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八紘一宇とは何か



 

要点:

(1) 「八紘一宇」 は、日本帝国がアジア太平洋戦争を起こすにあたり、その根本理念に位置づけたもの
(2) 意味は 「天皇を崇めさせ日本帝国を支配者として同化を強いる家父長的世界征服」
(3) いちど公式に定め、歴史上の大事件において広く用いられたこの意味づけを、無力化できる材料はない 

 


 日中戦争からアジア太平洋戦争にわたり喧伝されたスローガンの一つが「八紘一宇」(はっこういちう)です。
 1940年には皇紀2600年記念と称して、日本全国や朝鮮などからも石材を集めて、宮崎に「八紘一宇の塔」なる記念物を建てたりもしました。なんとも無神経なことに、この塔は戦後も解体されず現存しています

 開戦に至る政府中枢の内部文書にも出てきます。肇国とは建国の事です。
一、根本方針
皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし、先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り
基本国策要綱 1940年7月26日閣議決定
大義を八紘に宣揚し、坤輿(こんよ:地球、大地の意)を一宇たらしむるは実に皇祖皇宗の大訓にして、朕が夙夜巻々措かざる所なり
…政府に命じて帝国とその意図を同じくする独伊両国との提攜協力を議せしめ、茲に三国間に於ける条約の成立を見たるは、朕の深く懌(よろこ)ぶ所なり
日独伊三国軍事同盟締結に関する詔書(1940年9月27日)

 戦後は軍国主義と戦争を煽った言葉として、独立回復後もなんとなく封印されました。
 自民党の右派の大物にして、戦争中は海軍主計将校として実戦も経験した中曽根康弘は、首相時代に次のように答弁しています。

要するに孤立化を防ぐ、一番大事な仕事である。世界の常識の線を日本も歩んでいく必要があると。
 戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった。
 戦後再びそういう危険性を冒していないだろうか、そういうことを申し上げたかったのでございます。
参議院会議録 1983年1月29日本会議 中曽根康弘首相発言より



 このように、戦争推進と正当化のためのスローガンとして手垢のねっとりついた言葉だと記憶されてきましたが、安倍政権になってペナルティボックスからひっぱり出そうとした議員が居ます。
 自民党の三原じゅん子議員が参議院で、「八紘一宇は建国以来の日本の大事な価値観であり、この理念の下に国際社会に働きかけをすべき」だと発言しています。以下がその問題発言の議事録原文です。

○三原じゅん子君 ありがとうございます。
 私は、そもそもこの租税回避問題というのは、その背景にあるグローバル資本主義の光と影の影の部分にもう私たちは目を背け続けるのはできないのではないかと、そこまで来ているのではないかと思えてなりません。
 そこで、今日、皆様方に御紹介したいのが、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に、天の下覆いて家となさむとおっしゃったことに由来する言葉です。
 今日、皆様方のお手元には資料を配付させていただいておりますが、改めて御紹介をさせていただきたいと思います。これ、昭和十三年に書かれた「建國」という書物でございます。
 八紘一宇とは、世界が一家族のようにむつみ合うこと。一宇、すなわち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強い者が弱い者のために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族を虐げている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度ができたとき、初めて世界は平和になるということでございます。
 これは戦前に書かれたものでありますけれども、この八紘一宇という根本原理の中に現在のグローバル資本主義の中で日本がどう立ち振る舞うべきかというのが示されているのだと私は思えてならないんです。
 麻生大臣、この考えに対していかがお考えになられますでしょうか。
○三原じゅん子君  総理、ここで私は八紘一宇の理念というものが大事ではないかと思います。税のゆがみは国家のゆがみどころか世界のゆがみにつながっております。この八紘一宇の理念の下に世界が一つの家族のようにむつみ合い助け合えるように、そんな経済及び税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものを安倍総理こそがイニシアチブを取って世界中に提案していくべきだと思うんですが、いかがでしょうか。
参議院会議録 予算委員会2015年3月16日より当該発言全文を複写
 

