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日本の財政介入は大韓帝国を救ったか

 
大韓帝国が財政も通貨も破綻状態だった所に日本帝国が乗り込んで改革をしたという言説があります。本当でしょうか。

まとめ

① 韓国通貨(白銅貨)の金貨に対する為替下落は最大6割。うち財政や貨幣政策に起因する下落は4割が上限
② 韓国の財政が苦しかったのは事実だが、日本が介入する前の約8年で徐々に改善していた。介入前の最大の歳出先は軍部
③ 1905年の金本位制導入による貨幣改革は韓国が元々準備していた
④ 日本が韓国の通貨発行権を剥奪したのは余計な主権侵害で、正当化できない
⑤ 日本は韓国に大借金を背負わせ、財政を3倍に拡張した。赤字財政の解消はしていない

⑥ 大韓帝国の皇室財政がどの程度放漫で、どの程度経済に影響を及ぼしたかは学界でも解明されておらず断定できない


 『由来、韓国財政の如く紊乱を極めたるもの其の例少なく、ただ収斂に亞ぐに収斂を以てし、産業衰頽し、民力疲弊し、終に国力の振はざる今日の如きに至れり。
 而してその原因たるや、上下官民を通じ国家に対する誠意の欠乏に在るは言を俟たずといえども、これら社会的原因を除き専ら財政制度上不備なりし主要なる原因を数ふれば (一)貨幣の紊乱 (二)宮中および府中の混同 (三)歳出の濫発および歳入機関の不整頓なり』
 (目賀田種太郎『韓国財政整理報告』(1905年12月)P1の1)
 『貨幣の信用は殆んど地に落ち、物価の変動極まりなく、これがため財政および経済上に及ぼしたる影響は甚だ深酷を極む』(同、P2の1)

 これは日本帝国が1904年大韓帝国に送り込んだ財政顧問・目賀田種太郎なる人物の報告書です。
 やー、すごい言い様ですね。韓国財政は乱れまくりで、産業も民力もペシャンコ。原因は通貨が無茶苦茶な状態で、王室が財政を私物化、政府予算の管理もなってないと言っています。

 朝鮮総督府の財務官僚一筋に生き、戦後は東海大学教授、学習院監事を勤めた水田直昌氏もこう書いています。
 『当時は貨幣の価値が朝夕に激変する状態にあったので、(引用者註:政府予算は)実行性のない架空な数字の羅列に過ぎなかった』 (水田直昌『李朝時代の財政』友邦協会、1968年、P340)

 この言い分は今日に至るまで方々で受け継がれ、朝鮮停滞論の基盤を構成し、財政介入や植民地支配の正当化に用いられています。
 さて、本当にそうなのでしょうか。


★ 「貨幣紊乱」 の程度は最大で4割の評価減止まり


 大韓帝国時代の通貨の状況、貨幣乱発の度合いを占う指標として、為替レートを見てみましょう。
 当時の韓国の主力貨幣だった白銅貨の「乱高下」がどれほどだったか、日本帝国の資料で数字を確かめてみると下グラフの通りです。


 貨幣信用が地に落ちとかはさすがに極端、貨幣の交換機能を失うほどひどくないじゃないですか。これ位の為替変動なら、現代の変動相場制でも時々見られます。最近でも「黒田バズーカ」と称して、中央銀行の金融緩和により2012年秋の1USドル=80円から一気に100円へ、更に125円まで通貨安誘導した島国がアジアの東端にあったのは記憶に新しい所です。
 まして、財政破綻した国のように1年で通貨が何百分の1にも暴落するような代物ではありませんでした。

 1898年に比べて最大で6割ほど価値が低下していますが、1903年の下落は通貨起因ではありません。1902年までの下落を全て通貨の質あるいは放漫財政起因と仮定しても、これらに起因する通貨下落の幅は5年で4割でした。これが、目賀田や水田氏がくさす韓国財政の諸々が引き起こした影響の上限ということになります。

