トップページ > 韓国・朝鮮編 > | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『データで見る植民地朝鮮史』トップへ 植民地期の年表を見る
「ハゲ山を緑にした」は本当か |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハゲを直したら植民地支配を正当化できるのか、という高いハードルがありますが、それ以前の問題として。まとめ@ 実は自慢できるほど改善していない。林野の樹木密度は30年かけて日本本土国有林の2割以下A 戦時中の飢餓によって再び荒廃した度合いを評価する必要あり |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
何事も定量化して、数字で物事を見るのが大切です。 というわけで、結論の数字からいきましょう。はい、ドン。 1町=1haで換算
お山をどれくらいフサフサにしたのかを示す数字が2通り残っています。一つは林相。成熟した林になっているか、幼木がちまちま生えているだけなのかを分類して、各々の面積を示す方法。 もう一つは林野蓄積と言って、生えている木の幹の体積を示す方法。どうやって測るのか判りませんが、数字は残っています。 林野蓄積のほうがよりシャープに森林資源の量を示してくれそうです。尺締とは木の体積を表す単位で、1尺締=0.33392m3です(林野庁資料参照)。後で出てくる「石」は、木材の場合1石=0.27826m3です。 まず林相から。 1910年と1923年の間に大きな進展は見られません。 実は森林の土地調査は田畑より後回しにされており、一応の完成を見たのは1925年です。所有者が確定していない林野に手を出すのは困難なので、この時期に全林野にわたる進展がなかったのは確実と考えていいでしょう。 林相の評価基準が1923年と1927年の間で変わっているので、通算してデータを使うことができません。 しかし、木が一人前に育つには10年以上かかるので、ギャップの4年の間に大きな変化は起こっていないと考えていいでしょう。 1927年以降、林相は「立木地」がじわじわ増えています。なんとなく年を追って改善したように見えますが、ここで言う「立木地」とは、「立木度」なる尺度で十分の三以上の状態を指します。「散生地」は立木度1/10〜3/10です(朝鮮総督府『朝鮮の林業』1929年、附表第1表注記)。何かの10分の3くらい生えていれば立木地と判定されたという事です。 一方、この年以降数字がわかる林野蓄積のデータを見ると、1927年から1940年に到るまで減少しています。このへんの事情について、当時の総督府はこう記しています。 「立木地といえども植伐相伴はざる結果、その蓄積比年減退するの傾向あり、しかも一方建築用材および燃料の需要は年年激増し、かつ鉄道枕木・電柱・橋梁用材・鉱業に要する坑木その他製紙原料木材等の需要また逐年増加するを以て、将来の供給を考慮し努めて過伐濫採を戒め主力を保護と造林とに尽しつつあり」 (朝鮮総督府施政年報1940年版、P313)
すめらぎのみめうるわしき朝鮮統治30年にして、平均値とはいえ林野に生えてる木の密度が皇室御料林の1割ちょっと、日本本土国有林の2割に遠く及ばず民有林にも4倍ほどの差をつけられていた実態がわかります。 当時の朝鮮では林野の生え具合に大きなバラつきがあり、「老齢林は鴨緑江豆満江の両流域または脊梁山脈に偏在し、交通運搬不便にしてその大半は未利用の状態にあり、その他の七百二十九万町歩は稚樹の散生地または未立木地」(前掲『朝鮮の林業』 P7-8)でした。 ということは、林野蓄積の密度は中国国境地帯の鴨緑江・豆満江流域や半島部東海岸沿いの脊梁山脈において上の平均値よりはるかに高く、その他の場所では平均よりぐっと下だったという事になります。「ハゲ山」は後者です。仮に老齢林でない部分の密度が平均の半分とすれば、その密度は1940年においても日本本土の民有林の1/8程度だった事になります。 これ何ですか? ハゲ山を緑にしたんじゃなかったんですか? 総督府は何やってたのか話はここでおしまいにしてもいいのですが、散々 「ハゲ山を緑にした」 と吹聴されてきたので、朝鮮総督府の言い分を少し聞いてみましょう。総督府はいかなる手を打ったのか。