 この時は、麻生、安倍両大臣ともにはっきり否定しない答弁でお茶を濁していますが、歴史を知る人から少なからぬ批判が起こりました。
 質問した当の三原じゅん子は、雑誌のWebサイトで以下のように開き直り、あろうことか2.26事件まで擁護し出す始末です。
…「八紘一宇」は二・二六事件の「蹶起趣意書」にも記載されていたために、軍事クーデターの原因となったとみなされがちですが、この事件が勃発するきっかけになったのも、農村の貧困問題でした。特に東北で長年農業恐慌が続いたことに加え、1931年と1934年に大凶作が起こり、少女の身売りや欠食児童問題が深刻になりました。
これらを見ると、多くの人々が困窮して国が疲弊している時こそ「八紘一宇」の重要性が叫ばれていたという歴史的事実が浮かび上がります。「八紘一宇」は混乱の時代にあって、人々を救済するスローガンだったと思うのです。
(中略)
私の質問に対して答弁に立った麻生太郎財務相が「この言葉を知っている人、手を挙げて」と呼びかけても、2名ほどしか手を挙げませんでした。「八紘一宇」はすでに忘れられた言葉なのです。
だからこそ私はこの言葉に本来の意味を吹き込み、古来より日本が持っていた「和」の美徳をもういちど蘇らせたい。今年12月にはBEPSプロジェクトの取り組みについてとりまとめが行われるとことなので、この日本の建国の思いを是非とも世界に伝えるべきではないかと安倍晋三首相に申し上げたのです。
『だから私は「八紘一宇」という言葉を使った』東洋経済オンライン 2015年4月5日

 由来が忘れられているのをいいことに、「日本人の知らない歴史の真実ジャーン!」をここでもやるつもりなのでしょう。
 こうやって、1秒に1ミリずつ隣の女子高生ににじり寄る痴漢よろしく、なし崩しに戦前の軍国主義を正当化されたのではたまりません。

 そもそも「八紘一宇」が建国以来の理念という主張そのものがウソです。この言葉は 「周知のとおり、日蓮宗系国粋主義団体国柱会の創始者田中智学(巴之助)が、著書 『日本国体の研究』 (1922年) において提示した造語にほかならない」 (北條勝貴「〈八紘〉概念と自民族中心主義」 歴史評論2016年2月号、P76) という代物です。

 そこで、当時の日本帝国政府が「八紘一宇」をどのような意味で使っていたのか、改めて確認することにします。
 以下の史料は内閣情報部が1939年に配布した『八紘一宇の精神』 という資料です。政府の、それも内閣が発行しているので、これが当時の政府見解だと考えられます。

一 今日の精神 (全文)
   天皇の御軍隊の赴くところ、威と恵と並び行はれて、支那幾億の民庶は今や皇軍の被護の下に蘇りつつある。而して「抗日救国」の標語の下に、四億の民生を死の絶望に突き落して省みない国民政府が、皇軍の膺懲の剣に破られて奥地に遁竄した後に、日本を親とも兄とも信頼しつつ、民生を率ゐて立ち上った新支那の誕生を見る。茲に、近くは満洲事変を一転機として宣揚せられるに至った我が八紘一宇の精神の重大な意義が存するのである。
 「八紘一宇」の精神は、今日我が日本が歴史的使命を遂行せんとする大精神であるが、同時に我が古典の精神であり、光輝ある国史を貫く精神であって、今日に於いて突兀として現れ出でたものではない。「八紘一宇」とは、八紘即ち天の下を一つ宇(いへ)とするの謂であって、中心が樹ってその道義が外に向って天の下に光被してゆくことを意味し、内に対する精神がそのまま外に対して発現することであって、内外一貫する精神であることを注意しなければならない。
 今日、日本精神を叫ぶ壁は高く、新時代の指導精神を要求すること切なるものがあるが、日本精神とは今日の精神として考へられるものであり、国民精神の今日に発現せるものと云ふべきである。我等国民が常に守持するところの精神は、畏くも「国民精神作興に関する詔書」に於いて示したまへる国民精神に外ならない。これによって、今日の日本の精神を立てて之を表現する言葉の一つとして、「八紘一宇の精神」といふことが広く国民の脳裡に刻み込まれると共に、此の言葉の現す精神が、今日の日本の皇道世界宣布の姿として顕現せられるに至ってゐるのである。従って八紘一宇と云ふ言葉は、今日の指導精神を最も具体的に表現したものであって、古典に於ける精神が、同時に今日の精神となるものであることを示してゐるのである。
 

