506万円 | 3,802万円 |
出典: 山辺、前掲書、P31-32 |
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今回の事変が片付きましても、続いて大陸作戦をする場合即ちソビエットと国交が破れた場合の物資の補給に於て最も根拠を有つものは我が半島であります。総てのものを内地から皆は賄ひ得ない、つまりいざといふ場合には海峡が安全であると何人も断言し得ないからである。安全でない場合は内地と大陸は交通遮断され、内地からの物資の補給はできない。その時に物資の補給をなすものは何処か 満鮮である |
南次郎朝鮮総督発言 朝鮮総督府 『朝鮮時局対策調査会会議録』 1938年 P29 学習院東洋文化研究所に蔵書あり 引用元;川北昭夫 『1930年代朝鮮の工業化論議』 「論集朝鮮近現代史」明石書店(1996年)所収 P275 |
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※ この出典の元ネタをたぐると京城商工会議所刊 『朝鮮会社表』 に行き当たりますが、この資料には代表者の名前はあっても民族別資本金は載っていません。ご留意願います。 |
(1) | 日本工業の延長として建設されてきたため、日本の敗戦により顧客を失い、相互の関連も崩れた。南北分断がこれに拍車をかけた。 |
(2) | 戦時下に軍需優先で統制され、軍需関連部門が異常に肥大した一方、平和産業は統廃合・縮小されたが、この歪を元に戻すのが技術や部品確保の問題により困難だった。 |
(3) | 戦時中の物資欠乏と粗悪品生産によりすでに設備が劣化していた。(許粹烈、前掲書、P282-286) |
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1949年3月に金日成はモスクワでスターリンと会談し、同月17日に朝・ソ経済文化協定を締結した。これは5か条からなり、両国間の通商の発展、文化・科学・芸術・産業分野における交流・協力関係の促進を協定するものであった。このとき同時に、軍事にかんする秘密協定が締結され、スターリンは金日成に兵器供与(および軍事訓練の機会の提供)を約束した。近年公開された資料によると、引渡し兵器(1949年分)は、爆撃機、戦闘機、戦車、重火器、上陸用舟艇、魚雷、通信機器など広範囲にわたった(表9-1)。この結果、朝鮮戦争開戦時までに朝鮮人民軍は、空軍機192機、戦車173両、迫撃砲1,300門余などを保有するに至り、その装備を飛躍的に強化した(表9-2)。 上記の兵器供与に対し、スターリンは代価を要求した。すなわち兵器供与は、援助ではなくビジネスであった。最近公開された旧ソ連文書は、この点を以下のようにあきらかにしている。 |
木村光彦・安部桂司 『北朝鮮の軍事工業化』 和泉書館、2003年 P197 | |
北朝鮮政府の「極秘」資料は、1949年の産業省傘下企業所による対ソ輸出の明細 (48品目) を示す (表9-3)。その金額データの貨幣単位は不明であるが、おそらくルーブルである。総額2億5,873万 (ルーブル) のうち、金・銀がもっとも多く (7.185.8万)、28%を占めた。輸出量はそれぞれ、6.6トン、26.8トンであった。その他では肥料、"M"精鉱(後述)、銑鉄・鋼の金額が大きかった。輸出品を生産した企業所は、興南・本宮の諸工場、城津製鋼をはじめ、すべて戦前に開発・建設された鉱山と工場であった。 | |
同 P200 | |
北朝鮮の公式文献によれば、金日成は日本帝国の崩壊直後に、廃墟となっていた旧日本の兵器修理所を視察し、兵器工業の育成策を練ったという。この修理所が平壌兵器製造所であったことは確実である。金日成は、そこに残された設備と技術者、労働者を集め、国内兵器工業の中核とした。…(中略)… 金日成自身、65工場についてつぎのように述べた。 「解放直後、国の事情は非常に困難でしたが、われわれは多大の力と資金を投じて65工場を建設し、はじめて銃と弾丸の生産を開始しました。祖国解放戦争のとき、飛行機や大砲などは自力でつくれませんでしたが、自動短銃[機関銃]、迫撃砲、弾薬、砲弾などは少なからず自力で生産供給しました。」 |
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同 P207 | |
北朝鮮では機関銃、弾丸の原材料は基本的に自給することができた。すでにみたように、鉄鉱は戦前に、日本製鉄や日本高周波重工業、三菱製鋼の製鉄所で普通鋼から特殊鋼まで生産体制が確立していた。…(中略)…火薬・爆薬の生産は、戦前より一層拡大した可能性が高い。旧朝鮮窒素火薬の工場のみならず、興南の肥料工場、本宮の化学工場、旧本製鉄(ママ)の製鉄所、阿吾地・青水の工場など多くの施設で火薬・爆薬原料が製造可能であったからである。 | |
同 P208 |