トップページ > アジア太平洋戦争 >

終戦時の証拠隠滅



 日本帝国の無条件降伏から70年を迎えようとする2015年の8月10日、読売新聞の1面に右のような記事が出ました。

 朝日、毎日、読売などの新聞には縮刷版というものがあります。過去の新聞を縮小印刷して月ごとに製本したもので、大きな図書館にはたいてい置いてあります。
 この記事ももちろん読売新聞の縮刷版に収録されており、図書館に行けば原文を読むことができますが、この記事で奥野誠亮なる人物がこんな事を言っています。

占領前 文書焼却を指示

元法相 奥野誠亮さん (102)
 「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結方針をまとめてもらいたい」。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。
 そこで、灘尾弘吉内務次官の命を受け、内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった私が各省の官房長を内務省に集め、終戦に向けた会議をひそかに開いた。
 もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。
 会議を終え、公文書焼却の指令書を書いた。ポツダム宣言受諾のラジオ放送が15日にあることも聞いていたので、その前に指令書を発するわけにはいかないが、準備は整っていた。

 この奥野という人物は、戦後自民党国会議員となり、国土庁長官時代の1988年5月に靖国神社を公式参拝したあげく「"大東亜戦争"は侵略じゃなかった」と国会でやらかして長官辞任に追い込まれています。
 日本帝国に不利な証言を捏造するような人物ではありません。

 ではなぜ、このような歴史的戦争犯罪の証拠隠滅などという悪業を、いけしゃあしゃあと語れるのか。
 それは、この組織的焼却事件がとっくの昔におおっぴらになっているからに他なりません。
 八月十四日の御前会議で終戦の聖断が下された。陸軍中央部では聖断に従い、皇軍の最後を清くする旨の大臣、総長の訓示があった。しかしながら、市ヵ谷台上(引用者註;陸軍省)には誠に慌しい空気が漂うた。同日夜、台上のあちこちでは終夜夥しい書類を手当り次第に焼いていた
林三郎(元阿南陸軍大臣秘書官)著 『太平洋戦争陸戦概史』 岩波新書、1951年 P292
 資料の収集と利用には非常な苦心をした。というのは、ほとんど大部分の資料が敗戦と共に焼かれてしまい、また残っているものも、その利用にいろいろな制限がもうけられているからである。
同書 P1-2

 阿南陸相は終戦時の陸軍大臣です。大蔵省では、当時の大臣自身がこんな赤裸々な証言をしています。
…内閣の中でやることも、ほとんど新聞に発表しないことが多く、記録に残らず、実行して闇から闇に葬られることも相当あったと思う。
 私もご承知のとおり終戦直後、資料は焼いてしまえという方針に従って焼きました。これはわれわれが閣議で決めたことですから、われわれの共同責任のわけですが、あの当時、当然アメリカだけが来て今日のような態度でやってくれるということがわかっておれば問題はなかった。なにもそれほど用心する必要はない。
 その当時の予想としては交戦国のいずれが来るか、全然わかっていなかった。おそらく中国、アメリカ、ソ連と皆来るであろう。もっともソ連も満州でやったようなあんなむちゃをやるとは、当時は思わなかった。ソ連とは最近まで、条約によって戦争はなかった。逆に中国は満州事変、支那事変で先方において恨みを抱いておることが相当あって、中国が来たら相当の仕返しをするだろうということを一番懸念していた。そういうことが一番の恐れであった。
 そういうわけで資料は全部焼くという大方針が決まったわけであるが、閣僚各自、自分の持っているものを焼こう。軍の関係あるいは各省関係の書類についても同様の措置を採ろうというので、それぞれ所管大臣から命令を出して、できるだけ早く焼いてしまえと通達したわけですから、残ったものはあまりないであろうと思う。
広瀬豊作氏(終戦時の大蔵大臣)発言 大蔵省大臣官房調査企画課編 『聞書戦時財政金融史』 大蔵財務協会、1978年 P140-141

 防衛省も認めています。
 平成8年(引用者註:1996年)4月末、自衛隊市ヶ谷駐屯地で、終戦時焼却された筈の旧陸軍文書が焼け残った状態で大量に発見された。防衛研究所戦史部は、これらの史料を「市ヶ谷台史料」と命名し、平成9年度(引用者註:1997年度)から本格的な修復作業を実施中である。以下、この「市ヶ谷台史料」の発見から修復にいたる経緯と史料の内容についてその概要を紹介する。