【詳細:白銅貨起因の下落が最大4割とする根拠】

 為替下落幅6割のうち白銅貨起因は4割、とする根拠は、当時の日本政府のレポートです。
 以下の史料は、1904年(明治37)2月17日にソウル駐在の領事・三増久米吉が小村寿太郎外相に送った報告『韓国白銅貨価格変動ノ原因』の後半の部分です。■は、私には判読できない箇所。
 かくの如く、真贋相混して市場に溢出せる結果、白銅貨は漸々低■に傾きつつありたる折柄、34年(引用者註:1901年)の秋頃より35年(同:1902年)にわたり同貨の■造■■密輸入する者夥しく、これがため同貨の供給は益々過多となり、随てその交換価格は一層低■に傾きたり。
 是を■て35年(同:1902年)1月、各国使臣会議を開き、韓廷に警告して暫時白銅貨の鋳造を停止せしめ、かつ既鋳の分はその発行を見合はさしめ、一方に於ては外国よりの密輸入の防遏に務めたり
 我邦に於てもまた35年(同:1902年)11月8日勅令第256号(同:『韓国通用白銅貨の偽造変造取締に関する件』)を発布し、その翌年4月13日更に勅令第73号(同:『外国通用の貨幣、紙幣又は銀行券の偽造変造取締に関する件』)を発して、本貨の偽造変造に関する取締を厳密に行って至れり
 以上の如き取締の結果として、36年(同:1903年)4月頃より本貨の収拾は稍々■直しの気味を現はし来たり
 白銅貨の”乱発”や偽造の問題は、1903年4月には収拾していたとあります。日本国内の勅令で偽造に対処しているのは、日本国内でも偽造されていたからです。指摘されている1901年秋~1903年春の白銅貨下落の幅は日本円に対してだいたい2割程度、1898年から数えれば4割程度で、これがこの年までの「乱発・偽造」が為替に与えた影響の最大値という事になります。

 その後、この年の後半さらに白銅貨は大きく値下がりしていますが、その原因を三増領事は以下のように分析しています。
 その間、多少の昂落は免かれざりしが、■■■36年(引用者註:1903年)8月頃までは概して順調を保ち来たれり
 しかるに、同月下旬より9月に亘りにわかに乱調となり、暴落に暴落を重ね、実に第一表に示すが如き趨勢に傾き足り
 その原因左の如し
輸出入貿易の関係
一、 京仁間に於ける清国商人が、■■■■■■■輸入先へ輸入品の代金支払のため貯蔵せる韓貨を一時に放出して、日貨(引用者註:日本の通貨)と交換せること
二、 韓廷が安南米その他購入物件の代金支払のため韓貨を放買して日貨に交換せること
三、 仁川に於ける本邦商人が輸出の目的を以て米穀を貯蔵しありたるに、本邦に於ける本年の米作が稀有の豊穣を呈すべきを予想し、輸出の利なきを見■めて、これを韓人に放買して得たる韓貨を日貨に交換せること
日露交渉問題より醸生せる心的作用
韓廷が中央銀行開設後、現行白銅貨の通用を廃止し、時価に拠り之が引換を行ふならんとの疑惑
 以上の諸因■乱高下の主因として、観るべきものは乙因にして、彼の満■に於ける露西第三期の撤兵期日、日一日近寄りつつありにも拘らず、毫も実行の■■なきのみならず、反て益々増兵の■さへ■■し、かつ時局益々切迫の飛電屢々到れるに由り、京仁間の内外人は一般に日露衝突の到底避くべからざるを想像し、一■兵■■交ゆるに至れば日貨を■■するを以て最も安全なりと為し、韓貨を有する者は争って之を日貨と交換せんとし、日貨を有する者は成るべく之が放出を避け徒々風雲を観望し居れり
 斯くの如くにして、日貨の暴騰を喚起し来たりたる折柄、10月に入り一時の風説突然生じ来れり。曰く
「中央銀行は愈々近き将来に於て開設せられんとす、而して之が開設と同時に韓廷は現行白銅貨の通用を廃し、その時価を以て新貨と交換せんとす、此の目的を以て今より韓貨の■■を暴■せしめんがため、密かに手を回はして、日貨の買収を為し居れりと」
 此の風説■■人をして日露問題よりも尚一層の恐怖心を生せしめ、之が為め益々日貨の需用を惹起するに至れり

