一進会の『韓日合邦請願』とは何だったのか



 「一進会が韓国国民の幅広い支持を基に併合の請願をした。だから韓国併合は『望まれての併合』だった!」 という類の物言いが跡を絶たないので、ほじくってみることにします。

 史料は海野福寿編「外交史料 韓国併合」から拾っています。韓国併合に係わる当時の公文書などをひたすら収録した本です。


★一進会が請願したのは対等合併


 以下に見るように、一進会の主張は日韓対等合併です。日本帝国が現にやったような、一方的に併合して総督を置き独裁を行う植民地支配ではないので、韓国併合の正当化には使えません。

 まずは、その請願の実物を確認してみましょう。
 一進会から日本の韓国統監府・曾禰統監宛ての請願書(1909年12月4日提出)と、同日一進会が発出した声明が、日本語訳のうえ東京に連絡されているので、それを読むことにします。

…読んでみたのですが、請願書はやたら冗長な修辞が多すぎて、とても全部転記する価値を見出せません。
 冒頭だけ書き出してみますが、こんな調子で延々と続く代物です。どうしても確かめたい方だけどうぞ。
大韓国一進会長李容九等一百万会員、大韓国二千万民衆を代表し、恐惶頓首再拝、謹で書を大日本国天皇陛下を代表せる韓国統監曾禰荒助閣下に上る。
伏て惟ふに、貴大日本天皇陛下、誕天命に膺り、震極に首出し、鈞を万邦の允協に秉り、枢を東亜の時雍に転ず。宏謨天の如し。鴻烈日の如し。於嚱、偉なる哉。今や閣下鉞を閫外に受け、徳を八垓に布く。文武の化沢草木に蒙り、頑囂の民自新を思はざるはなし。此時に当りて李容九等抑々亦何をか言はんや。然れども今敢て二千万民衆を代表し、以て之を閣下に訴へ、必ず籲声を天聴に達せんことを期する者は、誠に邦家万世不抜の洪基は、宜しく予め之を今日太平無事の際に建さるべからざるを以てなり。夫れ李容九等、昼夜寝ねず、以て思ひ、昼夜食はず、以て念ひ、惕焉として懼れ、翻然として悟るものは、所謂日韓関繋の前途なり。蓋し夫れ安きものは扶け、傾くものは顚し、適するものは生し、適せざるものは滅ぶ。天演の理、今古の星転に昭かに、奔競の状、宇内の趨歩に審かなり。…

 これは付き合いきれないので、核心部分だけ拾いあげてみることにします。

…所謂日韓関繋の前途なり。…
曰く、日韓合邦を創立すること是也。此れ特に敝邦
(引用者註:韓国を指す)自ら保つ為に云ふのみならず、実に維れ貴大日本国自衛の道なり。特に貴大日本国自衛の道たるのみならず、両翼鼓身、両輪行輿、陽に以て東亜の局勢を支持し、陰に以て世界列国の平和を保任する所以なり。
曰く、ただ敝皇室
(引用者註:韓国の皇室を指す)の万世に尊栄ならんことを懐ふのみ。
曰く、ただ民生の福利、一等国の列に超入せんことを望むのみ。

 韓国自らを保つ為、韓国皇室を万世にわたり「尊栄」させたい、と言っています。後に韓国併合で現実となった韓国の消滅、皇室の退位を目指しているとは読めません。

 更に「両翼鼓身、両輪行輿」という言葉が出てくる所に注目しつつ、真意を明らかにする為、同日一進会から発出された「声明書」を読んでみる事にします。

我皇室の万歳尊祟の基礎を鞏固にし、我人民をして一等待遇の福利を享有せしめ、政府と社会とをして益々発展せしめんことを主唱し、一大政治機関を成立せざるべからず。
即ち、我韓の保護劣等に在るの羞恥を解脱し、同等政治の権利を獲得すべき法律上の政合邦と謂ふべき一問題是なり。
…日本皇室と政府と輿論とが、果して此を容るるや知るべからざるを以て、我二千万国民は一同之を訴求するの精誠を示さざるべからず。嗚呼、幸に此を成立して両翼同飛、両輪共転の政治範図下に於て、生を欲して生を得ず、死を欲して死を得ざる我二千万国民は奴隷の侮蔑を脱し、犠牲の困苦を免かれ、同等の伍列に立ち一新回甦し、前歩を試追し実力を養成せば、前途の快楽を享有し、他日の活躍を得べきは確然明瞭なり。

