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植民地朝鮮と併合前の韓国を比較してみる

 
各論は項目ごとのページで検討するとして、ざっと概観してみます。

まとめ

@ 西洋への開国は日本に四半世紀遅れたが、遅れたなりに進取の努力と改革はなされていた。
A 日本統治の教育、衛生などは案外停滞していたのが実情で、朝鮮自力の近代化による更なる改善の機会を奪った可能性も



 朝鮮停滞論などというものが植民地支配の言い訳として当時から唱えられており、朝鮮総督府の初期の文書は「遅れている朝鮮」喧伝のオンパレードですが、これを未だに主張する向きがあります。
 併合前の「みすぼらしい朝鮮」の写真をよりすぐって、印象づけようと一生懸命なのですが、みすぼらしく見える所ばかり集めても全体の説明にはなりません。
 試しにひとつ、下に並べた写真、どちらが「みすぼらしく」見えるでしょうか。












 右の写真は1904年、左は1933年頃のソウルです。つまり右が韓国併合前で、左が併合の20年以上後です。
 ただし、同一地点ではありません。左は人口流入を受け止めていた郊外、右は市街中心です。日本の朝鮮総督府は流入人口を郊外に追いやるだけでろくな住宅対策をしなかったので、左写真のような土幕集落が出来上がったのに対し、併合前の大韓帝国は米国帰りのスタッフを迎えてソウル都市改造(1896〜1904年)を行い、街路を整備したので、右写真のように整理された街路が絵として残っています。

 左にご紹介する本『東大生に語った韓国史』は、ソウル大教授の李泰鎮氏が東京大学で行った近代韓国史の講義をまとめたものです。
 大韓帝国が自力で近代化をはかった光武改革(1897〜1905年)についてまとまった解説がある本は、他にはなかなか無いのではないかと思います。
 この本の中で、例の南大門外の「みすぼらしい」写真を使ったプロパガンダについても解題されています。\3,000+税と値ははりますが、地元の図書館にリクエストするなどして一度読んで戴ければと思います。

 下の表は、植民地下の状況を同時期の日本本土、および念のため併合前の大韓帝国と比べたものです。
 並べてみると、けっこう日本と似たような事をやっています。西洋への開国が日本より四半世紀遅れただけ着手が遅れた分は、差し引いて考えるべきでしょう。
 外国人顧問に諸々頼っていましたが、これは明治の日本も同じで、日露戦争の講和も米国人外交顧問ヘンリー・デニソンに頼っていたくらいです。
 貧乏ゆえ日本を含む外国資本の借款や出資に頼っていましたが、これは今日の世界ですら珍しい事ではありません。日本が海外からの借款を完済したのは1990年です。

 一方で、併合後の初等教育就学率は併合から25年たっても2割に達せず、戦争動員に必要になってからアクセルを踏んだものの最後まで義務教育を施行しませんでした。
 何やってたんでしょうか。愚民政策でしょうか。独立を維持していればもっと良い数字になったのではないかとすら思われます。
 その他、西洋医療の人員養成も1926年まで旧大韓帝国の養成機関があるのみ、都市インフラも人口増加に十分対応できず土幕部落と呼ばれるスラムが郊外に大量放置されるなど、改めて調べてみると日本統治下の停滞もまた諸々目につきます
 「文明開化と明治の栄光」の先入観で実際を確かめずに予断すると、認識を誤ります。項目ごとの検討は『データで見る植民地朝鮮史』で行っているので、そちらもぜひご覧ください。


植民地朝鮮の状況と、日本本土・韓国(併合前)との比較


項目 韓国(併合前) 朝鮮(植民地時代) 日本本土
政治体制 主権 独立国の体裁(日本の干渉下) なし(植民地) 独立国
基本法 大韓国国制 (1899年) 「朝鮮ニ施行スヘキ法律ニ関スル法律」
(1911年)
但し朝鮮総督府官制のように日本の勅令が直接適用される場合もあり
明治憲法は直接施行されず
大日本帝国憲法 (1889年)
立法権者 皇帝 朝鮮総督(ただし天皇の勅裁が必要) 天皇+帝国議会の協賛
(緊急勅令あり)
選挙権 (議会なし) 国会:居住者には全期間通じて無し
地方議会:1930年以降、道・府(市)・邑(町)に設置、一部議席に制限選挙
(1930年:朝鮮人有権者は人口の1.6%)
成人男子に制限選挙権
1925年から男性のみ普通選挙
教育 初等教育 国立小学校:60校(1905年)
    →普通学校(1906年)

併合時の学校数
    普通学校: 100校
    私立学校:2,200校強
  ほか書堂多数
日本人:内地同等の学制
朝鮮人(日本語を常用しない者):
 1911年:普通学校4年
 1922年:普通学校6年   
(1935年)初等学校就学率:17.6%
内訳:男27.2%、女7.3%
 1938年:日本人同等の学制に
(1943年頃)初等学校就学率:54%
内訳:男75%、女33%
1872年 義務教育施行
 初等学校就学率:
   1883年 51.0%
   1900年 81.5%
    (この年無償制確立)
   1905年 95.6%

高等・
専門教育
医学校1、外国語学校6、師範学校1
(1899年)
ほか商工学校、郵便学堂・電務学堂等
京城帝国大学(1924年予科開校)

官立専門学校:6校(1939年)
内、併合後設立は1校
東大、京大、高等学校など多数
インフラ 縦貫鉄道 釜山〜ソウル〜新義州 1906年開通 同左
(土地収用と賦役で路線延長)
東京〜博多 1901年開通
(稚内〜鹿児島は1922年開通)
電力会社 1898年開業:漢城電気
1900年開業:釜山電燈梶@など
同左 +新規参入、事業拡大 1886年開業:東京電燈
1887年開業:大阪電燈、神戸電燈
郵便 1884年郵便事業発足−中断
1895年再開
1871年官営郵便事業発足
電話 1902年供用開始:ソウル〜開城 1890年供用開始:東京〜横浜
入会地 無主公山を民衆が共同利用 共有林を国有化、入会困難に
暖房用薪拾い、火田利用に大きな支障
入会地の制度はあるが
問題も起きている
経済 国民所得 42億円 (1943年度) 600億円 (1943年度)
一人あたり158円(〃) 一人あたり817円(〃)


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