 つまり、この時期の通貨下落の原因は経済活動による需給(特に、日本の米商人の見込み違いによる米在庫の売却)と、日露戦争の心配、貨幣改革(金本位制)に係わる疑心暗鬼の3つです。白銅貨そのものに責任はありません。

 ちなみに、建前だけとは言え当時の韓国は銀本位制だったので、銀の価値が落ちた分を更に差し引いて考える事もできなくはありません。
 1898年に英貨(金)2シリング11ペンス※だった銀価は、1903年1月には2シリング5ペンスまで約17%下落しています。
(濱下武志 『中国近代経済史研究』 汲古書院、1989年 P136) ※当時の英貨は1ポンド=20シリング=240ペンス


★民力は疲弊していたのか


 これも指標になるような具体的な数字が欲しい所ですが、学会でもインフレ率を推定でしか出せていない模様で、浅学の私には入手の見通しが立ちません。

 取りあえず容易に入手できる経済統計として、この時代の日韓貿易額を見てみたものが右のグラフです。
 対日本だけでない韓国の貿易総額も、1898年以降のデータは入手できたので下のグラフに示します。

 日清戦争で勢力図が変わった1895年以降、目賀田が韓国政府顧問に就任する前年1903年までの間、日本の輸出、すなわち韓国の輸入は安定して伸びており、8年間で倍増以上になっています。
 韓国の輸入全体も、1900年以降は概ね大幅上昇を続けています。これは、韓国の輸入購買力が落ちるほど不景気になっていなかった事を示唆しています。
 輸出はこれほど伸びてはいませんが、1898-99年を除き落ち込んでもいません。

 1904年以降は、日露戦争に伴う鉄道建設資材など軍需物資の輸入、日本の韓国支配確立、これに伴う韓国政府への巨額の資金貸与(後述)等の事件がありました。
 いわば他人の財布と借金で貿易赤字をたれ流せる状況に変わっており、輸入額が通常の経済活動で得た購買力を表すとは言えないので、韓国国内の経済状況を推し量る材料としてのデータの連続性はここで一応切れています。
 ストレートな数字を出せない埋め合わせに、当時の様子のせめてイメージだけでもつかめればという事で、日露開戦前のソウルの写真をご紹介しておきます(1枚だけ大邱)。
 撮影者はイタリアの外交官 Carlo Rossettiで、1902年11月から翌年5月までソウルに滞在の間撮影した写真を、帰国後 "Corea e Coreani" として出版しています。この写真を復刻した 『꼬레아 에 꼬레아니 = 사진해설판』 (ソウル・하늘제刊、2009年) から引用します。




 


 街路も荒れておらず、市にも人出があり、春窮(端境期に穀物が底をつく事)の時期にも人々がこんなふうにレジャーに時間を割く余裕があってなお 「産業衰頽し、民力疲弊」 の 「経済上に及ぼしたる影響は甚だ深酷を極む」 (目賀田) との評価は具体的にどういうシチュエーションで成り立つのか、想像してみるのも一興かもしれません。


★ 出ずるを制さなかった日本の財政介入


 次に、目賀田が乗り込んで日本帝国の財政介入が始まった後、大韓帝国政府の財政がどうなったか見てみましょう。


 1905-7年は予算の段階で歳出超過になっていますが、この不足分は日本政府が貸しています(水田、P354)

 一番大きく目立つのは、借金がドカンと増えた事です。1908年度には、歳出の国債費を差し引いてもなお3年前の歳入予算に匹敵するほどの額を借り入れてしまっています。
 その借金に相応する分増えた支出は、主に工事費と事業費です。かつて、建設国債や赤字国債をバンバン発行して土木工事に精を出した島国がアジアの東端にあったのを彷彿とさせます。

 皇室費も大幅に増えています。王様の官費使い込みを抑制したなら減っているはずですが、そうではなさそうです。
 但し、大韓帝国は元々政府会計と皇室会計が別立てであり、政府会計で一括管理する以前の皇室の財務状況が未だに解明されていないので、日本の介入によりどのように変化したかを定量的に示すのは困難です。この点については後述します。