 この声明書のほうが意図を明確に述べています。
 韓国皇室の基礎を強固にしたい。韓国人民に一等待遇を与えたい。「保護劣等」、つまり日本に外交権を取り上げられ内政にまで指示される保護国の劣等、奴隷の侮蔑から脱出し、対等の権利を獲得するべく、合邦を訴える

 つまり一進会が請願したのは、日本との対等な政治統合と、両国民の平等です。
 日本の総督に一方的に全てを支配され、植民地となり二等臣民扱いされる「併合 (annexation) 」ではなかったのです。


実は日本人が仕組んでいた。韓国世論の反発が大きく挫折


 一進会の合邦請願は韓国世論の支持を全く得ておらず、「韓国国民の意思を代表していた」と言う事はできません。それどころか、請願自体が韓国人により自発的になされたと言えるかどうか怪しい代物です。
 そして、受け取った韓国統監府、日本政府にも支持されず、「一進会の請願を理由に韓国併合した」との主張も成り立ちません。
 次に、この2点を確かめます。

 日本帝国の韓国統監府サイドは、直前に請願の動きを把握していました(後述)が、請願の現物を受け取ったあと、その取扱いについて曾禰統監から東京に伺いを立てています。

明治四十二年十二月五日 午后六時二十分発 第三六号

日韓合邦に関する一進会上書の趣旨は、要するに
(一)韓国皇室の尊栄を日本皇室と共に永遠不朽に垂れんと欲すること。
(二)韓国をして世界一等国の班に列し、韓国民も日本人同様の権利幸福を享受せしめんとするの二点に帰着し、
合邦の意味は連邦なるが如く、又、合併なるが如く見え、甚だ不明なり。
元来、此る大事を一進会如きものの行動に基き今日に実行せんとするが如きは、徒に平地に風波を起し、其局を統ることなきに終るべし。
速成を欲して大成を壊るに至るは必然なるのみならず、延て我陛下の御威稜を傷けんことを恐る。
殊に内田は、韓人に対し此事に付ては桂首相、寺内陸相の密旨を受け来れることを声言し居れるが如し。是れ最も憂うべきの事と存す。
本書訳文は閣下始め各大臣の御参考として郵送す。
(以下略)

 請願書は当初から韓国統監の覚えめでたくなかったようです。
 内田なる人物の名前が突然出てきますが、これは黒龍会という政治結社の頭目、内田良平という人物です。12月7日、憲兵隊は次のような機密報告を出しています。

憲機第二三六五号

今回一進会の発表したる声明書の主謀者は内田良平にして、同人が該書を齎(もた)らしたることは蔽ふ可からざるものにして、発表後、以外にも国民および政府の反対激烈なるため、殆んど今日にてはその成算に苦み居れりと。
而して昨日、菊池謙譲は内田に対し大要左の如き忠告を与へたりと。
一、 今日の事件は時機未だ熟せず、一般の反対を受け平和を破壊するのみならず、平地に風波を起すものなれば、一進会の指揮は東京に於て之を為さず、一切之れを京城に移し、且つ内田等は潔く関係を絶ち、間接に一進会を援助すべしと。
二、 各会中声望あるは大韓協会なるを以て、該会に反対すれば到底希望を満し能はざるにより、大垣丈夫と協議決定すべしと。
右二項の注告を内田は容れ、菊池の紹介に拠り大垣と正式の会見をなすこととなり、本日午前十一時より菊池宅に於て会見をなしたりと。

 なにやら謀略の香りというべきか、一進会の日韓合邦声明書を仕組んだのは日本人の内田良平だと憲兵隊が言っています。
 その後、その前提で菊池という人物(統監府の顧問)が内田に説教し言う事きかせた所まで報告しているので、内田も否定しなかったという事でしょう。
 しかも、発表からたった3日で、韓国内の世論に激しく反対され行き詰まっている、とも書いています。