 「八紘一宇」とは天下を一つの家とするという意味で、今日の日本が「皇道」なるものを世界宣布=世界に布教する姿だ、と述べられています。
 中心がそびえ立ち、その教義だか思いこみだかが光線になって周囲の下々を照らすなどと、安い宗教画みたいな事を言っています。

 これだけではいささか抽象的なので、具体例を探すとこんな事が書いてあります。
二 八紘一宇の詔 (抜粋)
   この言葉は「日本紀」に拝する神武天皇の大和橿原の皇都御建設の大詔に基づくものであって、御即位前2年3月7日にお下しになった。此の詔には、(漢文省略)
    われ東に征きしより茲に六年になりぬ。皇天(あまつかみ)の威(みいきおひ)を頼りて、凶徒(あだども)就戮(ころ)されぬ。辺土(ほとりのくに)未だ清(しづ)まらず。余(のこりのわざはひ)はなお梗(こは)しと雖も、中洲之地(なかつくに)復風塵(さわぎ)なし。誠に宜しく皇都を恢廊(ひらきひろ)め大壮(みあらか)を規慕(はかりつく)るべし。…(中略)…
 然して後に六合(くにのうち)を兼ねて、以て都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、また可(よ)からずや。
と仰せられて、国の中心たる畝傍山の東南橿原の地に都を御治定遊ばしたのである。…(中略)
…これによって神武天皇は六合の中心に都して天業を恢弘し、天下に光宅し給はむがために、御東征遊ばしたのである。皇兄、皇子共に御心を一つにせられ、上下和合し、此の和合によって一丸となり、長期にわたる建設の御軍を進めさせられることとなった…(中略)
…これは単に天の下を合せて一とするといふことでもなければ、四海みな並列して妥協を事とするといふことでもなく、津々浦々まで悉く皇都と同様に皇化に浴せしめ、地の果海の極まで一家として御稜威(みいつ)を布き給はむとする大精神をお掲げになったものである。(後略)  

 神武天皇が威力を頼って、「凶徒」つまり逆らった人達を殺して東征したと言っています。要は戦争して支配下に置いたという事です。
 これをもって神武天皇が「八紘をおおって宇と為す」(八紘為宇)と言った、ことになっています。

 この神武東征を指して、「津々浦々までことごとく皇都と同様に皇化に浴せしめ」つまり同化を強いて、「御稜威」なるものを敷いた、と言っています。
 御稜威(みいつ)という言葉も当時よく使われましたが、『「いつ(厳)」の尊敬語。御威光。御威勢。』(大辞林)という意味です。
 同じく「厳(いつ)」を大辞林でひくと『@神聖であること。斎み清められていること。A勢いの激しいこと。威力が強いこと』とあります。
 要するに「ウチの大将の神聖な威光と威力」というほどの意味ですね。

 つまり、この内閣情報部パンフによれば、神武天皇の八紘一宇とは「抵抗者を戦争で倒して天皇の威力の下に敷き、神聖だと拝ませて同化を強いた」という事です。
 日本書紀の読み方として正しいかどうかは問題ではありません。このような意味で当時の日本帝国政府が「八紘一宇」の語を使っていた点が重要です。

 もう少しだけ続きを見てみます。

三 御稜威の光被 (抜粋)
 …ここに東亜建設の重責に任ずる我が日本の皇道建設理念を宣示し、東亜民族をしてその所を得しめ、その生を遂げしめるための創造、建設を示す大旆となるのである。  
…我が八紘一宇の大精神は、御稜威の及ぶ所、御慈愛の被る所を国内に限り、我ひとり立つことを欣ぶ心意と異なり、…実に我等国民の仰ぎ奉る御稜威の下に天下の民を更正せしめ、我が大御稜威を仰がしめ、我が光栄を頒ち共にせむとするのである。
…日本は東洋平和のために戦ひ、…満洲事変に始まり今日の支那事変に及んで、我が道義を世界に示し、東亜建設に邁進しつつあるのである。
 新興満洲国が天皇の御稜威の下に「一徳一心」の道義国家を樹立し、今日の艱難に堪へ、光栄と試練との道を共に進みつつある所以もまたここに存する。