 大きく減った歳出項目は軍事費だけで、これは日本が韓国軍を解散させたから。
 「歳出その他」の中身は、『土地調査費・国有地調査費・国庫金取扱費・印刷局支出金・測量講習費・臨時財産整理費・帝室債務支払金・駅屯土調査費・課税台帳調製費等』と説明されています(水田、P369)
 黄色の「歳入その他」は、駅屯土からの収入や事業収入です。

 こうしてみると、どうも日本が介入して行った「財政改革」は、放漫な支出を締めるような緊縮財政ではなく事業を展開して財政を拡大させる方針だったように見えます。
 但し、日本からの借金漬けで展開していますから、財政を通じて日本の支配下に囲ったとも言えます。現に、日本からの借金を返して国の独立を保とうという民間運動(国債報償運動)が起きています。

 で、韓国併合時に残されていた政府債務が右の表です。

 起債年月がすべて目賀田種太郎の財政顧問就任以後になっていますが、これはそれ以前の債務の借り換えも含んでいたものと思われます。
 国債費が1904年以前の予算にも組まれており、日本の介入以前にも債務があった事は確かですが、介入後に債務が増えたのは間違いありません。

 日本が介入した1905年以降1909年までの期間に韓国政府が歳出に計上した国債費(=借金返済)の総額は13,147,425円になります(水田、P368より計算)
 メノコ計算ですが、日本の介入後、韓国政府は差し引き約3200万円ほど債務を増やした勘定になります。これは1909年度税収予算の約3倍にあたります。
 債務の減少をもって財政再建というなら、日本の介入は韓国政府の財政を再建などしていない事がわかります。

 ついでに、韓国政府の歳出の中身も見ておきましょう。

 左は歳出予算の変化を所轄別に日本介入前から追ったものです。
 歳出が予算通りに執行されたかどうか不確かなのですが、韓国政府の意図を知るうえでは参考になります。
 省庁別の区分なので使途が判り難いですが、内部は内務行政、外部は外務省、度支部は財務です。
 度支部の支出には国債費が含まれます。

 日本の介入が始まってから大きく削られたのは軍部の予算です。
 韓国軍は1907年にごく一部を残して解散させられていますが、予算にもこの動きが反映されています。
 ほか、外部の予算が1906年に消滅しています。日本が外交権を取り上げたためです。

 他の大きな支出項目は、概ね削られていないどころか、日本介入以降大幅に増額されています。

 このグラフではっきり判る通り、日本介入前に一番たくさん予算がつぎ込まれていたのは軍事費です。後述する通り歳入不足の厳しい環境下で、1902年を除き大幅増額を続けています。これさえなければ大韓帝国の財政は均衡を保てた筈ですが、なにが韓国政府を軍備増強に駆り立てていたのかは、日露戦争とその後の展開で明らかではないでしょうか。当時の日本がこれを無駄呼ばわりできる筋合いには無いし、軍備費がゼロになったのは日本が韓国の主権を剥奪した結果であって財政改革の成果ではありません。


★ 税収はもともと増加しつつあった


 日本の財政介入が歳出を削減してないとすれば、歳入を改善したのでしょうか。次に歳入予算を介入前から連続で見てみます。


 日本介入前の韓国政府の歳入は、大半が地税であった事がわかります。
 韓国(李氏朝鮮)の税金が物納から金納に切り替わったのは1894年であり、貨幣を基とした予算編成もこの年に始まっています(水田、P340)。日本の地租改正発動が1873年、完了に7年を費やしていますが、韓国はこの時期、21年遅れで同様の大事業に着手していた事になります。
 ちょうどこの時期、1898年から「光武量田」と呼ばれる測地事業が行われ、日露開戦までに全国の3分の2の郡で土地調査がなされて地主に地契が発給されている事に留意すべきでしょう。土地所有者を特定して初めて地税を徴収できるので、測地の進展に伴い税収も増えるのが自然の成り行きです。

 実は日本介入前のこの時期、税収は歳入予算の概ね8割弱しか上がっていませんでした。
 しかし、予算・実績いずれを取っても、この時期は歳入をざっくり3~5倍伸ばしています。

