トップページ > アジア太平洋戦争 >

大東亜ハイパーインフレ狂乱圏


 日本帝国は東アジア一帯を占領して「大東亜共栄圏」なるものを建設すると称していましたが、果して占領された地域は栄えたのでしょうか。

 一つの指標になるのがインフレ率です。
 もちろんインフレ率だけで全てがわかる訳ではありませんが、極端に乱高下していれば生活が円滑でなかった事はわかります。

 そこで、日本帝国が侵攻していた主な都市の物価状況を見てみましょう。
 日本銀行が編纂した『日本金融史資料 昭和編』という大部の資料集があります。この 第30巻を後ろから開く※と、P159〜161に占領した各都市の物価指数が収録されています。このデータを拾ってグラフにしてみます。
         ※余談ですがこの本、前から漢数字で、後ろからアラビア数字でページ番号が振られており、前は本文、後ろは統計集になっています。

 あまりにもインフレがひど過ぎて、思いっきり縦長に作らないと全体が収まりません。
 強引に縦長に作っても折れ線が垂直に近くなり、見づらいことこの上ありません。








 そこで、対数目盛にしてみましょう。
 (対数目盛がわからない人はググッてね!)

 対数目盛にすると、ようやくほぼ全貌を1枚に収められました。

 1941年12月、開戦の月を基準にすると、全地域で1945年3月までに物価が10倍を超えています。

 ビルマ(現・ミャンマーの一部)のラングーン(現・ヤンゴン)に至っては、同期間で127倍に達しています。
 従軍慰安婦がビルマで高給取りだった云々という物言いがどれだけ間抜けであるか、このインフレ率を見れば一目瞭然です。1ヶ月あたり19.7%も目減りし続ける給料など、いくらもらったら高給取りでいられるんでしょう?

 この後インフレ率が更にきつくなり、日本敗戦・解放の8月までに更に10倍以上の急激なインフレになっているのは、ビルマ軍のアウンサン将軍が日本に宣戦布告して連合国側につき、傀儡政権を追い出した事により、日本帝国発行のお金が紙くず同然になったためでしょう。

 なお、戦前から植民地ないし傀儡国家であった朝鮮、台湾、「満州国」のインフレはこれほど酷くはありませんでした。
 物資が統制され配給が行われていた事、送金や両替に厳しい統制をかけてインフレが本土に波及しないよう対策していたためです(詳細は後述の日銀レポート参照)。
 これだけだと、「日本が占領する以前のインフレは日本の責任じゃない」と言い出す向きが居るでしょう。
 そこで念のため、日本帝国の占領が一段落してしばらく経った1943年3月を起点に作図したのが左のグラフです。

 やっぱりダメなものはダメです。
1945年3月の2年間で物価が10倍にならなかったのは、インドネシアのスマトラ島中心地・メダンだけでした。

 2年で物価が10倍になるという事は、1ヶ月で10.1%ずつ物価が上がるという事です。
 給料を同じペースで増やすのは非常に困難だし、掛売している人は資金繰りがたまらないでしょう。
 人びとが生活苦に投げ込まれていた事は確実です。

 日本帝国が「アジア解放」とか「大東亜共栄圏」と自称した代物は、全てこのハイパーインフレの真っ只中に存在したものです。
 プライドの埋め合わせにファンタジーを追い求める人がつむぎ出すいかなる美談も、このハイパーインフレと共にしか有り得なかった物語であり、幸せに包まれた話である訳がないでしょう。

 この点を誰もが数字をもってきちんと主張できるよう、元データの数字を提供します。出典は上述の『日本金融史資料 昭和編』 第30巻です。
   東南アジア諸地域通貨発行高及物価指数 (1941年12月〜1945年8月)
   極東アジア諸地域物価指数 (1937年7月〜1945年8月:朝鮮、台湾、「満州国」、北京、上海)
   円系通貨発行高 (1937年7月〜1945年8月)
 コピー&ペーストでExcelなどの表計算ソフトに落としてお使い下さい。


