押しつけ憲法論がダメなこれだけの理由今の憲法は恥ずかしい、と放言して憚らず、立憲主義をまるで理解していない輩が首相になる時代を迎えてしまいました。 日本国憲法は、日本を破滅に追い込んだファシズムの当事者、信奉者が至る所に健在だった時代に、彼らの意に全く沿わない民主主義の平和国家を建設するために作られました。意に沿わない憲法が押しつけに映るのはある種のトートロジーに過ぎず、彼らは昔からずっと同じ恨み言をたれ流し続けています。 戦後70年以上を経て、当事者の殆んどは鬼籍に入りましたが、中途半端な後継者が未だに右画像のようなプロパガンダをたれ流しています。右の絵は自民党が作成した漫画政策パンフレットで、悔しがっているのは小手先改憲案をGHQに蹴られ対案を突きつけられた松本烝治国務大臣ですが、連中も70年以上ずっとこういう心境なのでしょう。 しかし、連中がいくらけなしても悔しがっても、この憲法下で日本が復興し、再び戦禍を蒙る事もなく、GNP世界第二位に到達する繁栄を手にした輝かしい実績はひっくり返りません。 国をダメにする憲法だったら、先進国の仲間入りなどできる筈ないではありませんか。 改憲しない事によって、日本国民はこの憲法を半世紀以上にわたり選び続けてきました。もはや制定時の経緯に関係なく、この憲法は主権者の自主的な意志で存在する自主憲法です。そういう次第で、今さら押しつけられて作った云々とほじくり返す事に何の意味もないのは明らかですが、そもそも本当に連中の言う通り「押しつけ」られて作ったのでしょうか?ケチのつき所は少ない方が良いので、いま一度検証してみましょう。 結論から言えば、「押しつけ憲法」論は歴史的にも誤りです。
ポツダム宣言にはこう書いてありました。 受諾した以上遵守するのは当然で、遵守して独立回復するには国家体制すなわち憲法を条件通りに変えるしかないのも自明でした。後から文句を言える筋合いはありません。
これだけでおしまいでも良いのですが、ついでに経緯も見てみましょう。
1月24日に幣原首相が秘密裡にマッカ−サー元帥を訪問し、象徴天皇制と軍備放棄を申し入れたうえで、「国体の変更」は日本人から言い出せないのでGHQから命令を出す形にして欲しいと要請しています。幣原は死の10日ほど前、元秘書官の平野三郎(後に衆議院議員、岐阜県知事)にこう語っています。
現実社会のしがらみが無くなってから別々に公表された当事者双方の発言が一致しており、かつ幣原発言は側近への内密の話で嘘を言う動機が無く、マッカーサーの記述は"手柄"を相手に渡す内容です。 マッカーサーは既に同様の発言を1951年5月、米国上院の公聴会で行っていますが、幣原が秘密裡に上の経緯を言い残して逝去した2ヶ月ほど後の事でした。 マッカーサーが芝居がかった人物だったとの評はあちこちの文献で目にします。また、回想記の類はそのまま信用できないとの指摘もあります。 GHQ民政局で憲法草案起草を務めたスタッフの内、リーダーのケーディスを含め何人かが幣原提案説を否定している、という話もあります。 しかし、であればなぜ両者が自分の得にならない話を創作し、しかも内容が一致するのか、エビデンスを備えた合理的な説明が必要です。 民政局スタッフの証言は反証になりません。マッカーサーがこの極めて高度で機密の約束を部下に対しても悟らせなかった事の証左、と解釈できるからです。 幣原の主導を示唆する、第三者によるこんな証言も残っています。
そして、その後の展開を解釈するうえでも諸々の辻褄が合います。 マッカーサーが本国に対し天皇を裁判にかけないよう強く進言したのが1月25日。 腹心のホイットニーに自らの憲法制定に関わる権限の報告を求めたのがちょうどこの頃、回答が2月1日。 民政局に憲法草案の作成を指示したのは2月3日、GHQが憲法草案を日本政府に示したのは1946年2月13日で、天皇の地位と憲法をめぐる状況はこの幣原・マッカーサー会談直後から急展開しています。 首相が大臣を罷免できない明治憲法の制約下で、幣原は当初は反対と言いつつ主導権を確保し、最後には問題児の松本大臣もまるめこんで、内閣をこの案で取りまとめています。 (末尾の年表参照) 実際の経緯は複雑で、イチゼロで割り切れないでしょうが、象徴天皇制による民主主義の実現と戦争放棄・軍備放棄の2つの柱を日本側の幣原首相が言い出したのは事実である、と考えるのが自然ではないでしょうか。
つまりGHQ草案はたたき台が日本人作成であり、まるきり外国製ではないのです。 こう言うと、政府案である松本案と民間の案を同列に並べるな、と言い出す御仁が出てきそうです。 この批判は成り立ちません。 1. 松本国務相がGHQに出して蹴られたナンチャッテ改憲案は閣議決定を得ていない。幣原首相の真意とも異なり、日本政府の正式な意思とは言えない。 2. 当時の内閣は勅命での組閣であり、選挙による国民支持の裏付けがない。国民を代表し得る度合いにおいて、在野有識者を圧倒できる根拠はない。 そしてこの事は同時に、たった1週間余で起草したにも拘らずGHQ草案が質を保っていた事を説明しています。評価済みのたたき台があったのだから、「1週間余で作られた素案は粗雑な出来に違いない」との予断は根拠を失います。
松本烝治国務相一行にGHQ草案を提示したホイットニー准将は、草案の位置づけをこう述べています。
つまり、内閣は拒否もできたが、拒否すればGHQから発表され世論に主導権を奪われるので呑んだというのが顛末です。
GHQ草案を和訳してそのまま国会に出したのではありません。政府提出案はGHQ草案とあちこち異なっており、中には外国人の人権のように後退している点もあります。 実例を見るのがもっとも手っ取り早いでしょう。橙色はGHQ案→政府案の、紅色は政府案→現行憲法の内容変更箇所です。 特に9条の修正は後の首相・芦田均による芦田修正と呼ばれており、自衛隊を成立させる隘路を作ったとも言われています。
(2)で述べた幣原提案と、(3)で述べた憲法研究会案が、GHQ草案にきれいにつながります。ご確認ください。
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