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日本の財政介入は大韓帝国を救ったか |
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大韓帝国が財政も通貨も破綻状態だった所に日本帝国が乗り込んで改革をしたという言説があります。本当でしょうか。まとめ① 韓国通貨(白銅貨)の金貨に対する為替下落は最大6割。うち財政や貨幣政策に起因する下落は4割が上限② 韓国の財政が苦しかったのは事実だが、日本が介入する前の約8年で徐々に改善していた。介入前の最大の歳出先は軍部 ③ 1905年の金本位制導入による貨幣改革は韓国が元々準備していた ④ 日本が韓国の通貨発行権を剥奪したのは余計な主権侵害で、正当化できない ⑤ 日本は韓国に大借金を背負わせ、財政を3倍に拡張した。赤字財政の解消はしていない ⑥ 大韓帝国の皇室財政がどの程度放漫で、どの程度経済に影響を及ぼしたかは学界でも解明されておらず断定できない |
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『由来、韓国財政の如く紊乱を極めたるもの其の例少なく、ただ収斂に亞ぐに収斂を以てし、産業衰頽し、民力疲弊し、終に国力の振はざる今日の如きに至れり。 而してその原因たるや、上下官民を通じ国家に対する誠意の欠乏に在るは言を俟たずといえども、これら社会的原因を除き専ら財政制度上不備なりし主要なる原因を数ふれば (一)貨幣の紊乱 (二)宮中および府中の混同 (三)歳出の濫発および歳入機関の不整頓なり』 (目賀田種太郎『韓国財政整理報告』(1905年12月)P1の1) 『貨幣の信用は殆んど地に落ち、物価の変動極まりなく、これがため財政および経済上に及ぼしたる影響は甚だ深酷を極む』(同、P2の1) これは日本帝国が1904年大韓帝国に送り込んだ財政顧問・目賀田種太郎なる人物の報告書です。 やー、すごい言い様ですね。韓国財政は乱れまくりで、産業も民力もペシャンコ。原因は通貨が無茶苦茶な状態で、王室が財政を私物化、政府予算の管理もなってないと言っています。 朝鮮総督府の財務官僚一筋に生き、戦後は東海大学教授、学習院監事を勤めた水田直昌氏もこう書いています。 『当時は貨幣の価値が朝夕に激変する状態にあったので、(引用者註:政府予算は)実行性のない架空な数字の羅列に過ぎなかった』 (水田直昌『李朝時代の財政』友邦協会、1968年、P340) この言い分は今日に至るまで方々で受け継がれ、朝鮮停滞論の基盤を構成し、財政介入や植民地支配の正当化に用いられています。 さて、本当にそうなのでしょうか。 ★ 「貨幣紊乱」 の程度は最大で4割の評価減止まり大韓帝国時代の通貨の状況、貨幣乱発の度合いを占う指標として、為替レートを見てみましょう。 当時の韓国の主力貨幣だった白銅貨の「乱高下」がどれほどだったか、日本帝国の資料で数字を確かめてみると下グラフの通りです。 貨幣信用が地に落ちとかはさすがに極端、貨幣の交換機能を失うほどひどくないじゃないですか。これ位の為替変動なら、現代の変動相場制でも時々見られます。最近でも「黒田バズーカ」と称して、中央銀行の金融緩和により2012年秋の1USドル=80円から一気に100円へ、更に125円まで通貨安誘導した島国がアジアの東端にあったのは記憶に新しい所です。 まして、財政破綻した国のように1年で通貨が何百分の1にも暴落するような代物ではありませんでした。 1898年に比べて最大で6割ほど価値が低下していますが、1903年の下落は通貨起因ではありません。1902年までの下落を全て通貨の質あるいは放漫財政起因と仮定しても、これらに起因する通貨下落の幅は5年で4割でした。これが、目賀田や水田氏がくさす韓国財政の諸々が引き起こした影響の上限ということになります。
ちなみに、建前だけとは言え当時の韓国は銀本位制だったので、銀の価値が落ちた分を更に差し引いて考える事もできなくはありません。 1898年に英貨(金)2シリング11ペンス※だった銀価は、1903年1月には2シリング5ペンスまで約17%下落しています。 (濱下武志 『中国近代経済史研究』 汲古書院、1989年 P136) ※当時の英貨は1ポンド=20シリング=240ペンス
