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人口が増えたのは日本の統治が朝鮮人を豊かにした証拠だという説

 
貧困国でもさんざん人口爆発しているじゃないか、の一言で済みそうですが、一応きちんとレビューしてみます。

まとめ

@ 人口統計の信頼性が低く、2倍になったというのはデータの間違いと考えるのが妥当
A 人口は貧困に陥っても増える。人口が増えたのは豊かになった証拠ではなく、むしろ逆の説明材料にも
B 百万人レベルの人口流出が起きていた。人口から見るなら、生活を困窮させていたと考えるほうが素直


 豊かさを云々するなら、人口がどうとか遠まわしに撫でるより所得データを探したほうがよほどストレートではないかと思いますが、所得を見ると左図の通り、植民地化から30年以上を費やしてなお5倍を超える所得格差に押し込めていたのですから、なるほど「豊かにした」論者は所得データを見たがらないでしょうね。
 併合から20年以上も就学率2割以下に放置、最後まで義務教育を施行しなかったのですから、大半の朝鮮人民が低所得の仕事にしか就けなかったのは必然の成り行きで、このようにちゃんと数字に出てしまっています。ウソだと思う向きは、不二出版復刻 『朝鮮総督府 帝国議会説明資料』 第10巻P268を確かめるべし。

 という訳で最初から結論は見えているようなものですが、人口増加→豊か説そのものも検証しておきましょう。
 まずは人口統計を視覚化してみます。データは朝鮮総督府統計年報の各年度版から拾いました。


 年あたり人口増加率は併合直後の5%台から急激に下がり続け、1918年以降は1%近辺で安定しています。
 人口増加が豊かさの指標であるなら、併合後8年ほど貧困化が進行、以後国勢調査の年だけ餅がふるまわれた事になります。

 実際には、1910年代の人口増加は捕捉率の向上がもたらしたもので、実際にそれだけ朝鮮人人口が増えたわけではない、と指摘されています。「一〇年の統計は不備があり、実際は一七〇〇万人ほどと見られる」(趙景達『植民地朝鮮と日本』P138)との事ですが、併合直後の体制が整わない段階で相当に打ちもらしがあったと考えるのは十分合理的です。

 そこで念の為、この統計の整合性を見てみます。出生と死亡の差 [B] が人口増減 [A] とどれくらい一致しているか、左の表を見てみましょう。
 ギャップは1911年段階で59万人にものぼり、1919年に向けてほぼ一直線に収束しています。そして、併合直後の10年間で2,505,689人も、出生ならざる理由で増加しています。
 当初、統計の人口捕捉率が良くなかったことを傍証しています。これを統計の捕捉率向上以外の理由だというには、どこから250万人もの人達が登場したのか、史料に則って証明する必要があるでしょう。


 以上、ざっくり人口を眺めたところで、次に行きます。

 そもそも、人口が増えたら豊かになった事になるのか?

 なると思っている人は、人口爆発のニュースを読んだ事がないのでしょう。不勉強です。「ひもじいと子供を作れない」が正しければ、日本が最もひもじかった戦後すぐの時期にベビーブームで団塊の世代が集団出生する訳ないではありませんか!

 人口増加は貧しい国でも起こります。「貧乏人の子だくさん」という言葉が示すように、稼ぎ手を増やすべく多産になるからです。
 右のグラフで見てみましょう。朝鮮の1920→40年の20年間と、各国の1960→80年を比較しています。各国の戦後人口は国連人口統計から数字を拾うことができます。
 バングラデシュは人口爆発を抱え、今も貧困が問題になっています。
 中国のこの時期は大躍進失敗→文化大革命と受難を重ねています。
 韓国は李承晩政権が倒れて後、'70年代に「漢江の奇跡」と呼ばれる高度成長を遂げた時期にあたります。

 こうしてみると、人口増加と貧困脱却は特に関係ないことがはっきり見て取れます。
 人口増加の頭打ちと先進国化は関係あるでしょうが。

 人口で豊かさを推し量るなら、むしろ出稼ぎや難民として国外に出た人の人数を見たほうが正解です。
 ふるさとで不自由なく暮らせるなら、わざわざ言葉の異なる所に稼ぎに出る必要がないからです。

 右のグラフは、日本在住の朝鮮人人口を2つの統計で示したものです。
 一つは内務省統計(毎年データあり)、もうひとつは国勢調査の民族別人口統計(10年に一度)です。
 国勢調査のほうが精度が高いと見ていいでしょう。常に内務省統計より高い数値を示しています。

 企画院による労務者動員が始まる直前の1938年時点で、在日朝鮮人人口は799,878人に達しています。
 約80万人という数字は、朝鮮本土の朝鮮人人口2195万人に対して3.6%にのぼります。
 この他にも満洲に移動した人が居り、相当な数の人が故郷を離れた事を示しています。

 『日本政府は、朝鮮人労働者の流入による失業者の増大を恐れ、景気の変動によって自由渡航制と渡航規制を繰り返した。…三七年の兵庫県の調査によれば、彼らの渡日理由の実に七五.六五%は「生活難」であった
 『渡日者のほとんどは最底辺労働者となった。土工・炭鉱夫・紡績工女などが多かった。…工場での賃金は日本人の六十%ほどにしかならなかった。それでも…兵庫県調査では、日本での生活は朝鮮での生活より「楽とするもの」が七八.四七%に及んでいる。』 
(趙景達『植民地朝鮮と日本』P145-146より引用、太字は引用者)

 このように、百万人になんなんとする人達が食い詰めて域外に出る状態を「豊かにした」と言い得るでしょうか。
 これは人口から推定するより、ストレートに貧富困窮を表すデータを探したほうが適切と思います。が、少なくとも人口の動きを根拠に何かを言うなら、豊かにしたのではなく、食い詰める人を相当に出したというほうが論理的に素直です。



※ 上のグラフで「労務動員」と軽く書いていますが、これはほどなく強制的性格を色濃く帯びることになります。いわゆる朝鮮人強制連行問題です。
 ここでそう書いていない理由は、初年度は強制しなくても応募が好調だったとされているからです。これもまた、民草を食い詰めさせていた一つの表れと言えますが、「強制連行はなかった」のではありません。



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