 もう一つ面白いことに、「各会中声望あるは大韓協会」「大韓協会に反対すれば希望は通らない」と言っています。
 よく「一進会は当時の大韓帝国で一番大きい国民団体だった」ように言われますが、少なくとも影響力は一進会より大韓協会が上、と統監府顧問の菊池が証言している事になります。
 実は一進会の悪評は他の資料でも散見され、激しいケースでは咸鏡道のように一進会への反発から義兵運動まで立ち上がっていますが、一進会の実力のほどについては後述します。

 さて、大垣丈夫という人物も上に登場していますが、この人はなんと「最も声望が高い」と言われた大韓協会の顧問です。
 なんで韓国民の団体にあっちこっち日本人の顧問が入っているのか。日本帝国当局とのとりなしを期待して雇われたのではないかと考えられなくもありませんが、ともかくその大韓協会は12日、一進会の声明から8日後に断固反対の声明書を出しています。こちらも憲兵隊の報告があります。

憲機第二四二九号

来る十二日、
大韓協会に於ては漢城府民会を会所と定め、国民大会を開き、時局問題に関する声明書公布する準備中に在りしが、昨日、同会の重なるもの本部に協議の結果、近くその声明書を各新聞帋に因り公布することに決定せりと云ふ。
声明書左の如し。

      時局に対する声明書

凡そ政治の目的は国民多数の幸福を期図するにあり。故に国民の幸福に基き多数の希望に副へる場合に於て、あるいは韓日の関係を改定するは固より本会の異議なき所なりといえども、今日、一進会が、突如、日韓合邦の実行を迫るが如きは我国情を顧ざる軽挙にして、多数の民意に反するのみならず、為に国民の反抗心を挑発し、両国の親交と国家の進歩を阻害すること鮮少ならざるものと認む。
(以下略)

 かくして一進会の日韓合邦の提案は速攻で行き詰まってしまいましたが、最後は一進会顧問・杉山茂丸が桂首相から次のような内訓を受けておしまいとなりました。

本日、桂侯爵より拙者へ左の内訓ありたり。
一、 一進会およびその他の合邦意見書はその筋に受理せしめ、合邦反対意見書は悉く却下し居ることを了解すべし。
二、 合邦論に耳を傾くると然らざるとは日本政府の方針活動の如何にある事故、寸毫も韓国民の容喙を許さず
三、 一進会が多年親日的操志に苦節を守り、穏健統一ある行動を取り、両国の為め尽瘁し来りたるの誠意は能く了得し居れり。
右の三条は尚ほ当局の誤解なき様、その筋に内訓を発し置くべし。
右の内訓を聞くと同時に、拙者は一進会に左の事を開陳すべし。
一、 一進会の誠意は巳に十分日本政府に貫徹し居れるを証すると同時に、頗る同慶の意を表すべし。
二、 一進会が政治を批議するの状態は、過漫放恣にして毫も保護国民の姿なく、その不謹慎の言動は頗る宗主国民の同情を破壊するの傾あり。
三、 常に党与の間に動揺の状態を以て間断なく空論に属する政治意見を掲げ、総て不遜の言動を以て政府の政治方針を己れの意見通りに左右せんとするの観を示すは、頗る戒飭を要すべし。
四、 政治を論議する志士にして、官吏に対する感情より常に梗概を説くは、耳を傾くるの価値なきを自覚せらるべし。
一進会にして右等の事を知了せずして尚ほ言動を擅にせんと欲せば、拙者と関係を絶ち、自由の行動を執らるるは随意たるべし。

    明治四十三年二月二日

 簡単に言えば、誠意は評価するが属国国民の分際で口を出すな、韓国人には一切口出しをさせない、という事です。
 これで、「韓国民に望まれたので併合した」との主張は完全に潰れました。そもそも日本帝国が韓国併合の方針を閣議決定したのは1909年7月で、この一進会の請願より以前の事です。