 あわせて、主な区間の物価上昇率を下記しておきます。

北京 シンガポール クチン
(マレーシア・
ボルネオ島)
バタビヤ
(=ジャカルタ)
メダン
(インドネシア・
スマトラ島)
ラングーン
(ビルマ)
マニラ

物価の騰貴

  1941年12月→1943年3月 2.36倍 4.05倍 1.28倍 1.50倍 3.84倍 7.05倍 2.45倍
        1943年3月→1945年3月 26.82倍 39.38倍 10.93倍 11.68倍 5.87倍 18.01倍 58.31倍
1941年12月    →    1945年3月 63.16倍 159.49倍 13.99倍 17.52倍 22.53倍 127.00倍 142.85倍
1941年12月     →日本敗戦(1945年8月) 172.73倍 350.00倍 40.00倍 31.97倍 33.00倍 1,856.48倍

同(年率換算)

1941年12月→1943年3月 1.98倍/年 3.06倍/年 1.22倍/年 1.38倍/年 2.93倍/年 4.77倍/年 2.05倍/年
        1943年3月→1945年3月 5.18倍/年 6.28倍/年 3.31倍/年 3.42倍/年 2.42倍/年 4.24倍/年 7.64倍/年
1941年12月    →    1945年3月 3.58倍/年 4.76倍/年 2.25倍/年 2.41倍/年 2.61倍/年 4.44倍/年 4.60倍/年
註;シンガポールとクチンの1945年3月数値は、前後のデータから割掛で算出した。


原因は軍の通貨「撒布」


 どうしてこんなにひどいインフレになったのか、当時の日本銀行がレポートを残しています。
   南方に於けるインフレーションの問題(1943年12月9日、全文収録)

 興味のある方は上記リンク先を見ていただくとして、要旨次のような事が書いてあります。

  ⇒ インフレの主因は、日本への輸出超過、駐屯日本軍の戦費調達、輸入依存品の現地生産不振の3つ

  ⇒ そのうち最も大きな要因が日本軍の戦費調達
    東南アジアに侵攻した日本軍は、当初は日本から送り込んだ軍票で、1943年4月からは日本帝国が設置した通貨発券銀行である
    南方開発金庫からの借金で戦争資金をまかなっていた

  ⇒ 南方地域に於ては、一般物価の全面的抑制は実行困難。経済統制が困難なうえ、貯蓄性向が低いので撒布資金を吸収できず



 日本軍は兵站の配慮が足らず、食糧などの現地調達を公然と標榜していたのは有名ですが、戦費も借金で現地調達していたのです。

 通貨の発券銀行からの借金は、発券銀行に通貨=お札を発行させるのと同じ事です。現在の日本円も、一般銀行が日銀から借金する事で世の中に流通しています。
 通常、この借金のレベルは制御されているので、通貨の流通量もほどほどに保たれていますが、発券銀行から返せない借金を重ねて使いまくれば、お金を作ってばら播いているのと変わりません
 そんな事をすれば貨幣価値が下がってインフレになるのは自明の理です。
 「作戦行動の活発なる地域がインフレの程度もおのずから大なることより観て、之を包含せる軍の撒布資金が現地インフレの主要原因たることは明らか」、と日銀もはっきり書いています。撒布資金とはストレートに言ったものです。

 インフレ対策も記されていますが、南方は農業国で食糧を自給できるからなんとかなるだろう、などと結論部分に書いてしまっています。死なないからいいや、と言うようなもので、投げやりの気配濃厚です。
 一部の日本人と少数の外国人しか使わない日用品が〜、などとも書いていますが、そもそも物価指数は標準的な消費構造を固定したうえで、測定対象の品目やウェイトを決めて測るものですから、一部のぜいたく品が騰貴しているだけなら、物価指数はハネ上がりません。物価指数は否応なく当該地域の物価推移の全体を示しているはずのものです。
 現在の日本の消費者物価指数も、「家計の消費構造を一定のものに固定し、これに要する費用が物価の変動によって、どう変化するかを指数値で示したもの」であって、「指数計算に採用している各品目のウエイトは総務省統計局実施の家計調査の結果等に基づいています」(総務省統計局Webより)。日用品云々の言い訳も投げやりな強弁と観るべきで、軍の「撒布資金」を止められない環境下での無理筋な対策を求められないよう予防線を張ったのでしょう。

 このレポートが書かれたあと更にインフレが悪化したのは、上のグラフが示す通りです。



トップページへ  『アジア太平洋戦争』トップへ