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「韓国の希望で併合した」という物言いについて

 
いくらなんでもそれはないだろう。

まとめ

@ ハーグ密使事件、義兵運動など、武力衝突も伴った明白な抵抗があった歴史的事実と反する。
A 一進会という団体が「韓日合邦」を請願したのは事実だが、(A)日本による一方的併合ではなく対等な政治統合が主張だったし、(B)一進会は韓国民を代表しておらず、韓国世論の反発も激しく、(C)韓国併合方針が日本で閣議決定された後の話で、請願は日本当局にたしなめられており、その政策決定には寄与していない。



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韓国併合の真実と事実 

(8分10秒)

「望まれて併合した」といった類の "歴史の真実" デマを
一次史料を確かめながら、事実の力で潰します。
このページより少し手前、1904年から解説します。

 ハーグ密使事件(1907年)とは、韓国の皇帝高宗がオランダのハーグに密使を送り、第二次日韓協約(日本が韓国から外交権を取り上げ保護国化したもの)は強制であり無効である事を各国に訴えようとした事件です。
 この訴えの試みは失敗し、日本帝国はこれを口実に戦争をちらつかせて高宗を退位させ(右画像参照)、意思表示能力に問題のあった純宗を後継の皇帝に据えたうえ、内政権まで取り上げたのです(第三次日韓協約)。

 義兵運動は、1907年の韓国軍解散命令に反発した韓国軍人などを中心に、日本帝国の支配に実力で抵抗すべく韓国の各地で武力抵抗を続けたものです。日本軍は併合までの4年間、制圧を続けなくてはならず、1907〜10年に2,819回衝突し、17,688人の義兵を殺したと日本側の記録にあります(日本陸軍「朝鮮暴徒討伐誌」より、海野福寿『韓国併合』P188)。これだけ衝突し反対者を殺しておいて「望まれて併合した」はないものです。 さらに詳しく義兵運動を見る

 このあたりは基礎知識に属する有名な歴史的事実で、わざわざエビデンスを出してどうこうするようなものではなかろうと思います。この2つの事件まで公然と否定するようなのが出てくるのであれば、「明治維新はなかった」とか「日本は太平洋戦争で降伏してない」と言うレベルのナンセンスなので、さすがにつきあいきれません。
   それでも自分の眼で「韓国が望んでいなかった」エビデンスを確かめたい方は
     →高宗皇帝の親書(日本に侵され独立危ういので支援乞う、といった内容)
        ドイツ皇帝宛て(1906年) フランス大統領宛て(1906年)















写真上: 徳寿宮重明殿(ソウル)
伊藤博文以下が第二次日韓協約の調印を強要した場所
写真右: 韓国・高宗皇帝が各国に第二次日韓協約の無効を訴えた親書の画像
  重明殿に展示されているものを撮影(2015年)

 おおかたそういうナンセンスを言う向きは、一進会という団体が1909年12月に韓日合邦の請願を行ったから云々、というのでしょうけれど、上の「まとめ」に書いた通りです。武力制圧された後で降伏の方法を進言しているようなもので、後の祭りであり意味がありません。大韓帝国の主権は1907年の第三次日韓協約で、すでに奪われていたのです。
 更に言えば、
⇒ 一進会請願より半年前の1909年7月、日本は既に韓国併合方針を閣議決定しており、合邦請願により併合したとするのは順番が逆です。
⇒ 一進会の要求は対等合併もしくは連邦制。日本帝国による一方的な併合ではなく、併合の正当化には使えません。
⇒ 日本人内田良平が首謀して請願を出させたもので、韓国世論の反発も激しく、一進会の請願が韓国民を代表したとは言えません。
⇒ 日本当局は一進会関係者に対し、君達の論じる事ではないと申し渡しています。日本当局の政策決定には寄与していません。
 詳しくは、『一進会の『韓日合邦請願』とは何だったのか』で史料を用い御紹介していますので、興味のある方はご覧ください。

 あと、韓国併合条約が当時の国際法の要件を形式的に満たしていた云々という話も韓国の自由意志をなんら証明するものではありません。「当時は合法だった」論の最大の誤りは、それによって現在でも「合法」のお墨付きさえあれば再び同じ過ちを繰り返しても構わないという主張と等価である点です。