★ 百万人請願説の正体


 今週の「そこまで言って委員会NP」が話題になっているので、補足しておこう。ゲストに出てきたケバい化粧の金慶珠という韓国人は、韓国併合のとき韓国人が「一進会」という合邦運動に100万人も署名したと私がいうと、「そんなもの本当にあったんですか」と驚いて、スタジオの失笑を買った。
池田信夫 「アゴラ」記事 2015年6月24日

 一進会の請願は百万人だか二百万人だかの署名を添えて出された、それだけ合邦を望む世論は当時の韓国で多数を占めた、という物言いをツィッターで見かけた事があります。
 字を書ける人間が少なかった当時に、2000万の人口中それだけ署名したんだから云々、と続けられていました。

 そんな話、どの史料に記録されているのでしょう。ここまで見てきた一次史料と真っ向から矛盾します。

 強いて心当たりを挙げるなら、一進会の請願書と声明書の差出人・声明者名義が右のように書いてあります。
 史料集で「百万人」が無批評に出てくるのは、目にした範囲ではここだけです。これに、
  →署名が百万人名義
  →百万人が署名
という具合に誰かが大盛りに盛った、と想定すると、なんとなく辻褄が合いますが、こんなもの、社長が「社員一同」と書いた程度の重みしかないのは明らかです。

………。
………。

 この手のデマの蛇口を見つけたら飛んでいって、壊れるまで閉めたいところです。
 馬鹿馬鹿し過ぎて涙が出ますが、一応きっちり詰めておきましょう。


(1) 一進会員は百万人も居なかった。

 諸説ありますが、韓国併合後(つまり、一進会も解散させて、何を言っても状況に影響を与えないようになった後)の日本帝国当局は、一進会の規模を次のように認識していました。解散命令時点で一進会が当局に自己申告していた人数と思われます。

…従来の結社に対しては、安寧秩序保持上必要と認めたるものに解散を命ずることとし、左記記載の結社に対し明治四十三年八月二十五日より一週間の残務整理の猶予期間を与へ、一斉にその解散を実行せしめたり

 併合の際解散を命じたる政治結社   明治四十三年八月二十五日
 会   名  創 立 年 月  会員概算数
一  進  会 明治三十七年八月 一四〇、七一五
(以下略)
朝鮮総督府施政年報 1910年版 P118

 もっと厳しい数字もあります。

乙秘第二七一一号  十二月七日 (引用者註:1909年)
日韓合邦論に対する韓人の言動

韓国興学会副会長朴炳哲は、日韓合邦問題に対し、左の通り言明し居れり

我が韓国に於ける政治的団体の重なるものは、第一、大韓協会、第二、西北学会、第三、一進会の三種にして
大韓協会は恰も日本に於ける政友会の如く、全国民多数の会員を有し、韓国民全般を代表し居る政治団体と謂ふも強ち過言にあらず
また西北学会は文字の示すが如く、平城(壌?)、平安道、咸鏡道、黄海道等、韓国西北地方に属する政事的学術の進歩を図る政治団体たるに過ぎず
また一進会は或る一部の人士より成る政治団体にして、その勢力も我が韓国に於ては大韓協会の如く尨大ならず その会員は僅か三千人内外に過ぎず
アジア歴史資料センター Ref.B03050610300、伊藤公爵薨去後ニ於ケル韓国政局並ニ総理大臣李完用遭難一件(外務省外交史料館)

乙秘第二六号  一月十日 (引用者註:1910年)
大垣丈夫の行動

帰京中の大垣丈夫は別紙写の如き合邦反対の理由書を起草したる趣にて、近々印刷に附し各方面に頒つ計画中なり
  
(中略、「合邦反対の理由 大垣丈夫談」本文へ)
三、合邦主唱者たる一進会が実数四千に満ざる会員を以て漫りに百万と称するは虚勢もまた甚し。
一進会員集して百万なりとせんか、老幼および婦女子を除くの外、殆んど韓民の総てを挙げて同会員たらざるべからざる筈なり。然るに、事の実際に於て一部少数の同会員なれば、左まで政治的および社会的勢力を有する者にあらず、及て同会は予て韓民多数の排斥を受け居るは事実なり。故に民心の安堵を図らんとせば、窮余の一策に出でたる同会の合邦論に対し特に深重の顧念を払ふの要あり
アジア歴史資料センター Ref.B03050610400、伊藤公爵薨去後ニ於ケル韓国政局並ニ総理大臣李完用遭難一件(外務省外交史料館)

