一進会の『韓日合邦請願』とは何だったのか「一進会が韓国国民の幅広い支持を基に併合の請願をした。だから韓国併合は『望まれての併合』だった!」 という類の物言いが跡を絶たないので、ほじくってみることにします。 史料は海野福寿編「外交史料 韓国併合」から拾っています。韓国併合に係わる当時の公文書などをひたすら収録した本です。 ★一進会が請願したのは対等合併 以下に見るように、一進会の主張は日韓対等合併です。日本帝国が現にやったような、一方的に併合して総督を置き独裁を行う植民地支配ではないので、韓国併合の正当化には使えません。 まずは、その請願の実物を確認してみましょう。 一進会から日本の韓国統監府・曾禰統監宛ての請願書(1909年12月4日提出)と、同日一進会が発出した声明が、日本語訳のうえ東京に連絡されているので、それを読むことにします。 …読んでみたのですが、請願書はやたら冗長な修辞が多すぎて、とても全部転記する価値を見出せません。 冒頭だけ書き出してみますが、こんな調子で延々と続く代物です。どうしても確かめたい方だけどうぞ。
これは付き合いきれないので、核心部分だけ拾いあげてみることにします。
韓国自らを保つ為、韓国皇室を万世にわたり「尊栄」させたい、と言っています。後に韓国併合で現実となった韓国の消滅、皇室の退位を目指しているとは読めません。 更に「両翼鼓身、両輪行輿」という言葉が出てくる所に注目しつつ、真意を明らかにする為、同日一進会から発出された「声明書」を読んでみる事にします。
この声明書のほうが意図を明確に述べています。 韓国皇室の基礎を強固にしたい。韓国人民に一等待遇を与えたい。「保護劣等」、つまり日本に外交権を取り上げられ内政にまで指示される保護国の劣等、奴隷の侮蔑から脱出し、対等の権利を獲得するべく、合邦を訴える。 つまり一進会が請願したのは、日本との対等な政治統合と、両国民の平等です。 日本の総督に一方的に全てを支配され、植民地となり二等臣民扱いされる「併合 (annexation) 」ではなかったのです。 ★実は日本人が仕組んでいた。韓国世論の反発が大きく挫折 一進会の合邦請願は韓国世論の支持を全く得ておらず、「韓国国民の意思を代表していた」と言う事はできません。それどころか、請願自体が韓国人により自発的になされたと言えるかどうか怪しい代物です。 そして、受け取った韓国統監府、日本政府にも支持されず、「一進会の請願を理由に韓国併合した」との主張も成り立ちません。 次に、この2点を確かめます。 日本帝国の韓国統監府サイドは、直前に請願の動きを把握していました(後述)が、請願の現物を受け取ったあと、その取扱いについて曾禰統監から東京に伺いを立てています。
請願書は当初から韓国統監の覚えめでたくなかったようです。 内田なる人物の名前が突然出てきますが、これは黒龍会という政治結社の頭目、内田良平という人物です。12月7日、憲兵隊は次のような機密報告を出しています。
なにやら謀略の香りというべきか、一進会の日韓合邦声明書を仕組んだのは日本人の内田良平だと憲兵隊が言っています。 その後、その前提で菊池という人物(統監府の顧問)が内田に説教し言う事きかせた所まで報告しているので、内田も否定しなかったという事でしょう。 しかも、発表からたった3日で、韓国内の世論に激しく反対され行き詰まっている、とも書いています。 もう一つ面白いことに、「各会中声望あるは大韓協会」「大韓協会に反対すれば希望は通らない」と言っています。 よく「一進会は当時の大韓帝国で一番大きい国民団体だった」ように言われますが、少なくとも影響力は一進会より大韓協会が上、と統監府顧問の菊池が証言している事になります。 実は一進会の悪評は他の資料でも散見され、激しいケースでは咸鏡道のように一進会への反発から義兵運動まで立ち上がっていますが、一進会の実力のほどについては後述します。 さて、大垣丈夫という人物も上に登場していますが、この人はなんと「最も声望が高い」と言われた大韓協会の顧問です。 なんで韓国民の団体にあっちこっち日本人の顧問が入っているのか。日本帝国当局とのとりなしを期待して雇われたのではないかと考えられなくもありませんが、ともかくその大韓協会は12日、一進会の声明から8日後に断固反対の声明書を出しています。こちらも憲兵隊の報告があります。
かくして一進会の日韓合邦の提案は速攻で行き詰まってしまいましたが、最後は一進会顧問・杉山茂丸が桂首相から次のような内訓を受けておしまいとなりました。