 同期間の韓国貨幣が日本貨幣に対して約半分に値を落としていますが、この分が全てインフレだったとしてもなお、韓国政府は自力で歳入を伸ばしていた事になります。目賀田の言う財政縮小は嘘でした。
 税目別に歳入の伸びを見たのが下のグラフです。
 前年度所属収入(既往年度所属収入)は、当年度より以前に支払われるべき税金を当年度収納する事で上がる税収です。
 要は税金の未収も予算化されていたという事です。

 日本政府の介入が歳入を劇的に改善したというためには、日本介入期の決算を見ないといけませんが、あいにくその時期の歳入決算データを持ち合わせていません。
 また、上グラフに見るように歳入が歳出予算に全く足りておらず、歳入が欠損したまま歳出予算だけフルに執行すると当然赤字になりますが、歳出実績のデータがないのでこれもここでは論じられません。
 ひとつ確実に言えるのは、韓国が主権をもって財政を執行していた時期にも歳入の増加はあったという事です。

 さて、日本の財政介入は何を改善したのでしょうか。
 単にお金を貸し込んだだけでしょうか? 財務管理を近代化したという事でしょうか?


★ 貨幣改革も韓国政府が元々準備していた


 実はもう一つ、貨幣制度の改定があります。これによって、混乱を極め信用を失っていた韓国の通貨を整備し直したと言うのです。

 貨幣制度の改定には3つの要素がありました。
 1つめは、皇室の典圜(カン)局を廃止させ、裏づけの乏しい白銅貨の鋳造を止めた事。2つめは、金本位制への切り替え。
 最後の1つは、日本の第一銀行による通貨発行の独占です。

 まず典圜局の廃止から。裏づけのない通貨の散布は好ましい事ではないので、これを止めた事には意義があるでしょう。
 但し、韓国独自で少額硬貨を鋳造できなくなった副作用は見逃せません。典圜局を廃止させる力があったのだから、典圜局を皇室から切り離し正貨準備管理をさせる事もできた筈でしょう。

 金本位制は正貨である金の裏づけをもって通貨の価値を担保するので、通貨価値が安定します。
 しかし、1905年6月に施行され、韓国通貨を金本位制に切り替えた貨幣条例が発布されたのは、施行より4年も前の1901年(光武5年)2月15日です。
 この第1条で政府のみが貨幣を発行する事、第2条で金2分を価格の単位と定める事、第3条で金貨の発行、第8条で私造通貨の通用禁止が規定されています。
 つまり、日本の介入で導入された金本位制は、介入のずっと前に韓国政府自身が予定していたものです。

 幣制改革の議論が韓国政府内にあり、この為に外国からの借款を打診する動きのあった事は1899年の日本当局の内部資料にも記録があります『韓国貨幣制度ニ関スル事項調査一件』1899年参照)。また、上記の貨幣条例だけでなく1903年には中央銀行条例も勅令で発布し、国庫の出納と金兌換券発行の独占を定めるなど、具体的準備も進めていました。資金不足と日露戦争で頓挫していたに過ぎません。

 では日本のやった事は何だったのか。
 通貨切り替えの資金を貸すと共に、韓国から通貨発行の主権を剥奪して日本の円貨に従属させたのが実情です。

 目賀田の「韓国貨幣制度整理案」には次のように書かれていました。
(一) 韓国の通常上および交通上最も近接するものは日本国なり 故に韓国貨幣の本位は之れを日本と同一に為すこと
(二) 韓国貨幣制度の整否に最も利害の関係を有するものは亦日本国なりとす 故に韓国政府は日本政府もしくは日本政府の保証を以て資金を借入るること
この二点より左の方策を以て最も適当なりとす
一、 韓国貨幣の基礎および発行貨幣を全然日本と同一にすること
二、 韓国貨幣制度と同一なる日本貨幣の流通を認むること
三、 本位貨幣ならびに兌換券は日本のものを以てすること もしくは日本兌換券を準備として日本政府の監督および保証を以てする銀行券とすること
四、 補助貨幣はすべて韓国政府において発行すること
目賀田種太郎『韓国財政整理報告』(1905年12月)P2の3

