資料: 『朝鮮暴徒討伐誌』と義兵運動
死者数に比べ元データの集計期間が短いですが、この期間だけ見れば全体が判る事は死者数グラフで確認できているので差し支えありません。 衝突した義兵の人数を日本側が正確に数えられたとは思えませんが、メノコ勘定の集積と捉え「大体このへん」として傾向をつかむには良いでしょう。 衝突回数そのものは、1909年中盤までごく緩やかな下降傾向しか示していません。 が、衝突人数は1908年6月を境にほぼ半減しています。 1回の衝突に係わる義兵の数が漸減している事の反映でもあります。 1909年中盤以降は、1回の衝突につき平均20人程度の義兵を追い回していた勘定になります。 義兵がほぼ鎮圧された1910年の中盤、日本は8月に韓国併合条約を結び、その1週間後に併合を実行してしまいました。 政界の大物も指導者をしていた次に、どんな人物がどんな人達を率いていたのか、いくつか拾ってみます。 中には元閣僚級の指導者が登場している例も複数あります。他、儒生や軍人など、とても山賊夜盗の小さなスケールではありません。 出典は全て「朝鮮暴徒討伐誌」です。
日本陸軍は、これを概ね以下の4つに類型化していました。
略奪と日本当局が呼んだものの中身「朝鮮暴徒討伐誌」は義兵が略奪放火したと何回も述べていますが、読んでみるとどうも対象は日本人や官公庁だったようです。 韓国人の一般民衆を襲撃したと特定して明示している記述は見当たりませんでした(見落としているかもしれませんが)。黄海道については義兵名目の盗賊主体と書いてあるくらいです。 義兵運動の目的が日本支配の排除なら、個々の是非は別として、日本人襲撃は戦闘行為の一環として行われた事になり、単なる通常犯罪とは言えません。 義兵が韓国地元の民衆から何かを受け取っているとする描写としては、次のような箇所があります。
ここに挙げられた例が「従来の暴徒(=義兵)と異なるものなし」であれば、軍票で買い上げるのが義兵の標準的な物資調達方法だった事になります。これは日本軍もよくやっていた事で、経済犯罪としての強盗略奪とは異なります。 この軍票に代表される調達手段の運用は、義兵部隊により巧拙あったようで、同じ部隊でも人が変わると民衆に支持されたり、逆に失ったりした例が紹介されています。
義兵を村ごと処断した当局日本当局は、義兵の基盤が民衆にある事、少なくとも民衆と敵対するものではない事を認めていました。 その証拠に、義兵をかくまうなどした場合はその村落単位で「厳重の処置」を下す、と布告しています。
実例も報告されています。義兵の出没した村落を、村落ごと焼き払ったと明示する記録があります。
もし義兵が経済犯罪集団なら、無関係または被害者であるはずの一般村民まで一緒にしてまるごと攻撃するのは矛盾です。 以上のような具合ですから、義兵は単なる山賊夜盗ではありませんでした。 義兵運動が日本支配に対する抵抗闘争だったのは、以上の日本側記録を見ても明らかです。 当たり前ですが、義兵は義兵だったのです。 戻る |