簡単に言えば、誠意は評価するが属国国民の分際で口を出すな、韓国人には一切口出しをさせない、という事です。 これで、「韓国民に望まれたので併合した」との主張は完全に潰れました。そもそも日本帝国が韓国併合の方針を閣議決定したのは1909年7月で、この一進会の請願より以前の事です。 ★ 百万人請願説の正体
一進会の請願は百万人だか二百万人だかの署名を添えて出された、それだけ合邦を望む世論は当時の韓国で多数を占めた、という物言いをツィッターで見かけた事があります。 字を書ける人間が少なかった当時に、2000万の人口中それだけ署名したんだから云々、と続けられていました。 そんな話、どの史料に記録されているのでしょう。ここまで見てきた一次史料と真っ向から矛盾します。 強いて心当たりを挙げるなら、一進会の請願書と声明書の差出人・声明者名義が右のように書いてあります。 史料集で「百万人」が無批評に出てくるのは、目にした範囲ではここだけです。これに、 →署名が百万人名義 →百万人が署名 という具合に誰かが大盛りに盛った、と想定すると、なんとなく辻褄が合いますが、こんなもの、社長が「社員一同」と書いた程度の重みしかないのは明らかです。 ………。 ………。 この手のデマの蛇口を見つけたら飛んでいって、壊れるまで閉めたいところです。 馬鹿馬鹿し過ぎて涙が出ますが、一応きっちり詰めておきましょう。 (1) 一進会員は百万人も居なかった。 諸説ありますが、韓国併合後(つまり、一進会も解散させて、何を言っても状況に影響を与えないようになった後)の日本帝国当局は、一進会の規模を次のように認識していました。解散命令時点で一進会が当局に自己申告していた人数と思われます。
もっと厳しい数字もあります。
総督府資料と桁が2つも違いますが、さしずめ「メール会員14万人、インターネット上に書き込みを垂れ流してるアクティブが4000人弱」みたいな按配だったのでしょうか。いずれにしても、「会員100万」が思いっきり盛った数字だったのは間違いありません。 (2) 請願に百万人分の自筆署名がついていたとする記録がない。 百万人もの自筆署名がついていれば、請願書の重みが全く違ってくる(下手に無視すると署名者百万人が騒ぎだす可能性を考える必要がある)ので、当然、ソウルの統監府からその旨東京に報告していなくてはなりません。 しかし、冒頭に紹介した12月5日付の連絡に、曾禰統監はそのような事を一切書いていません。請願書や声明書の日本語訳にも、「以下署名××人分略」「署名簿添付」などの記述がありません。 (3) 署名を集める時間がなかった。 百万人もの署名を集めるには、当然、それだけの広報を大々的にする必要があります。隠密に集められる数ではありません。そして、そのような活動をしていれば当然、その時点で当局の耳にも入っていたはずです。 ところが、この請願の話が統監に連絡されたのは請願の2日前、12月2日でした(警秘第4049号の1)。 しかもこの2日の報告によれば、一進会は大韓協会との間に10月14日、「両会は連邦制度を排斥し、専ら韓国の自治を期す」との宣言書を協定しています。もし署名を集めるとすれば、この協定のあと首謀者が翻意し、かつ全国のメンバーを説得して組織の意思を逆方向にひっくり返してからとなり、時間がなさ過ぎます。当時はインターネットなど勿論無く、市外電話すら7年前に供用開始されたばかり、鉄道も釜山~ソウル~新義州とソウル~仁川が繋がっていただけでした。 (4) 12月4日の声明の後で署名を集めたとも考えられない。 差出人・声明者名義に「同会員 百万人」と書いてしまっていますから、後から署名を集めて百万人に届かないと「百万人」と書いた事がウソツキになってしまいます。事後に署名を集める発想は無かったと考えるのが自然です。 万一、事後署名の動きがあったとしても、声明発表のあと直ちに世論の激しい反論を受けて合邦論自体が立ち往生してしまったのは既に見た通り。 更に、声明のわずか2日後に統監府の菊池顧問から「今日の事件は時機未だ熟せず、一般の反対を受け平和を破壊するのみならず、平地に風波を起すもの」と指弾され、強硬反対派の大韓協会と話し合えと引導を渡されたうえ、首謀者内田良平が一進会から離されてしまったのも既に史料で見た通りで、署名収集活動などできた状況でなかった事は明らかです。 現に、請願2ヶ月後にはこれだけ消沈するに至っています。署名が100万も集まっていれば、こんなにしょげる事態になっていませんね。
これでも百万人だかが自筆署名したと主張する向きには、ぜひとも証拠を見せてもらおうではありませんか。 戻る |