 つまり、貨幣の信用を確保し価値を安定させるというよりは、日本側の利便のため韓国との為替変動をなくして為替差損を解消すると共に、日本円の一部に組み込むことが目的でした。
 貨幣条例の施行から間もない1905年7月、日本は韓国から通貨発行権を剥奪し、日本系の第一銀行に韓国貨幣の発行を独占させています。典圜局を潰したので、補助通貨である少額硬貨も日本の造幣局が鋳造しました(目賀田、P2の42)

 どれだけ韓国の財政や貨幣政策が乱脈を極めていたとしても、通貨発行主権そのものを韓国政府から取り上げて日本の第一銀行に業務を独占させた事までは正当化できません。

 大韓帝国北部(現在の北朝鮮)には金鉱が豊富にありました。
 材質に額面通りの交換価値がない白銅貨と異なり、正貨である金を自分で掘って貨幣にする分には、金本位制のルールからいささかも逸脱しません。
 採掘と鋳造の設備に資本投下さえできれば、後は韓国自前で資金不足なく運用でき慢性的な輸入超過にも対応できたであろう事は、後に日本帝国が1930年代に朝鮮で掘り出し持ち出した金(きん)の量(右グラフ参照)を考えれば自明です。

 1909年には日韓合弁の韓国銀行を中央銀行として設立し、通貨発行権を戻しています。


★皇帝は浪費家だったのか


 このように見ていくと、大韓帝国の財政は当時の日本当局が喧伝したほど破滅的とは言えません。では、どこから放漫財政だの貨幣紊乱だのといった話が出てくるのか。
 その大きな理由として、皇室財政が政府財政とは別に動いており、鉱山や紅参専売・商社などの自前事業を擁し政府財政と肩を並べていたのではと疑われるほどの独自財源を抱えこみ、白銅貨の発行も行っていた点を挙げられます。大韓帝国の財政は、事実上政府と皇室の二本立てと言ってよい状態でした。
 そして、この皇室財政の全貌は今日もなお明らかになっておらず、よって意味づけも定まっていません

 皇室が民間からの借金を踏み倒して貸し手を疲弊させたとか、法事に大枚をはたいたとか豪華な宴を重ねたといった部分的な話は見つけることができます。浪費が無かった訳ではないでしょう。
 しかし、問題はあくまでも国民経済への定量的な影響です。更に、日本の介入がそれをどれだけ削減したか、数字を見ないと財政介入の評価はできません

1909年に完成した洋風王宮、徳寿宮石造殿。英国式庭園をはさんで左写真の建物が西、右写真の建物が北にあり、廊下でつながっている。日本は財政介入後も工事を止めなかった

 また、皇室は 『実際に光武年間に高宗は各種の銀行設立、貨幣改革準備、鉄道敷設などに頻繁に内帑金を下賜』 (徐栄姫(1990)──趙映俊の下記著述P57より孫引き) していたと指摘されるように、諸外国からの借款を日本に妨害されながら近代化投資にも支出していました。

 この時期には合弁電力会社の開業(1898年)と市電の開通、市外電話の供用開始(1902年)、医学校や外国語学校など学校の設置、ソウルの街路整備、京義鉄道の起工式(1902年)など、多くの近代化事業が始められています。
 相当な資金を投入した筈ですが、インフラ投資イコール乱費ではありません。民衆の生活に見返りがある性質のものです。