★民力は疲弊していたのかこれも指標になるような具体的な数字が欲しい所ですが、学会でもインフレ率を推定でしか出せていない模様で、浅学の私には入手の見通しが立ちません。 取りあえず容易に入手できる経済統計として、この時代の日韓貿易額を見てみたものが右のグラフです。 対日本だけでない韓国の貿易総額も、1898年以降のデータは入手できたので下のグラフに示します。 日清戦争で勢力図が変わった1895年以降、目賀田が韓国政府顧問に就任する前年1903年までの間、日本の輸出、すなわち韓国の輸入は安定して伸びており、8年間で倍増以上になっています。
撮影者はイタリアの外交官 Carlo Rossettiで、1902年11月から翌年5月までソウルに滞在の間撮影した写真を、帰国後 "Corea e Coreani" として出版しています。この写真を復刻した 『꼬레아 에 꼬레아니 = 사진해설판』 (ソウル・하늘제刊、2009年) から引用します。 街路も荒れておらず、市にも人出があり、春窮(端境期に穀物が底をつく事)の時期にも人々がこんなふうにレジャーに時間を割く余裕があってなお 「産業衰頽し、民力疲弊」 の 「経済上に及ぼしたる影響は甚だ深酷を極む」 (目賀田) との評価は具体的にどういうシチュエーションで成り立つのか、想像してみるのも一興かもしれません。 ★ 出ずるを制さなかった日本の財政介入次に、目賀田が乗り込んで日本帝国の財政介入が始まった後、大韓帝国政府の財政がどうなったか見てみましょう。 1905-7年は予算の段階で歳出超過になっていますが、この不足分は日本政府が貸しています(水田、P354)。 一番大きく目立つのは、借金がドカンと増えた事です。1908年度には、歳出の国債費を差し引いてもなお3年前の歳入予算に匹敵するほどの額を借り入れてしまっています。 その借金に相応する分増えた支出は、主に工事費と事業費です。かつて、建設国債や赤字国債をバンバン発行して土木工事に精を出した島国がアジアの東端にあったのを彷彿とさせます。 皇室費も大幅に増えています。王様の官費使い込みを抑制したなら減っているはずですが、そうではなさそうです。 但し、大韓帝国は元々政府会計と皇室会計が別立てであり、政府会計で一括管理する以前の皇室の財務状況が未だに解明されていないので、日本の介入によりどのように変化したかを定量的に示すのは困難です。この点については後述します。 大きく減った歳出項目は軍事費だけで、これは日本が韓国軍を解散させたから。 「歳出その他」の中身は、『土地調査費・国有地調査費・国庫金取扱費・印刷局支出金・測量講習費・臨時財産整理費・帝室債務支払金・駅屯土調査費・課税台帳調製費等』と説明されています(水田、P369)。 黄色の「歳入その他」は、駅屯土からの収入や事業収入です。 こうしてみると、どうも日本が介入して行った「財政改革」は、放漫な支出を締めるような緊縮財政ではなく、事業を展開して財政を拡大させる方針だったように見えます。 但し、日本からの借金漬けで展開していますから、財政を通じて日本の支配下に囲ったとも言えます。現に、日本からの借金を返して国の独立を保とうという民間運動(国債報償運動)が起きています。
日本が介入した1905年以降1909年までの期間に韓国政府が歳出に計上した国債費(=借金返済)の総額は13,147,425円になります(水田、P368より計算)。 メノコ計算ですが、日本の介入後、韓国政府は差し引き約3200万円ほど債務を増やした勘定になります。これは1909年度税収予算の約3倍にあたります。 債務の減少をもって財政再建というなら、日本の介入は韓国政府の財政を再建などしていない事がわかります。 ついでに、韓国政府の歳出の中身も見ておきましょう。