このうち (3) などについては、どれ位施策したのか数字が残っています。 一体どのくらいの仕事をしたのか、数字を見てみましょう。赤い数字が1910年〜40年に積極的対策の行われた面積です。 赤数字部分の合計は11,582km2。国有林面積が最大だった1926年の94,146km2に対して12%相当の面積に施策が行われた勘定になります。 グラフには示しませんが、民有林に関しても1922年から40年にかけて、1926年面積68,484km2の6.8%に相当する4,639km2 (国有林貸与分の造林を差し引いて算出) に植林が行われています。但し、こちらは民有林であり、個々の林野の持ち主による造林なので、必ずしも総督府の手柄とは言えません。 造林活動をしていなかった訳でないのはわかります。但し、林野蓄積が減っているのですから、造林した以上に切り出していたことになります。 この他、火田と呼ばれる焼畑農業への対策をとっていますが、朝鮮総督府統計年報で見る限り火田面積が最大になったのは1939年の522,141町(≒ha)。この後は減少に転じますが、アジア太平洋戦争突入の直前まで火田の拡大を防げていなかった事になります。 また、この年の火田面積ですら同年の全林野16,313,194町の3.2% (朝鮮総督府統計年報1942年版P70-71。なお同年年報のP43によれば、火田の面積が最大だったのは1938年の442,044.6町)にしか相当せず、そもそも火田が禿山の主因とは言えない事もわかります。 なお、その火田対策とは「現地はそのまま耕作を認容するを原則とし、国土保安ならびに営林上特に廃耕せしむるの要あるもの等に限り、他に国有林野内農耕適地を替地として供与なすこととし…」 (朝鮮総督府施政年報1940年版、P307 太字は引用者)という次第なので、移動焼畑は止めたにしても、火田を森林に戻す施策ではありませんでした。 もう1点指摘しておきましょう。 そもそも国有林自体が、元々樹林の成熟していた地域に偏在していました。 営林署の分布(左上図、1934年現在)と概ね一致します (京畿道にはその後営林署が設置されています)。 前述の、老齢林が偏在する「鴨緑江豆満江の両流域または脊梁山脈」に偏在しています。ちなみに右上グラフで右側5道が現在の北朝鮮です。 国有林をいくら造林しても全土くまなく緑化活動した事にならないのは明らかです。林野蓄積の減少傾向と併せて考えれば、もともとあった天然林から切り出した分を造林していたに過ぎないと想定するのが自然でしょう。 総じて言えば、「何もやってなかった訳ではないが、全土を緑化したかのように言うのは誇大に過ぎる」という事です。 戦争でダメにした可能性アジア太平洋戦争に突入すると、日本本土でもそうであったように、いやそれ以上に人員物資の強制動員がかかります。 悪名高い従軍慰安婦問題はそれ以前から発生していましたが、労務者強制連行、食料の飢餓供出など、恐らくは植民地支配で最も恨みを買った期間です。 この時期の諸々については、別ページ「ファシズムと戦争への巻き添え」で詳述していますが、少なからぬ労働力を召し上げられたうえに収穫以上の食糧供出ノルマを課せられた農村の食料事情がどうなったか、当時の内務省資料はこう述べています。上のリンク先と重複しますが一部抜粋します。
木の皮まではいで食べる所まで農村の民衆を追い詰めていた以上、林野も無事ではなかったでしょう。 戦前にどれだけ緑化に貢献したにせよ、この時期に少なからず林野を台無しにした可能性は高いと考えるべきです。 これでも日本帝国の朝鮮統治が植林造林において上等だったと主張したければ、終戦解放時の緑化状況、というか林野の生き残り状況を数字で示すべきです。 『データで見る植民地朝鮮史』トップへ 植民地期の年表を見る ツイート |