 国の近代化のために無理にお金をかき集めていたなら、例え民間経済を疲弊させたのが事実としても一概に非難できません。皇室の収入と出費双方の全貌が判らない限り、この点について結論を出すことはできません。
 そして、学界でもこの全貌を解明するに至っていないのが現状です。
さて、そのような財源を含んだ皇室財政の全体規模はどの程度であり、国家財政における皇室費の比重との比較が可能なのか、といったことについては論議されたことがない。…(中略)…つまり、既存の研究では一部の帳簿を通じて復元できる情報だけが概略的に活用される水準にとどまったのであるが、今後はより積極的に資料活用を通じて立体的な再構成が必要であり、また可能であるのである。
趙映俊 『大韓帝国期の皇室財政研究の現況と展望』 東京大学出版会 「大韓帝国の保護と併合」 (2013) 収録、P63
現在まで皇室財政に関する研究は、主に宮内府と内蔵院の財政を対象にしてきた。とくに内蔵院財政の実態が実証的かつ詳細に明らかになった(…出典略…)。しかし、皇室財政の他の部分である官房と別庫財政の実態がほとんど明らかにされておらず、皇室財政の全貌は依然不透明な状態だといえる。
李栄薫 『大韓帝国期皇室財政の基礎と性格』 東京大学出版会 「大韓帝国の保護と併合」 (2013) 収録、P71-72
ある資料にある数値が載っているとき、それが持つ意味を正確に把握するためには膨大な関連資料との連関性を理解しなければ、その数値の意味を付与することができないのである。その作業を遂行した後に、次のような質問に対する答えを再び行うことができる。近代化政策、産業化政策というものは誰のための、何のための政策であったのか? その費用を継続して負担させながら長期的な危機状況を打開する能力をもたなかったのは皇帝と政府の能力不在のためであったのか? そうでなければ体制上の問題なのか? それともその程度では最善を尽くしたのか? このような疑問点に対し答える過程で大韓帝国期の財政の「近代的公共性」に関する根本的な再確認がなされ、大韓帝国と「光武改革」が韓日併合の歴史的性格をどのように規定したのか判断ないし評価することができるのである。
趙映俊、同上 P66

 学界ですら解明していない事柄を決めつけるのは、論理的とは言えません。
 皇室財政については、学界が実態を解明するまで評価を保留するのが正しい姿勢だと言えるでしょう。もし全貌がわからない現時点で韓国皇室の浪費云々を経済混乱の原因として断言する人があるなら、具体的にいくらの浪費がなされ、それがどのようにどれだけ経済指標を低下させたか、日本の財政介入でいくら改善されたか、数字を出していただくと良いのではないかと思います。


★さいごに


 大局的には、19世紀末から20世紀初めにかけての李氏朝鮮~大韓帝国はそれまでの東洋的絶対君主制から西洋的近代世界に放り出される過程にありました。当時の西洋的近代世界には、科学技術の産物だけではなく、帝国主義や植民地、自由放任経済が生み出す貧困や搾取など、闇の面も少なからずありました。
 日本より四半世紀遅れて、そんな近代に門戸を開けさせられた大韓帝国には、税金を金納に切り替えてから目賀田顧問がやってくるまでたった10年の時間しかなかったのです。日本がケチをつけようと思えばいくらでもつけられた事でしょうが、それは開国が四半世紀遅れたハンディキャップを説明はしても、「停滞」 の証拠にはなりません。目賀田顧問就任の25年前といえば、日本だって憲法制定を済ませていなかったし議会もなかったのです。

 皇室が陵墓や墓参に散財するのは、西洋的近代の価値観からは無駄遣いに映るかもしれませんが、東学農民戦争で揺らいだ絶対君主制の求心力を維持するには必要だったのかもしれません。
 そんな苦境の中、皇帝が国の全てを所有するという観念をひきずったままとは言え、韓国がなんとか自力近代化を試みようとした痕跡はあちこちに見出す事ができます。大韓帝国に資金があったら自力近代化はもっと進んでいたのではないかとも想定できます。

 韓国の経済・通貨は崩壊していたと言わんばかりの物言いには誇張や間違いがある事、金本位制も税収増も大韓帝国が自ら進めていた事、財政は日本の介入後かえって膨張した事は上に見てきた通りです。これらを差し引いて、日本の財政介入はいったい何にどう貢献したのか、余計な干渉はなかったのか、整理して考えるべきではないでしょうか。



※注: 当時の大韓帝国では白銅貨のほかに葉銭と呼ばれる昔ながらの銅貨が流通していました。両者の流通地域は分かれており、釜山は葉銭の地域だったので、釜山の日本領事館の報告には白銅貨の姿を見ないなどと書かれています。こちらも金本位制の導入により、白銅貨の後を追って消滅していきました。



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