このグラフではっきり判る通り、日本介入前に一番たくさん予算がつぎ込まれていたのは軍事費です。後述する通り歳入不足の厳しい環境下で、1902年を除き大幅増額を続けています。これさえなければ大韓帝国の財政は均衡を保てた筈ですが、なにが韓国政府を軍備増強に駆り立てていたのかは、日露戦争とその後の展開で明らかではないでしょうか。当時の日本がこれを無駄呼ばわりできる筋合いには無いし、軍備費がゼロになったのは日本が韓国の主権を剥奪した結果であって財政改革の成果ではありません。 ★ 税収はもともと増加しつつあった日本の財政介入が歳出を削減してないとすれば、歳入を改善したのでしょうか。次に歳入予算を介入前から連続で見てみます。 日本介入前の韓国政府の歳入は、大半が地税であった事がわかります。 韓国(李氏朝鮮)の税金が物納から金納に切り替わったのは1894年であり、貨幣を基とした予算編成もこの年に始まっています(水田、P340)。日本の地租改正発動が1873年、完了に7年を費やしていますが、韓国はこの時期、21年遅れで同様の大事業に着手していた事になります。 ちょうどこの時期、1898年から「光武量田」と呼ばれる測地事業が行われ、日露開戦までに全国の3分の2の郡で土地調査がなされて地主に地契が発給されている事に留意すべきでしょう。土地所有者を特定して初めて地税を徴収できるので、測地の進展に伴い税収も増えるのが自然の成り行きです。
さて、日本の財政介入は何を改善したのでしょうか。 単にお金を貸し込んだだけでしょうか? 財務管理を近代化したという事でしょうか? ★ 貨幣改革も韓国政府が元々準備していた実はもう一つ、貨幣制度の改定があります。これによって、混乱を極め信用を失っていた韓国の通貨を整備し直したと言うのです。 貨幣制度の改定には3つの要素がありました。 1つめは、皇室の典圜(カン)局を廃止させ、裏づけの乏しい白銅貨の鋳造を止めた事。2つめは、金本位制への切り替え。 最後の1つは、日本の第一銀行による通貨発行の独占です。 まず典圜局の廃止から。裏づけのない通貨の散布は好ましい事ではないので、これを止めた事には意義があるでしょう。 但し、韓国独自で少額硬貨を鋳造できなくなった副作用は見逃せません。典圜局を廃止させる力があったのだから、典圜局を皇室から切り離し正貨準備管理をさせる事もできた筈でしょう。 金本位制は正貨である金の裏づけをもって通貨の価値を担保するので、通貨価値が安定します。 しかし、1905年6月に施行され、韓国通貨を金本位制に切り替えた貨幣条例が発布されたのは、施行より4年も前の1901年(光武5年)2月15日です。 この第1条で政府のみが貨幣を発行する事、第2条で金2分を価格の単位と定める事、第3条で金貨の発行、第8条で私造通貨の通用禁止が規定されています。 つまり、日本の介入で導入された金本位制は、介入のずっと前に韓国政府自身が予定していたものです。 幣制改革の議論が韓国政府内にあり、この為に外国からの借款を打診する動きのあった事は1899年の日本当局の内部資料にも記録があります(『韓国貨幣制度ニ関スル事項調査一件』1899年参照)。また、上記の貨幣条例だけでなく1903年には中央銀行条例も勅令で発布し、国庫の出納と金兌換券発行の独占を定めるなど、具体的準備も進めていました。資金不足と日露戦争で頓挫していたに過ぎません。 では日本のやった事は何だったのか。 通貨切り替えの資金を貸すと共に、韓国から通貨発行の主権を剥奪して日本の円貨に従属させたのが実情です。 目賀田の「韓国貨幣制度整理案」には次のように書かれていました。
つまり、貨幣の信用を確保し価値を安定させるというよりは、日本側の利便のため韓国との為替変動をなくして為替差損を解消すると共に、日本円の一部に組み込むことが目的でした。 貨幣条例の施行から間もない1905年7月、日本は韓国から通貨発行権を剥奪し、日本系の第一銀行に韓国貨幣の発行を独占させています。典圜局を潰したので、補助通貨である少額硬貨も日本の造幣局が鋳造しました(目賀田、P2の42)。 どれだけ韓国の財政や貨幣政策が乱脈を極めていたとしても、通貨発行主権そのものを韓国政府から取り上げて日本の第一銀行に業務を独占させた事までは正当化できません。 大韓帝国北部(現在の北朝鮮)には金鉱が豊富にありました。 