 総督府資料と桁が2つも違いますが、さしずめ「メール会員14万人、インターネット上に書き込みを垂れ流してるアクティブが4000人弱」みたいな按配だったのでしょうか。いずれにしても、「会員100万」が思いっきり盛った数字だったのは間違いありません。

(2) 請願に百万人分の自筆署名がついていたとする記録がない。

 百万人もの自筆署名がついていれば、請願書の重みが全く違ってくる(下手に無視すると署名者百万人が騒ぎだす可能性を考える必要がある)ので、当然、ソウルの統監府からその旨東京に報告していなくてはなりません。
 しかし、冒頭に紹介した12月5日付の連絡に、曾禰統監はそのような事を一切書いていません。請願書や声明書の日本語訳にも、「以下署名××人分略」「署名簿添付」などの記述がありません。

(3) 署名を集める時間がなかった。

 百万人もの署名を集めるには、当然、それだけの広報を大々的にする必要があります。隠密に集められる数ではありません。そして、そのような活動をしていれば当然、その時点で当局の耳にも入っていたはずです。
 ところが、この請願の話が統監に連絡されたのは請願の2日前、12月2日でした(警秘第4049号の1)。
 しかもこの2日の報告によれば、一進会は大韓協会との間に10月14日、「両会は連邦制度を排斥し、専ら韓国の自治を期す」との宣言書を協定しています。もし署名を集めるとすれば、この協定のあと首謀者が翻意し、かつ全国のメンバーを説得して組織の意思を逆方向にひっくり返してからとなり、時間がなさ過ぎます。当時はインターネットなど勿論無く、市外電話すら7年前に供用開始されたばかり、鉄道も釜山~ソウル~新義州とソウル~仁川が繋がっていただけでした。

(4) 12月4日の声明の後で署名を集めたとも考えられない。

 差出人・声明者名義に「同会員 百万人」と書いてしまっていますから、後から署名を集めて百万人に届かないと「百万人」と書いた事がウソツキになってしまいます。事後に署名を集める発想は無かったと考えるのが自然です。

 万一、事後署名の動きがあったとしても、声明発表のあと直ちに世論の激しい反論を受けて合邦論自体が立ち往生してしまったのは既に見た通り。
 更に、声明のわずか2日後に統監府の菊池顧問から「今日の事件は時機未だ熟せず、一般の反対を受け平和を破壊するのみならず、平地に風波を起すもの」と指弾され、強硬反対派の大韓協会と話し合えと引導を渡されたうえ、首謀者内田良平が一進会から離されてしまったのも既に史料で見た通りで、署名収集活動などできた状況でなかった事は明らかです。

 現に、請願2ヶ月後にはこれだけ消沈するに至っています。署名が100万も集まっていれば、こんなにしょげる事態になっていませんね。
乙秘第二五〇号  一月二十九日 (引用者註:1910年)
菊池忠三郎の行動

日韓電報通信社長菊池忠三郎は、内田良平が退韓後、同人に代り一進会操縦の任に当り居りたるが、今回李容九の内命を■し杉山茂丸、内田良平と会し、善後策を講ぜんが為め帰朝せるものにして、着京後日々杉山および内田と会し協議を重ねつつあり
始め日韓合邦論の起るや、一時韓国の政界を賑はしたるも、事、予期と齟齬し、今や頗る窮状に陥り、殊に近く合邦の成功を期するの見込なく、今や一進会は土崩瓦解の悲境に瀕し、このまま推移せば一進会は遂に暴徒に変ずるの虞なきにあらず
アジア歴史資料センター Ref.B03050610500、伊藤公爵薨去後ニ於ケル韓国政局並ニ総理大臣李完用遭難一件(外務省外交史料館)



 これでも百万人だかが自筆署名したと主張する向きには、ぜひとも証拠を見せてもらおうではありませんか。



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