 更に上の説明が補強されています。
 「わが八紘一宇の精神」なるものは、この御稜威=神聖な天皇陛下の威力と威光を、日本国内に限らず地球全体に拡張して、天皇の威光で諸国民を「更正」し、天皇を御稜威(二重装飾かな)として仰がせる一つの家つまり家父長体制のサル山にする、と言っています。
 その模範として、傀儡国家「満州国」を例に挙げています。


 以上をまとめると八紘一宇とは、
「天皇を崇めさせ日本帝国を頂点として同化を強いる家父長的世界征服」
と理解できます。

 過剰に肥大したプライドの腐臭に鼻がひん曲がるばかりです。
 右の写真は植民地下の朝鮮で撮影されたもので、少しずれた画角で撮影されたものがあちこちで見受けられるため「撮影会のヤラセ」と思われますが、これと同じ事を占領地でもやらせた為、特に他宗教の信仰が篤い所では「異なる神を礼拝させた」として激しい反発を買ったと言います。

 日本帝国に無条件降伏を迫ったポツダム宣言第6条(下記)は、日本帝国は世界征服を目論んでいたと決めつけています。
吾等は無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至る迄は平和、安全および正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以て、日本国国民を欺瞞し、之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は永久に除去せられざるべからず
 日独伊三国軍事同盟第2条で世界再分割を意図する条項(欧州/「大東亜」における互いの「指導的地位」を認め尊重する)を入れ、実際にそれに沿って世界戦争をやらかしたのだから、世界征服の挙に出たと言われても仕方がありません。
 その同盟締結の詔書で八紘一宇は皇祖皇宗の大訓だとか、意図を同じくする独伊両国との提携協力などと言ってしまった以上、「八紘一宇って世界征服の事じゃないか!」と言われても否定は無理筋というものです。



 政治に使う言葉は、政治的に使われた歴史的文脈で理解されます。
 いくら「本来の意味」と称して別の意味づけを強弁しようと、かつて公式かつ大々的に使われた意味にも解釈されるのは避けられません。
 一度付与された意味は、消すことができないのです。少なくとも、問題となる意味づけを視界の脇に追いやれるほど強い影響力のある別の使われ方をしない限り、問題となる意味づけが力を失う事はありません。
 「平和」という言葉が時々「積極的平和主義」などと某国首相に逆の意味で乱用されるのと違い、「八紘一宇」の最も頻繁な使い方は圧倒的に「日本帝国の家父長的世界征服」で、これは到底ひっくり返りません。無力化できるような材料がないのです。

 しかも「八紘」という言葉は 『広く漢籍や漢訳仏典にみることができる』 『中心から放射状に広がるものとして構想された、極めて中華思想的特徴を持っている』 (北條、前掲、P85) という、はじめから自民族中心偏重の腐臭ただよう代物なので、「本来の意味」も逃げ場になりません。

 他に代わる言葉があるのにわざわざ軍国主義の手垢が染みわたった言葉を使う理由はなく、百害あって一利もありません。それでも敢えて使い、社会的受容をなし崩しに進めれば、それに付随する歴史的意味の受容に手を貸す事になります。
 強い国が弱い国を助けろと言いたければ「相互扶助」と言えば済む話です。「世界は一家、人類はみな兄弟」とTVCMを大量に流していた右翼の大物が昔居ましたが、この言い換え?でもいいではないですか。

 「大東亜戦争」など他の言葉にも同じ事が言えます。代わる言葉が他にあるのに、わざわざ汚れた歴史を背負う言葉を使う必要は全くありません。
 あるいは旧軍が用いた旭日旗のように、代わる旗がデザインされず未だに用いられているものについても、軍国主義の過去ときれいに切り離しけじめをつける意味で、早急に「代わる物」を考案したほうが精神衛生上好ましいでしょう。

 そのような軍国主義の手垢にまみれた言葉をわざわざ用い、「混乱の時代にあって、人々を救済するスローガンだったと思う」などと口走るような危険人物を国会に座らせておいてよいのか、有権者一人ひとりが心して考え直すべきではないでしょうか。



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