材質に額面通りの交換価値がない白銅貨と異なり、正貨である金を自分で掘って貨幣にする分には、金本位制のルールからいささかも逸脱しません。 採掘と鋳造の設備に資本投下さえできれば、後は韓国自前で資金不足なく運用でき慢性的な輸入超過にも対応できたであろう事は、後に日本帝国が1930年代に朝鮮で掘り出し持ち出した金(きん)の量(右グラフ参照)を考えれば自明です。 1909年には日韓合弁の韓国銀行を中央銀行として設立し、通貨発行権を戻しています。 ★皇帝は浪費家だったのかこのように見ていくと、大韓帝国の財政は当時の日本当局が喧伝したほど破滅的とは言えません。では、どこから放漫財政だの貨幣紊乱だのといった話が出てくるのか。 その大きな理由として、皇室財政が政府財政とは別に動いており、鉱山や紅参専売・商社などの自前事業を擁し政府財政と肩を並べていたのではと疑われるほどの独自財源を抱えこみ、白銅貨の発行も行っていた点を挙げられます。大韓帝国の財政は、事実上政府と皇室の二本立てと言ってよい状態でした。 そして、この皇室財政の全貌は今日もなお明らかになっておらず、よって意味づけも定まっていません。 皇室が民間からの借金を踏み倒して貸し手を疲弊させたとか、法事に大枚をはたいたとか豪華な宴を重ねたといった部分的な話は見つけることができます。浪費が無かった訳ではないでしょう。 しかし、問題はあくまでも国民経済への定量的な影響です。更に、日本の介入がそれをどれだけ削減したか、数字を見ないと財政介入の評価はできません。
学界ですら解明していない事柄を決めつけるのは、論理的とは言えません。 皇室財政については、学界が実態を解明するまで評価を保留するのが正しい姿勢だと言えるでしょう。もし全貌がわからない現時点で韓国皇室の浪費云々を経済混乱の原因として断言する人があるなら、具体的にいくらの浪費がなされ、それがどのようにどれだけ経済指標を低下させたか、日本の財政介入でいくら改善されたか、数字を出していただくと良いのではないかと思います。 ★さいごに大局的には、19世紀末から20世紀初めにかけての李氏朝鮮~大韓帝国はそれまでの東洋的絶対君主制から西洋的近代世界に放り出される過程にありました。当時の西洋的近代世界には、科学技術の産物だけではなく、帝国主義や植民地、自由放任経済が生み出す貧困や搾取など、闇の面も少なからずありました。 日本より四半世紀遅れて、そんな近代に門戸を開けさせられた大韓帝国には、税金を金納に切り替えてから目賀田顧問がやってくるまでたった10年の時間しかなかったのです。日本がケチをつけようと思えばいくらでもつけられた事でしょうが、それは開国が四半世紀遅れたハンディキャップを説明はしても、「停滞」 の証拠にはなりません。目賀田顧問就任の25年前といえば、日本だって憲法制定を済ませていなかったし議会もなかったのです。 皇室が陵墓や墓参に散財するのは、西洋的近代の価値観からは無駄遣いに映るかもしれませんが、東学農民戦争で揺らいだ絶対君主制の求心力を維持するには必要だったのかもしれません。 そんな苦境の中、皇帝が国の全てを所有するという観念をひきずったままとは言え、韓国がなんとか自力近代化を試みようとした痕跡はあちこちに見出す事ができます。大韓帝国に資金があったら自力近代化はもっと進んでいたのではないかとも想定できます。 韓国の経済・通貨は崩壊していたと言わんばかりの物言いには誇張や間違いがある事、金本位制も税収増も大韓帝国が自ら進めていた事、財政は日本の介入後かえって膨張した事は上に見てきた通りです。これらを差し引いて、日本の財政介入はいったい何にどう貢献したのか、余計な干渉はなかったのか、整理して考えるべきではないでしょうか。 ※注: 当時の大韓帝国では白銅貨のほかに葉銭と呼ばれる昔ながらの銅貨が流通していました。両者の流通地域は分かれており、釜山は葉銭の地域だったので、釜山の日本領事館の報告には白銅貨の姿を見ないなどと書かれています。こちらも金本位制の導入により、白銅貨の後を追って消滅していきました。 『データで見る植民地朝鮮史』トップへ 植民地期の年表を見る ツイート |