一、昭和20年(引用者註:1945年)8月14日、日本政府は閣議でポツダム宣言受諾を決定するとともに重要機密文書の焼却を決定した。これに伴い陸軍は各部隊、官衙、学校などに機密文書の焼却を指令した。陸軍省、参謀本部など陸軍中枢機関の所在した市ヶ谷台では数日にわたり大量の秘密文書が焼却された。
溝部竜 『史料紹介 市ヶ谷台史料』  防衛省戦史研究所 「戦史研究年報」 第1号(1998年)収録

 証拠文書焼却の命令書自体も焼却の対象とされていたようで、殆んど現存していませんが、あちこちに痕跡は残っています。

第十八条 復員部隊の保管し又は貸与を受けある機秘密書類は其の要度に応じ復員完結迄に逐次之を処理するものとす
アジア歴史資料センター Ref. C15010406800 帝国陸軍復員要領 陸軍大臣発

ス憲作命第23号に対する細部指示
17. 書類は人事、功績、暗号等必要最小限に残置し、日常服務に関するものは全部焼却す 陣営具類は其侭保管するものとす
アジア歴史資料センター Ref. C14110644700 スマトラ憲作命第23号 第25軍憲兵隊命令 P5

焼却の理由  昭和二十年八月十五日停戦の詔書を拝し事態の急変を知り、諸情況を考察すると共に師団の電話指示ならびに将校会報に於て示達さるるに及び、前記立会人監視の下に焼却せり
アジア歴史資料センター Ref. C15010424500 書類焼却証明書 第110師団工兵隊

      

 焼却は連合国から資料保存の命令が来る前の隙をついて行われたためか、処罰されなかったようです。
 裁判所が焼却意図の確証まで押さえていたら、焼却指示者も厳罰に処せられていたかもしれません。
 …東京裁判の判決には次のような一節がみえる。
    裁判所にとつては、日本の陸海軍、外務省、内閣、その他政府の政策樹立機関の重要な公式記録の原本の多くが存在しないという不利があった。ある場合には、写であるといわれるものが提出されたが、何かの価値のあることが分かるかもしれないから、そのために受理された。公式記録の存在しないのは、日本に対する空襲中に消失したことと、降伏後に陸海軍が故意にその記録を破棄したこととによるとされた。 〔中略〕
 これらの書類がこのようにして破棄されたのではなく、この裁判所に提出されないように抑えられているということがわかつたならば、国際正義のためにとつて、著しい害が加えられたことになるであろう
吉田裕 『現代歴史学と戦争責任』 青木書店、1997年 P136-137


 ここでは、組織的文書焼却が行われた事を納得していただくために最小限の引用・紹介に留めます。
 これでもかという位エビデンスを見たい方は、 「ekesete1のブログ」2015年8月25日の記事「敗戦時の文書焼却・隠蔽」 に紹介されていますのでご覧ください。


証拠は「ない」のではない。「公文書が焼かれた」もしくは「公文書が見つからない」だけ


 歴史的事実を否定したい向きが、よく「証拠がない」と騒いでいます。「証拠がない」と騒ぎ続け、やがてそれを「事実がない」にすり替えてくる手口の物言いが絶えません。

 確かに、加害者が事件から時を置かず自分自身に不利な記述を自由に書き残した文書には、決定的と言っていいほど高い証拠能力があります。
 当サイトも、この理由から日本帝国当局が残した当時の文書に重きをおいています。

 しかし、だからといって、日本当局以外の文書や、被害者をはじめとする当事者の証言、物証などに証拠能力がない訳ではありません。
 時々、被害者の証言に対して「それは証言に過ぎない」と謎の反論?をしている手合いが居ますが、証言も証拠なので「それは証拠に過ぎない」と言うに等しく、意味不明です。文書よりも入念な吟味は必要ですが、証言同士の整合性や独立性、裏付けなどを吟味すれば充分に採用できるもので、頭から否定するのは被害者たる証言者への侮辱でもあります。厳に慎まねばなりません。

 日本帝国の戦争犯罪や所業について、内部文書が残っていないのは、上に見た通り大量の公文書が焼却隠滅されたからです。
 従い、「残されているはずの該当公文書がない」事は、事件の事実関係を否定する根拠になりません

 そういう場合は、関係者の証言や物証、日本帝国の公文書以外の文書をかき集めて判断すればよいのです。それで満足すべきです。加害者側文書で確認できないのは、上に見た通り加害者の責任です。



トップページへ  『アジア太平洋戦争』トップへ